軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第27話 女騎士の真価、王子の後悔

目の前に、いきなり現れた。

そうとしか思えなかった。

アーヴィン・レグナードは、尻餅をついたまま、呆然とその女騎士を見上げていた。

青い髪が、夜風に揺れている。

白と青の刺繍が入ったドレスは裾を破られ、もはや社交界の華やかな装いではなく、戦うための形へ変わっていた。

その手には剣。その足元には、真っ二つになった魔物の死骸。

もし、彼女がいなければ。

その考えが、遅れてアーヴィンの背筋を冷たく這い上がった。

あと一瞬遅ければ、あの牙は自分の喉を裂いていたかもしれない。

「……っ」

喉がひりつく。

情けない悲鳴を上げた直後だからか、声が上手く出ない。

それでもアーヴィンは、どうにか立ち上がった。

膝が少しだけ震えているのを、無理やり無視する。

「れ、礼を言う」

威厳を取り戻すように言ったつもりだった。

だが、声はまだ少し掠れていた。

リュシア・エルフェルトは、そんなアーヴィンに対して、騎士らしく一礼した。

ドレスを着崩した格好のまま、けれど礼だけはひどく綺麗だった。

「いえ。緊急事態のため、このような格好で戦場に立つことをお許しください」

その言葉に、アーヴィンは一瞬だけ返事に詰まる。

許すも何も、今この場でそれを咎められる者などいない。

自分を救った相手に向かって「格好がどうだ」などと言えるはずがなかった。

だがリュシアは、もうアーヴィンを見ていなかった。

彼女はすぐに戦場へ視線を戻した。

混戦の前線。押し込まれつつある騎士たち。魔物の群れ。

そして、本来の指揮官だった騎士と視線を合わせる。

「第二騎士団所属のリュシアです」

よく通る声だった。

戦場の喧噪の中でも、言葉がぶれない。

「指揮官。私に遊撃の許可を。魔物の殲滅に尽力します」

その場にいた者たちが、一瞬だけ彼女を見る。

遊撃。つまり、一人で前線を駆け、混乱した戦場を抜け、魔物を削ると言っているのだ。

アーヴィンも、本来の指揮官も、その意味はすぐに理解した。

だが、理解したからこそ、指揮官の表情は苦くなった。

「……ダメだ」

低い声で言う。

「許可はできない。今、あそこに行くのは無謀だ」

彼は前線を睨んだまま続けた。

「まず騎士たちを退かせる。前線を整え、隊列を作り直してから戦うべきだ。今は混乱しすぎている」

それは正論だった。誰が見てもそうだ。

実際、アーヴィン自身も、もう自分で指揮を執り続ける自信が失われていた。

さっきまでの勢いは消えている。

魔物に迫られ、死を目前にして、ようやく自分がどれほど危うい橋を渡っていたか理解し始めていた。

「騎士を退かせるのは賛成です」

あっさり言う。

しかし次の言葉は譲らない。

「なので、退かせるための助力をいたします」

その言い方は静かなのに、引く気配がない。

遊撃する。それが自分の役目だと、もう決めている顔だった。

一瞬だけ、指揮官とリュシアの間に、無言の圧が走る。

止めるべきか。行かせるべきか。

その睨み合いを破ったのは、男の声だった。

「リュシアを行かせてください」

上から声が降ってきた。

その場の何人かが反射で顔を上げる。

夜空の中に、人影があった。いや、浮いている。

外套を揺らしながら、宙に浮かぶ男。

ノアール・レイモンドだ。

彼は魔法で身体を支えているのか、空中からそのまま降りてくる。

音もなく着地した姿は、騎士とは違う意味で場違いだった。

だが、その落ち着きと存在感は異様に強い。

「宮廷魔術師、ノアール・レイモンドです」

一礼し、真っ直ぐに指揮官を見る。

「指揮官。ぜひ彼女に遊撃の許可を」

本来の指揮官は、眉を寄せた。

「宮廷魔術師……」

王子ではなく、宮廷魔術師。しかもレイモンド伯爵家当主。

無視していい相手ではない。だが、それだけではない。

ノアールの声には、ただの横槍ではない確信があった。

指揮官はリュシアを見る。ノアールを見る。

そして前線を見る。魔物に押され、崩れかけている騎士たち。

沈黙の後、指揮官は短く言った。

「……わかった。許可する」

リュシアが、即座に頭を下げる。

「感謝します」

その一言の直後――彼女の姿が、消えた。

少なくとも、アーヴィンの目にはそう映った。

次の瞬間にはもう、そこにいない。

白と青の残像が、視界の端に引っかかった気がした程度だ。

「なっ……」

アーヴィンが、思わず声を漏らす。

だが前線を見た時、ようやく理解する。

いた。前線の只中。

白と青のドレスを着たまま、リュシアが舞うように戦っていた。

魔物の一体が、彼女へ飛びかかる。

だが剣閃はそれより速い。首が飛ぶ。

返す刃で横の魔物の脚を断つ。

体勢を崩したところへ踏み込み、喉を裂く。

速い。一人だけ、明らかに速かった。

周囲の騎士たちも戦っている。

だが、彼らの動きは「見える」。

盾を出し、槍を突き、刃を振るう。

その一つ一つは熟練していても、人間の範囲だ。

リュシアだけが違った。

距離の詰め方も、斬り返しも、次の敵への移り方も。

すべてが一段、いや二段は速い。

しかも、乱戦の中で一度も味方の邪魔をしない。

騎士の間を抜け、魔物だけを切り捨てていく。

