軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第14話 勘違いの終わり。ファンサじゃないの?

第一王子たちが這うようにして去ってから、数日が過ぎた。

辺境の城には、ようやく平穏らしい平穏が戻ってきていた。

王都からの新たな使者はまだ来ないし、男爵家からの追加の手紙もない。城の使用人たちも、張り詰めていた空気が少し和らいだのか、最近はよく笑うようになった。

そして、何より一番の変化は、クライヴ様の『呪い』が、静かに、しかし確実に薄れていたことだ。

右腕に刻まれていた黒い痣は、もう肘のあたりまでしか残っていない。

顔色もすっかりよくなったし、彼の周囲に漂っていたあの禍々しい瘴気も、今ではごく微かに揺らぐ程度だ。

おかげで何が起きたかというと――

私の最推しの作画(美貌)が、毎日限界突破して更新されている。

「今日も顔が良すぎる……作画コストどうなってんの……」

私は廊下の角で掃除をしながら、うっかり小さく呻いた。

いや、本当にどうかしている。

もともと人間離れした美形だったのに、呪いが解けるほどに本来の美貌が何のフィルターもなく前面に出てきて、最近では彼がただ歩いているだけで周囲の空気が華やぎ、後光が差しているレベルに達していた。

夜の闇を切り取ったような黒髪は艶を増し、苦悩による目元の陰は薄れ、肌の色も健康的になっている。

しかもその上で、以前より感情表現が増えたのだ。ほんのわずかに笑う。少しだけ眉を下げる。そして、私を見る時だけ、妙に目元が甘く、やわらぐ。

そんなものを毎日至近距離で浴びせられて、平常心でいられる限界オタクがどこにいるだろうか。

少なくとも私は、毎日心停止寸前だった。

「リアナ様?」

後ろからメイドに呼ばれ、私はビクッと跳ねてはっとする。

「はい! なんでしょう!」

「旦那様が、中庭のテラスでお待ちです」

「……はい?」

「お仕事の合間の休憩に、お茶をご一緒にと」

最近、これが多い。

お茶を飲む。

散歩に付き合う。

書庫で本を選ばされる。

私の刺繍の色味について真剣に意見を求められる。

食後の甘い果物を、「お前が食え」と半分こちらへ寄越される。

どれもこれも、家族か恋人にするようなことで、それが自然すぎて、なおさら困る。

しかも私は、あの広場での特大イベントでもう知ってしまっている。

これが“領主としての厚遇”でも“公式からのファンサ”でもない可能性が、非常に高いことを。

いや、可能性どころではない。

広場であんな熱烈なキスをされたのだ。いくら私でも、さすがに少しは理解した。

クライヴ様は、私に本気だ。

……本気、なんだよね。

たぶん。

きっと。

おそらく。

だが、そこまで理解してもなお、私の頭のどこかでは未だに「でも相手はあのラスボス辺境伯(推し)だし……」「私の供給過多で脳が都合よく誤作動してるのでは……」という、オタク特有の自己防衛と逃避が残っているのだ。

