軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

08.誰が彼らを無能にしたのか

「お姉ちゃん、今いいかしら」

夜、執務室に現れたフルールは、教会のマザーによる教育の賜物だろうか。きちんと扉をノックしてから入室することを覚えたようだった。

「構いませんよ」

最低限の礼儀を身につけたことに安堵しつつ、てっきり「勉強したくない」と喚き散らされるものと身構えていた私は、彼女の次の一言に拍子抜けしてしまった。

「……お姉ちゃんは、どうやって魔法を勉強したの?」

「魔法?」

「うん。魔法は貴族のものだから、マザーにも分からないって。でも、お姉ちゃん言ったでしょ。私の緑魔法なら、果物をおいしくできるはずだって」

「……ええ、言ったわね」

「私、それをやってみたいの……でも、どうすればいいのか分からないのよ」

村の子どもたちと泥にまみれて過ごすうちに、彼女は自分の置かれた立場を客観的に理解し始めたらしい。自分を誇示するためだけに使われていた緑魔法を、いかにして領民のために役立てるか。

そんな前向きな好奇心で、彼女は小さな胸を躍らせるまでになっていた。

この頃には、私も十歳も年の離れた妹に対して大人気なかったと自省し始めていた。父や継母への遠慮から、当主として彼女の教育を放置していた自らの不手際を、認めざるを得なかったのだ。

それ以来、私たちは週に一度、魔法の練習を共にするようになった。

私が生き残るために家事の中で磨き上げてきた、精密な魔法の技術。

それを彼女は素直に称賛し、尊敬し、憧れの眼差しで追いかける。

芽吹かない種を前に「役立たずだって、お姉ちゃんに捨てられたくない」と泣きじゃくりながら、爪の間に泥を詰まらせて一日中地面に這いつくばるその姿に、先に根負けしたのは私の方だった。

