作品タイトル不明
エピローグ
その夜は遅くまで起きていた。
召喚記録の復元作業。枢密院から提供された劣化した古文書の束を、記録親和の力で一枚一枚読み取り、日記帳に写し取る。百年分の記録。名前、日付、恩寵、任務、結末。ほとんどが「処分」か「任務中死亡」で終わる、重い記録。
作業も終盤に差しかかった深夜。最も古い年代の文書群に手をつけていたとき、一つの記録に目が留まった。
「召喚番号:CE-0467
召喚日:(十二年前の日付)
種別:転生型
付与恩寵:
任務:王国東方『灰鉄の回廊』攻略
結果:任務中死亡(第38層にて戦死と推定)
遺体回収:不能
備考:なし」
十二年前。ティナが六歳のとき。母アネットがまだ生きていた頃。
灰鉄の回廊。凍牙の迷宮とは別の、王国東方にある大規模ダンジョン。第38層にて戦死。遺体回収不能。備考なし。
――備考なし。この人の死について、枢密院は一言の注釈もつけなかった。
ティナは記録を日記帳に写し取り、次のページに進もうとした。
そのとき。
日記帳が、震えた。
これまでとは明らかに異なる振動だった。ルディのセーブデータの書き込みとも、コノハの文通とも、母アネットの隠しメッセージとも違う。もっと深い場所から。もっと遠い場所から――いや、もっと遠い「時間」から響くような、低く、長い震え。
ページが勝手にめくれた。白紙のページで止まる。
文字が浮かび上がってきた。
インクの色は褪せた灰色。筆跡は丁寧だが、ところどころ途切れている。文字そのものが古い。長い年月を経て劣化したように輪郭が薄い。しかし同時に、今書かれたばかりのような鮮度がある。古いのに新しい。過去の文字が、現在に届いた。
「32日目。第12層の安全地帯で休息中。
水は確保できた。食料は残り二日分。
明日から第13層に進む予定だが、正直厳しい。
単独攻略を命じられた時点で詰んでいる気がする。
……こんなことを書いても誰も読まない。
でも、書かないと自分が何をしているのかわからなくなる。
記録することだけが、今の自分を自分でいさせてくれる」
ティナの呼吸が止まった。
記録することだけが、今の自分を自分でいさせてくれる。
十二年前のダンジョンの奥で、一人で、誰にも読まれないと知りながら、それでも書き続けた人がいる。ティナが日記帳に本音を綴ったように。ルディがセーブデータに愚痴を書いたように。コノハが遺書を書いたように。
この人も――記録に、繋ぎ止められていた。
ティナは召喚記録に目を戻した。CE-0467。第38層にて戦死。
日記帳に浮かんだこの記録は、第12層の時点のものだ。32日目。この人はまだ生きている。まだ第12層にいる。ここから第38層まで進み、そこで死ぬ。
――でも、まだ死んでいない。
ティナは隣室の扉を叩いた。
「ルディさん。起きてください」
「……ん……何だ……」
「日記帳です」
それだけで十分だった。ルディは毛布を跳ね除け、書斎に来て、日記帳を覗き込んだ。灰色の文字を読んだ。
「……十二年前の記録。この人、まだ第12層だ。まだ生きてる」
「はい。この人は第38層で死にます。でも今この記録では、まだ第12層にいる」
二人は日記帳を見つめた。十二年前の文字が、ページの上で微かに光っている。
ティナはペンを手に取った。
あの夜と同じだった。見知らぬ誰かの記録が、日記帳に届いた夜。あのときティナは、意味もわからないまま返事を書いた。「ご無事ですか」と。
今夜もペンを構えている。しかし今回は、相手が「十二年前」にいる。
ティナは一行だけ書いた。
「あなたの記録が届きました。第13層に進む前に読んでください。
――第13層の入口右側の壁に罠があります。必ず左側を通ってください」
書いた瞬間、強い疲労が体を貫いた。視界が暗くなり、ペンを持つ指が痺れた。日記帳のインクが目に見えて減っている。たった一行に、これほどの魔力が。
「ティナ!」
「大丈夫です。……ただ、一日に書ける量は、これが限界のようです」
ページの上で、書いた文字が微かに光り――やがて滲むように薄れていった。インクが紙に染み込むのではない。文字そのものが、どこかへ向かって消えていく。過去へ。十二年前の、まだ生きている誰かの手元へ。
届くかどうかは、わからない。
ティナは日記帳を閉じなかった。開いたまま、机の上に置いた。
「……明日の朝、続きが届くかもしれません」
「届いたら」
「届いたら。この人が第13層の罠を避けたかどうかが、わかるはずです」
ルディは黙って頷いた。それから、ティナの肩にそっと手を置いた。
「寝ろ。明日に備えて」
「……はい」
ティナは灯りを消した。暗い書斎の中で、日記帳だけがほのかに光っている。十二年前の声を宿したまま。
眠りに落ちる寸前、ティナは思った。
この人は第38層で死ぬ。記録にはそう書いてある。
でも記録は――書き換えられるかもしれない。