そんな半端な覚悟のまま、中庭へ向かった私は、案の定、また心臓に悪い光景を見ることになった。

夕暮れの中庭。

白い石のテーブル。

湯気の立つ高級なティーポット。

そして、椅子に深く腰掛けて、優雅に本を読んでいたクライヴ様が、私の足音に気づいて顔を上げる。

「来たか」

たったそれだけの低い声で、胸が甘く鳴る。

「お、お待たせいたしました、旦那様」

「いや。今来たところだ」

クライヴ様は本を閉じ、自分の向かいの席を目で示した。

「座れ」

私は素直に従った。

風は冷たかったけれど、今日の夕方は不思議と穏やかだった。薄紫と茜色に染まる空の下で、ティーカップから立つ湯気だけがふわりと揺れている。

この数日、こういう時間が増えた。

戦いのような激しさはない。ただ穏やかに、同じ時間を共有する。

それだけなのに、私の心の奥が、やわらかく、満たされていく。

クライヴ様が、自らの手でカップを差し出してきた。

「熱い。気をつけろ」

「はい」

受け取りながら、私は彼の気遣いに、つい微笑んでしまう。

「……今日も、過保護ですね」

「何か問題があるか」

「いえ。とってもありがたいですけど」

すごく。

でも、いちいち心臓はもたない。

私が一口お茶を飲むと、クライヴ様はカップを持ったまま、静かに、じっと私を見つめてきた。

「何だ」

「え?」

「さっきから、お前の顔が妙だ」

「妙?」

「赤い。熱でもあるのか」

まただ。

最近、このやりとりが多すぎる。

私はごまかすように、慌てて視線を逸らした。

「その……ちょっと、思い出してしまって」

「何をだ」

「いろいろ、です」

広場での出来事、とか。

“愛しい妻”発言、とか。

あの、息もできないくらいのキス、とか。

口に出した瞬間に恥ずかしさで死ねるので、絶対に言わない。

クライヴ様はしばらく私を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。

「まだ、あの広場での一件を引きずっているのか」

「そりゃ引きずりますよ!」

思わず、食い気味に声が大きくなる。

「だってあんなの、普通にモブとして生きてて経験しませんし……!」

「普通とは」

「バカ王子の前で『愛しい妻』とか宣言されたり、何百人もいる皆の前で、その、き、キスとか……!」

言い切った瞬間、今度は自分で赤くなる。

やってしまった。

口に出してしまった。

だが、クライヴ様は少しも気まずそうにしなかった。

むしろ、何を今さらというように、ごく自然に頷く。

「ああ。あれか」

ああ、じゃない。

私は片手で顔を覆いたくなるのを堪えた。

その時。ふと、あまりにも穏やかな空気に油断したのか。それとも、私のオタクとしての防衛本能が暴走したのか。

私は、うっかり余計な本音をこぼしてしまった。

「……でも、あの時のクライヴ様も、すごかったです」

「何が」

「ファンサが」

――沈黙。

中庭の空気が、ピタッと止まった。

私はカップを持ったまま、完全に石像のように固まった。

しまった。

今、言った。

言ってしまった。

よりによって、本人の目の前で。

恐る恐る顔を上げると、クライヴ様が、スッと目を細めて、じっとこちらを見ていた。

「……ふぁんさ」

地を這うような低い声で、復唱される。

だめだ、逃げたい。

「ええと、あの、なんというか……」

「説明しろ」

「いえ、その、悪い意味ではなくてですね!」

私は必死に取り繕った。

「クライヴ様が最近あまりにもお優しくて、私を大事にしてくださるので、その、こう、推しからの特典が豪華すぎるというか……! 夢のような対応だなと……!」

「特典?」

「いえ、だからその……」

うまく言えない。

というか、言えるわけがない。

推しからの優しさや、あの激重な愛情表現を、全部“ファンサ”として処理して逃げていたなんて。

しかも、ついさっきまでちょっと本気でそう思って自己防衛していたなんて。

だがクライヴ様は、意外にも何も言い返さなかった。

ただ、しんとした、底知れない暗い目で私を見ている。

その静けさが逆に怖くて、私は慌てて笑って誤魔化そうとした。

「ほ、ほら、私、昔からそういう殿方からの扱いとかに慣れてなくて……ちょっと言葉選びが変で……」

「リアナ」

低く、名前を呼ばれる。

それだけで、喉がキュッと詰まった。

クライヴ様は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

私は反射的に背筋を伸ばす。

一歩。

また一歩。

長い脚でテーブルを回り込んで距離を詰められ、気づけば私の椅子のすぐ前に立たれていた。

「ク、クライヴ様……?」

「立て」

「え」

「こっちへ来い」

有無を言わせない口調だった。

私は混乱したまま立ち上がったが、その直後、ぐいと手首を強い力で引かれた。

「ひゃっ」

驚く暇もなく、そのまま中庭に面した彼の私室のほうへ、強引に連れて行かれる。

待って。

待って待って。

どこへ?

なぜ?

ファンサ発言、そんなにまずかった!?