本来の指揮官も、目を見開いた。

「……なぜ、あの者はあそこまで速い?」

近くにいたノアールが、淡々と答えた。

「彼女は身体強化魔法を使っています」

「身体強化?」

「はい。騎士で魔法を使う者はほとんどいないでしょう」

ノアールは前線から目を離さずに続ける。

「普通、魔法を使える者は、もっとわかりやすく便利で強い魔法を磨きます。火、水、雷など。そういう見栄えのするものを」

少しだけ口元を歪めた。

「だがリュシアは孤児院出身だった。自分が魔法を使えることすら、長い間知らなかった」

アーヴィンが、思わず聞き返す。

「……そうなのか?」

ノアールはちらりと彼を見る。

その視線に感情は薄い。だが説明はしてくれた。

「彼女が騎士団に入ったのは十五歳です。その時、身体能力が異様に高すぎるということで検査を受けた。そこで初めて、自分が無意識に身体強化魔法を使っていたと知ったんですよ」

アーヴィンは黙って前線を見る。

リュシアは、今も魔物を切り捨て続けている。

「それから三年」

ノアールは続けた。

「彼女は自分の魔法を、剣のためだけに磨いた。身体を速く、強く、しなやかに動かすためだけに。だから今の彼女がいる。身体強化魔法を極めた、唯一に近い騎士です」

本来の指揮官が、低く呟く。

「……化け物だな」

侮辱ではなかった。純粋な驚愕だった。

ノアールも、前線を見ながら思う。

(……ここまでだったか?)

彼はリュシアの強さを知っていた。

知っていたつもりだった。

だが今、目の前で見ているそれは、自分の認識を越えている。

速すぎる。強すぎる。

おそらく、今のリュシアはノアールの知る三年間より、さらに先へ行っている。

(あの強さは第二騎士団どころか、第一騎士団でも並ぶものはいないんじゃ……)

彼は、その理由を知らない。知るはずもない。

リュシアだけが知っている、もう一つの時間。

回帰前、処刑台まで駆け抜けた三年分の鍛錬と実戦が、今の彼女の剣に上乗せされていることを。

前線では、リュシアが次々に魔物を倒していく。

彼女が一箇所を切り開くたび、騎士たちが呼吸を取り戻す。

崩れていた線が、少しずつ整い始める。

「退け! 一度下がれ!」

「負傷者を後ろへ!」

「隊列を作り直せ!」

本来の指揮官の声がようやく通り始める。

さっきまで誰も聞く余裕がなかった命令が、今は届く。

ノアールは息を吐いた。

「俺もやるか――水よ」

彼の周囲に水が生まれる。

夜気の中で、透明な帯が浮かび上がる。

それが倒れている騎士を包み込み、滑るように後方へ運んでいく。

「傷の浅い者から運べ!」

「了解!」

「道を開けろ!」

ノアールの水魔法は精密だった。

ただ撃つだけではない。

人を包み、持ち上げ、揺らさずに運ぶ。

前線から負傷者を引き抜き、後ろへ流す。

それだけでも、戦場の密度が少しずつ下がっていく。

だがアーヴィンが見ているのは、ずっとリュシアだった。

強い。強すぎる。

最初に浮かんだのは、そんな単純な言葉だった。

女騎士で、あんなに。平民で、あんなに。

すごい、と素直に感心する気持ちすらあった。

だがそれ以上に、胸の奥に膨れ上がる感情がある。

(……なぜ、あの時)

訓練場で見た女騎士。

強いと聞いて、自分の手駒に加えようと思った。

だが断られた。その瞬間、自尊心が傷ついた。

平民の女に断られた。

それが腹立たしくて、興味を失ったふりをした。

「出世欲のないつまらない女だ」と切り捨てた。

――だが。

(もっと強く誘っていれば……)

そう思わずにはいられなかった。

もっと粘っていれば。

もっと甘い言葉をかけていれば。

もっと彼女の立場に食い込んでいれば。

もし、リュシアを手中に収めていたら。

自分の剣にしていたら。

最初の魔物掃討作戦も、成功していたかもしれない。

あの沼地の失敗も、彼女がいれば覆せたかもしれない。

王都の外でこんな茶番を打つ必要もなかったかもしれない。

失敗の挽回に焦り、魔道具を盗み、魔物を呼ぶなどという愚挙をしなくてもよかったかもしれない。

(リュシアさえいれば……)

その考えが、頭の中で何度も響く。

なぜ断られたのか。

なぜ自分はあの時、もっと熱烈に誘わなかったのか。

なぜプライドを優先したのか。

目の前で、リュシアがまた一体斬る。

騎士を庇うように踏み込み、背後から迫った魔物を切り捨てる。

横へ流れ、別の一体の喉を裂く。

魔物が倒れるたび、騎士たちの士気が少しずつ戻っていく。

「すごい……」

「誰だ、あの女騎士は?」

「第二騎士団のリュシアだって」

「あの格好は?」

「美しい……まさに姫騎士だ」

ざわめきが、前線の空気を変えていく。

希望と驚きの混じったざわめき。

それを聞くたび。それを見るたび。

アーヴィンの中の後悔は、さらに深く抉られていった。

(あとほんの少しで、俺のものになったのに)

思考が、そこへ戻る。

支配欲と後悔と執着が、ぐちゃぐちゃに混ざった感情だった。

目の前でリュシアが魔物を斬る。騎士たちを助ける。

そのたびに、アーヴィンは思い知らされる。

こんな存在を、自分は手に入れ損ねたのだと。

そして今、自分の手の届かない場所で、その力は他者を救っているのだと。

それが、たまらなく耐え難かった。