作品タイトル不明
05.修道者は悲哀に暮れる
「おおお、修道者様、感謝致します」
「次の人がお待ちですので、場所をお空けください」
さっさと退けと言っているのに、老人は動こうとしない。
器に煮炊きしたものを入れ、順番に手渡しているところだった。
大量に作っても数には限りがある。
ほしい人には並んでもらい、鍋の底が見えれば終了だ。
いやな行事は早く終わらせたかった。
「いつもありがとうございます」
「っ……」
空いていた手を握られ、顔に嫌悪感が浮かびそうになる。
直前に何を触っていたのかわからない手。
望んでもいないのに体温を感じさせられ、鳥肌が立つ。振り払いたい衝動を堪えるのがやっとだった。
(これだから炊き出しは嫌いっ)
準備の重労働も、貧しい人との交流も。終われば後片付けが待っているのも。
ただでさえスカスカの自分から、これ以上、何を搾り取ろうというのか。
(わたしは、あの子とは違うの!)
笑顔になんてなれない。
こんな生活に楽しみなんて見いだせなかった。
走って逃げ出したい。そんなことは先輩シスターが許してくれないけれど。
(早く放して!)
老人は何度も自分の手を握る。若い肌を懐かしむように。
気持ち悪かった。
普段と違うことがあれば先輩シスターが止めに入ってくれるのに、これぐらいなら大丈夫だとスルーされているようだ。
(こんなときに限って!)
やっと次の人へ替わっても、胸のむかつきは治まらなかった。
炊き出しが終わるなり、井戸へ走る。
縄の付いたバケツを水に落とし、滑車から垂れ下がる縄を引いた。急げば急ぐほど、縄で手のひらが擦れる。重いし、痛い。けれど水がなければ手は洗えないのだ。かじかむ手を懸命に動かす。
汚れを落としたかった、記憶ごと手を綺麗にしたかった。
水の冷たさで、触れた見ず知らずの体温の生暖かさを消し去りたかった。
「ふっ……」
最後、井戸の縁で水をこぼしては台無しだと慎重にたぐり寄せる。失敗した経験は何度もあった。
急く気持ちを抑え、地面へ無事バケツを着地させて、やっと止めていた息を吐けた。
あとは手を洗うだけだ。
透き通る水の清らかさに涙がこみ上げてくる。
「っ、ううっ……」
今までだってつらいときはあった。数え切れないほど。
けれど、どれだけ経っても心が慣れない。
冷水が縄で擦れた皮膚に沁みた。
記憶は上書きできても、決して癒やしてはくれないのだと、視界が滲む。
それでもないよりはマシで、何度も水をかけ、手を擦り合わせた。
バケツの底が見えて、人心地つく。
「もう嫌……」
ポロリと溢れた言葉。
それが皮切りとなり、逃げたい衝動に駆られる。
一秒たりともこの場に、修道院に留まっていたくなかった。
(自由がほしい)
頭の中で、地図を描く。
修道院は敷地を囲うように、石で塀が造られていた。人の背丈の二倍はあり、簡単に越えられるものじゃない。
外への出入り口は、表にある門だけだ。炊き出しが終わった今、門は固く閉じられ、鍵がかけられている。門から出るには鍵を入手するしかない。
(けど鍵は先輩シスターが肌身離さず持っているし……)
まるで誰一人、逃がさぬように。
「だから、わたしが何したっていうのよっ」
身も心もボロボロだった。
おさまっていた涙が溢れ、袖で強引に拭く。
こうなったら何がなんでも抜け出してやる、と近くの塀を見上げた。
足場がなければ、登るのは難しい。登ったところで、向こう側へ下りる手立てもなかった。
(どこか、傷んでるところはないかしら)
女手しかない修道院。
建物の補修も、基本的には自分たちだけでやる。先輩シスターたちは慣れているとはいえ、所詮は素人の仕事だ。全てを把握しきれているとは思えない。
長年の風雨でもろくなっている場所はないか。
人一人、通り抜けられるぐらいの穴は開けられないか。
自分は大柄ではないし、修道院へ移り住んでから痩せた自覚もある。大きい穴は必要ない。
塀に指をかけ、崩れそうな場所を探す。文字通り手探りだ。
くぼみに指をひっかけては力を加えた。
想像以上にビクともしなくて、ガッカリする。
けれど諦めたくなかった。今すぐは無理でも、時間をかければどうにかなると自分を鼓舞する。
一日、一週間、一か月、時間はいくらでもかけられるのだから。
(他のシスターが通らない場所……)
物陰になっている塀へ足を進める。
すると考えが功を奏したのか、指をかけた部分に崩れる感触があった。
石壁のほんの表面には過ぎないけれど、もろくなっているのは確かだ。
塀に齧り付き、状態を見る。
(やったわ! ここよ!)
確認すれば隙間を埋めている小石もなくなり、僅かな空間が生まれていた。
何とか向こう側の状況を知れないかと、覗けるほどの穴を探す。
(見付けた!)
と思った矢先。
目が合う。
生きている、人の目だった。