バタン、と重い扉が開き、気づけば私はクライヴ様の広い私室へ引き込まれていた。

夕暮れの薄明かりに、暖炉の火が静かに揺れている。いつもなら落ち着くはずのその部屋が、今日は妙に、逃げ場のない檻の空間に思えた。

背後で、扉が閉まり、鍵がかけられる音がやけに大きく響く。

「クライヴ様、あの、私」

振り向いた瞬間、また一気に距離を詰められた。

背中が、すとん、と柔らかな大きな寝台の端に触れる。

そして次の瞬間には、私はそのままの勢いで、寝台へ後ろへ押し倒されていた。

「きゃっ……!」

ふかりと沈む、高級な寝具。

上から落ちてくる、巨大な男の黒い影。

両脇を、クライヴ様の逞しい腕が完全に塞いでいる。

逃げ道がない。

私は目を見開いたまま、目前に迫る彼の美貌を凝視するしかなかった。

「ク、クライヴ様……!?」

「……いつまで」

ひどく低い声だった。

けれどそれは、これまで私が聞いたどんな怒りの声よりも、黒く、甘い熱を帯びていた。

「いつまで私を、手の届かない 偶像(アイドル) 扱いするつもりだ」

どくん、と心臓が跳ねる。

偶像。

その言葉に、私の喉がきゅっと鳴った。

見透かされている。

全部。

私がどこかでずっと、この人を“ゲームのキャラクター”として、“最推し”として、現実の恋愛とは別枠の、安全な場所に置いていたことを。

近づいて、触れて、守りたいと願いながら、それでも最後の最後では「手の届かない存在だから」と理由をつけて、彼と向き合うことから逃げていたことを。

「私は……」

言葉が出ない。

クライヴ様の瞳は、今まで見たことがないくらい暗く、雄の熱を帯びていた。

「厚遇?」

低く問われる。

「ふぁんさ?」

今度は少しだけ、傷ついたような皮肉を含んで。

「……冗談じゃない」

寝台に片膝をついたまま、クライヴ様は私を完全に閉じ込めるように顔を寄せる。

「私は一度も、そんなくだらない『ごっこ遊び』のつもりで、お前に触れたことはない」

息がかかるほど近い。

頭が真っ白になる。

「お前が私を見て笑えば嬉しい。怯えれば腹が立つ。誰かがお前に気安く手を伸ばせば、今すぐその手を叩き落としてやりたくなる」

一つ一つの言葉が、重い。

甘いとか優しいとか、そういう軽いものじゃない。

もっと深くて、濃くて、逃げ場のない、どす黒い執着の熱だ。

「お前が別の男を見るだけで、気に食わん。狂いそうになる」

「……っ」

「お前のことを考えずにいられた日など、ここに来てから一日たりともない」

私は息もできずに、その言葉の豪雨を浴びていた。

これが。

これが、彼の本気。

あの広場で“愛しい妻”と言われた時も、あれは私を守るための建前じゃなく、全部本気だったのだと、今さら嫌というほどわかる。

クライヴ様は、私の頬に指先でそっと触れた。

ひやりとした感触なのに、なぜか焼けるみたいに熱い。

「……最初はお前が私をどう見ていようと構わないと思っていた」

掠れた声が、私の唇に落ちる。

「推しだろうが、偶像だろうが、何でもいい。ただ、私のそばにいてくれるなら、それでいいと」

その瞳が、さらに暗く細められる。

「だが、もう限界だ。私をただの『推し』などと呼んで、安全圏に逃げるのは許さない」

胸が苦しい。

怖いわけじゃない。

でも、あまりにも真っ直ぐで巨大な感情すぎて、私のキャパシティではどう受け止めていいかわからない。

「私は、お前を一人の女として見ている」

はっきりと、宣告された。

「守りたい。甘やかしたい。抱きしめたい。口づけたい。……お前のすべてを、私のものにしたい」

言葉の熱量に、頭が完全にくらくらする。

「……そして、誰にも触れさせたくない」

最後の一言が、とどめみたいに胸の最奥へ落ちた。

これは、もう。

どう聞いても。

どう受け取っても。

推し活ではない。

ガチの求愛だ。

そこまで認識した瞬間、全身の血が一気に顔へ集まり、沸騰した気がした。

「っ、ちょ、ちょっと待ってください!」

私は、彼の手を軽く押し返して、ようやく声を絞り出した。

「待てると思うか」

「思ってください!」

半泣きで言うと、クライヴ様の眉がわずかに寄る。

「……何がそんなに怖い」

「怖いっていうか、違うんです、そうじゃなくて!」

「なら何だ。私が嫌か」

「情報量が多いんです!」

我ながらひどい答えだと思う。

でも本音だった。

「だって私、クライヴ様のこと、ずっと遠くから推しとして見てて……でも好きで、大事で、守りたくて、でもそれと『こういうの』は完全に別枠で……なのに急に全部一緒に来るから、頭の処理が追いつかなくて……!」