「絶対にお姉ちゃんの役に立って見せるわ」と品種改良の研究に没頭するその小さな頭を撫でてやると、彼女は丹精込めて育てた花が綻ぶような、眩い笑顔を私に向けた。

ある日の午後。

執務室で継母とレンタルドレス事業の打ち合わせをしている最中に、私は少しうたた寝をしてしまったようだ。

「ねぇ、お姉ちゃん。今度の春の限定品についてなんだけども……あら」

目が覚めたとき、視界を覆っていたのは柔らかな桃色のショールだった。ふわりと鼻を掠める甘い香りは、継母が好んで使っている香油の匂い。

私はいつの間にか、執務机からソファへと運ばれていたらしい。

「お、お継母さま。失礼いたしました、お話の途中に……!」

慌てて体を起こすと、眼鏡をかけて書類を読み込んでいた継母がゆっくりと顔を上げる。

「もう少し休んでいてもよかったのよ?」

そう言う彼女の手元には、会議の前には無秩序に積み重なっていた書類が美しく整理され、必要な項目の記入まで済まされていた。

かつては料理の一つもできず、煤にまみれ、絶望に暮れていたあの指先が、今は迷いなくペンを走らせている。

もともと審美眼に定評のあった彼女だ。

私のバックアップを受けて始めた店は、最高の滑り出しを見せていた。おかげで嬉しい悲鳴ではあるのだが、年度の変わり目の事務処理が、私の肩に重くのしかかっている。

「お姉ちゃん、また寝ないで仕事をしているのでしょう」

「……春までに国への報告資料も提出しなければならず、少々立て込んでしまいまして」

継母は温かい紅茶に、顧客から差し入れでもらったという貴重な砂糖菓子を添えて、私に勧めた。

躊躇いながらも一つ口に含むと、頭の芯に残る疲れを解きほぐすような上品な甘さが、舌の上でさらさらと溶けていく。

「……信用ならないかもしれませんけれど。もう少し、私を使い倒してくださって構いませんのよ」

継母は気まずそうに視線を泳がせながら、「当主の身なりがボロボロでは、私の面目も立たなくってよ」と、どこか言い訳めいた口調でこぼした。

「……もう、お継母さまにはいろいろお願いしておりますから」

「だとしてもよ。あなたがそれ以上に抱え込んで眠れていないのなら、もっと適切に割り振って頂戴……私だって、これくらいはできるのですから」

私は手元のショールをぎゅっと握りしめた。

耳まで赤くして視線を逸らす継母の前で、その言葉を噛み締めるように静かに頷いた。

「お姉ちゃんの指示どおりに作った 洋梨の果実酒(ポワレ) が成功したよ!」

「まぁ!」

お父さまに任せた主産業のワイン改良は、歴史がある分、既存の品を超える壁は存外に高かった。

そちらの試行錯誤は続けつつも、フルールが挑戦している品種改良の副産物を活用できないかと、父に持ちかけてみたのだ。

「葡萄酒よりも飲みごたえはないんだが、味としては悪くないと思う……ただ、売り出すならもう少し品質を上げてからになるだろう。ソフィーの魔法は、歴史に名を残す宮廷魔導士レベルの神業だ。私には、そこまでの才能がなくってだな……」

申し訳なさそうに、作業で荒れた指先をいじりながら私の顔色を伺う父。その横から、フルールが弾けるような勢いで身を乗り出した。

「協力してくれた工房の方々も仰ってました! 葡萄酒よりも飲みやすいから、女性や地元の人々が日常的に楽しめるお酒として、喜ばれるかもしれないって!」

その言葉に、私の秘書よろしく傍らに控えていた継母が、眼鏡をくいっと押し上げて補足した。

「…もし高品質のものができれば、社交界でも浸透するかもしれないわ。夜会ではお酒を嗜むのも淑女の作法ですけれど、強いお酒に気後れしてしまう方は意外と多いの。飲みやすくて美味しいお酒は、それだけで選ばれる価値があるわ」

「……よろしい。お父さまは、引き続き 洋梨の果実酒(ポワレ) の品質向上に注力してください」

「はいっ!」

その日の晩、父への褒美に、普段よりも豪華な祝宴を用意した。

家族だけの小さなお祝いだというのに、継母は「せっかくだから」と私に流行のドレスを着せ、髪を香油で梳かして華やかに巻いてくれた。

家族全員が体裁を整えた装いで食卓を囲むのは、どこか夢を見ているような、不思議な光景だ。

最高級の牛肉を使ったワイン煮に、採れたての新鮮なサラダ。フルール曰く、領内で一番評判だというパン屋のバゲット。父の得意料理となった、透き通ったコンソメスープ。デザートには、継母の伝手で王都より取り寄せた、色とりどりの可愛らしいケーキ。

「お姉ちゃん、これも食べてみて! 私が育てて、摘んできたサラダだよ!」

「あら、デザートもたっぷりありますから、お腹は残しておいてね。お姉ちゃん、栗のケーキも好きだったでしょう?」

次々と私の皿に料理を取り分けてくる二人に、私は思わず苦笑を漏らした。

父は、私が一口スープを運ぶたびに、試験の結果を待つ子どものように顔を強張らせている。

執務室で書類を前に、ただ栄養補給として摂取するだけの時間が、今やこれほどまでに騒がしく、温かい。

あれほど傲慢だった彼らが、今や私の一挙手一投足に怯え、そして私の「言葉」一つで救われたような顔をする。

私は彼らを許したわけではない。

心の支えだった母の形見が戻るわけでもない。

けれど。

無様なまでの努力の痕跡を隠そうともしない、父の無骨に荒れた指先や、不慣れな事務作業でインクの染みた継母の指、土だらけになったフルールの爪先を見ていると。

――――復讐心とは別の、奇妙に冷めた「納得」が胸に落ちていくのを感じた。

これまで彼らが無能だったのは、私がすべてを一人で完璧にこなしすぎて、彼らの成長の機会を奪っていたからかもしれない。

……あるいは、私が彼らを信じることを、最初から諦めていただけだったのか。

立ち上る湯気の向こうで、フルールと継母が笑い合っている。父は黙々と目の前のご馳走を、一口一口噛みしめるように味わって、満面の笑みだ。

各々の仕事の進捗報告で盛り上がる食卓を眺めながら、私も手元にあるとろけるほど柔らかい肉を、そっと口に運んだ。

肉の旨みのせいか、それとも家族の明るい声のせいか。

鉄の仮面を被っていたはずの私の口元が、ほんの少しだけ緩むのを自覚した。

以前は想像もできなかった、喉を通る料理の温かさ。

――次は、私も我が領の名産のワインを飲んでみようかしら。

今の私なら、初めてのお酒も、少しだけ美味しく感じられるかもしれない。