言えば言うほど、オタク特有の早口になり、混乱がひどくなる。

けれどクライヴ様は、私の意味不明な言葉を黙って聞いていた。

私は震える息を整えながら、どうにか続ける。

「広場でのあれから、もしかして本気なのかなとは、薄々思いました。でも、まさかここまでとは思わなくて……!」

「ここまで、とは」

「こんな……こんな、大人の男の人の顔で、見られてるなんて思わないでしょう!?」

叫んだ瞬間。

クライヴ様の瞳が、わずかに揺れた。

その完璧な顔が、ほんの少しだけ、傷ついたような、痛みに似たものを帯びる。

「……そうか」

低く、静かな声。

「お前にとって私は、そこまで現実味のない、ただの絵空事だったか」

「ち、違います!」

私は慌てた。

彼を傷つけたいわけじゃない。

そんなつもりじゃないのだ。

「現実味がないんじゃなくて……その、私のほうが、恋とか、誰かに本気で求められるとか、そういうものに慣れてなくて……!」

「……」

「クライヴ様は、ずっと特別だったんです。最初から。でも、私にとって特別すぎて、どうしたらいいかわからなかっただけで……」

言いながら、自分でも気づく。

ああ、私はこの人を最初から特別だと思っていた。

ゲームの『推し』だから、だけじゃない。

この人自身を、傷だらけで不器用な彼を、ずっと大事に思っていたんだ。

ただ、それを『恋愛』として認めて踏み込むのが、自分が変わってしまうようで、怖かっただけで。

クライヴ様はしばらく私を見つめ、それから、ゆっくりと身を起こした。

寝台での拘束が、少しだけ緩む。

「……すまない」

不意にそう言われて、私は目を瞬かせた。

「え」

「お前を、無理やり追い詰めたいわけではない」

その声はまだ黒い熱を帯びていたけれど、先ほどまでの獣じみた圧は、ほんの少しだけ引いていた。

「だが、私が真剣に与えているものを『ファンサ』などという言葉で誤解されたままでも、いられなかった」

それは、痛いほどわかった。

私が“ファンサ”なんてふざけた言葉で逃げたせいだ。

そりゃあ、不器用ながらに本気で愛を伝えようとしていたこの人からしたら、黙っていられるわけがない。

私は寝台の上で身を起こしながら、混乱したままクライヴ様を見上げた。

彼は一歩だけ距離を取り、それでもまだ、私をこの部屋から逃がさないように立っている。

その姿がひどく切実で、胸がきゅうっとする。

「……クライヴ様」

「何だ」

「その、私、今すぐきれいに答えられる自信はないです。まだちょっと脳がパニックなので」

「……」

「でも、ファンサだとは、もう絶対に思ってません」

頬が熱い。

けれど、自分の言葉で、ちゃんと言わなきゃいけないと思った。

「あなたが、私にちゃんと本気なんだって、わかりました」

クライヴ様の瞳が、静かに揺れる。

「だから、少しだけ……私の中で整理する時間をください」

逃げるためじゃない。

ちゃんと、あなたと向き合うために。

それが伝わったのか、クライヴ様は長い沈黙のあと、かすかに息を吐いた。

「……わかった」

短い返答。

でもその声には、押し殺した熱がまだ濃く残っている。

「ただし」

やっぱり、この独占欲の塊の男は、ただでは引かないらしい。

「お前がどれだけ時間をかけようと、私が諦める気はない」

心臓が跳ねる。

「その間も、お前を妻として甘やかすのをやめるつもりもない」

「や、やめてもらっても、心臓がもたなくて困りますけど……!」

反射で言ってしまってから、私ははっと口を押さえた。

クライヴ様の目が、ほんの少しだけ細められる。

「……そうか」

「違っ、違くはないですけど、そういう意味ではなくて!」

「十分だ」

困ったような、でもどこか心の底から満足げな響きだった。

私は真っ赤になりながら、寝台の端で固まるしかない。

するとクライヴ様は最後に、もう一度だけ私へ手を伸ばした。

びくりと肩が揺れる。

けれど触れたのは私の頬ではなく、乱れた蜂蜜色の髪を、そっと耳にかける優しい指先だった。

「今夜は、これ以上何もしないでやる」

低く、耳元で告げる。

「だが。……お前が答えを出した時、次は絶対にベッドから逃がさん」

「っ……」

「覚悟しておけ」

その甘すぎる一言に、私はとうとう返事もできなくなった。

こうして。

私の長かった、都合のいい「推し活勘違い」は、とうとう終わった。

これはもう、推し活ではない。

ファンサでも厚遇でもない。

私は今、まぎれもなく一人の大人の男から、本気で求められ、囲い込まれている。

しかも相手は、私の最推しのクライヴ様だ。

こんな事実、心臓がいくつあっても足りるわけがない。

けれど同時に、胸のどこかで確かに思ってしまっていた。

――逃げられない、じゃない。

ほんとは私、もう彼から逃げたくないのかもしれない。

その甘い答えを、まだ私は口にできないままで。

ただ熱くなった頬を押さえながら、寝台の上で呆然と、愛おしそうに私を見るクライヴ様を見上げることしかできなかった。