軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

ルディ編 第四章 勇者の告白

ルディが書斎から北嶺営に戻るまでには、丸一日以上かかった。

ロッシュ辺境伯領から凍牙の迷宮の前線拠点まで、馬を飛ばしても丸一日。その間、パーティーメンバーはルディが「消えた」状態を体験していた。

時空が巻き戻った結果、フィン・ナディア・ベルントの記憶はボス部屋に入る前の時点に戻されている。三人にとっては「これから第20層のボスに挑む」瞬間のはずだ。しかし隣にいるはずの勇者がいない。ルディが忽然と消えている。転移魔法の残留魔力もない。ただ――消えた。

丸一日後。ルディが北嶺営に帰還したとき、パーティー三人が食堂で待っていた。

フィンは盾を傍に置き、椅子に座っていた。目が赤かった。泣いていたのだ。ルディが消えた一日の間、この真面目な新兵はダンジョン内を泣きながら捜索し続けていたのだ。

「勇者殿! ご無事でしたか! 自分、自分……」

言葉が続かない。フィンの声が震えていた。

ナディアがフィンの肩を押さえて座らせた。「まず話を聞こう」と低い声で言う。碧眼がルディを捉えていた。いつもの飄々とした態度ではない。

ベルントは記録帳を開いていた。ペンを構えている。しかしペン先が震えているのを、ルディは見た。

「ルディ」

ナディアが口を開いた。呼び捨て。いつも通りだ。しかし声の温度が違う。

「あんた、あの瞬間、目の前から消えた。魔法じゃない。転移術の残留魔力もなかった。あたしの目と鼻は誤魔化せないよ。――何が起きた」

三人の顔を見渡した。フィンの涙の跡。ナディアの揺るがない碧眼。ベルントの震えるペン先。

――ここで嘘をついたら、こいつらとの関係は終わる。

――でも本当のことを言ったら、こいつらの中の「勇者殿」が壊れるかもしれない。

どちらを選ぶか。ルディは数秒間目を閉じた。瞼の裏に浮かんだのは、ティナの文字だった。あの丁寧な筆跡。疑問符の数を怒り、文法の乱れを正し、その合間に「ご無事ですか」と書いてくる人。

日記帳の添削を通じて、ルディの中に少しずつ育っていた感覚があった。自分の本当の姿を見せても、離れない人間がいるかもしれない――という希望。ティナは、ルディのみっともない愚痴を一ヶ月以上読み続けて、一度も離れなかった。むしろ薬草茶のレシピを送ってきた。

目を開けた。

「……俺には、『定点回帰』っていうスキルがある」

三人が息を呑む音が聞こえた。ベルントのペンが止まった。

「HPがゼロになると――つまり、致命傷を負うと、セーブポイントに全回復で巻き戻る。時間ごと。お前たちの記憶も巻き戻る。だから俺が死んだことを、お前たちは知覚できない」

沈黙が落ちた。食堂のテーブルの上で、蝋燭の炎が揺れている。

「……ということは」ナディアが静かに言った。「あんたが"初見"で罠を避けたり、ボスのパターンを知ってたのは――」

「一回目で死んだからだ。二回目で覚えて、三回目でようやく避ける。そういうスキルだ」

フィンの口が開いた。閉じた。また開いた。

「えっ、えっ、えっ……」

パニック時の三連続。それから、搾り出すように聞いた。

「ゆ、勇者殿は……今まで、何回……」

「第20層まで通算で……20回」

本当はもう少し正確な数字を覚えている。しかしこれ以上の詳細は、今のフィンには重すぎる。

ナディアが腕を組み直した。碧眼の奥で何かが揺れていた。

「じゃあ――さっき消えたのは?」

「セーブポイントの座標がズレた。ダンジョン入口に設定していたのが、別の場所に移動していた」

「別の場所って?」

「……辺境伯領」

「あんた、死んで辺境に飛んだの?」

「飛んだ」

「なんで辺境?」

「…………事情がある」

「あー」ナディアの目が細まった。「お茶の匂い。辺境の薬草茶。"勇者殿の謎のお茶の先生"――繋がったわ」

ルディは反論できなかった。この女の観察眼は本当に手に負えない。

ベルントが沈黙を破った。ペンを止め、記録帳を見下ろしている。

「勇者殿。一つ確認させてください。――この話を、私は記録すべきですか」

事務的な声だった。事務的であろうとして必死に保っている声だった。

「お前の判断に任せる」

「……私の判断は――」

ベルントは眼鏡を外し、拭いた。拭いている間、表情が見えない。

「記録官としてはすべて報告すべきです。しかし――事実には、記録すべきものと、記録してはならないものがある」

記録帳を閉じた。パタン、という小さな音が食堂に響いた。

「今の話のうち、勇者殿の個人的な事情――辺境で何があったか、誰と繋がっているか――は記録しません。ただし、定点回帰のスキルについては、アンドレイ師団長への報告義務があります。作戦立案に直結する情報ですので。……これだけは、見逃せません」

ルディは少し考えてから、頷いた。アンドレイにスキルの詳細が伝わるのは時間の問題だった。むしろ正確な情報が伝わったほうが、無茶な作戦を押し付けられるにしても、まだ交渉の余地がある。

「わかった。スキルのことは報告してくれ。それ以外は――」

「閉じます」

フィンを見た。

フィンは黙っていた。さっきまで泣いていた目が、今は真剣そのものだった。ルディを真っ直ぐに見ていた。

「勇者殿」

「ああ」

「自分は……今まで、勇者殿の判断がいつも正しい理由を、"勇者の超直感"だと思っていました」

「……ああ」

「違ったんですね。勇者殿は――死んで、覚えて、やり直して……そうやって、自分たちを守ってくれていたんですね」

ルディの胸が軋んだ。

こいつの目から輝きが消えると思った。「完璧な勇者」が崩れたら、「勇者殿」は壊れると思った。

しかしフィンの目は輝いていた。以前と同じ――いや、以前より強い光で。

「自分は……すごいと思います。何度死んでも、立ち上がって、やり直して、自分たちを守る。それは"超直感"より、ずっとすごいです」

「……フィン、それは違う。俺はただ――」

「違いません!」

敬語が崩壊した。地の少年の声が出た。

「勇者殿が一人で辛い思いをしてたなんて――自分、全然気づけなくて……! 自分は盾なのに……! 勇者殿を守るためにここにいるのに、守れてなかった……!」

「いや、お前は――」

「これからは守ります! 勇者殿が死ななくて済むように、自分がもっと強くなります! だから――だから――」

フィンの声が震えた。涙がまた溢れていた。

「もう一人で死なないでください……!」

フィンが泣いた。ルディより先に泣いた。

ナディアが「泣くなフィン。あたしまでもらいそうになるだろ」と言いながら目元を拭った。

ナディアが口を開いた。

「あたしからは一個だけ。――あんたが何を隠してても逃げないって、前に言ったよね。あれ、本気だから。傭兵は契約を守る。そしてあたしの契約は『勇者を守ること』じゃない。『ルディの背中を守ること』だ。勇者じゃなくても、守る」

ベルントが閉じた記録帳を掲げた。

「私は、記録帳を閉じた人間です。つまり、記録官の前に、あなたの仲間でいることを選びました。――一度閉じた帳面を開き直すほど、私も節操なしではありません」

ルディは三人の顔を見た。

フィンの真っ直ぐな涙。ナディアの揺るがない碧眼。ベルントの閉じた記録帳。

――仲間。こいつらが、仲間。

前世にはいなかった。サークルの「仲間」は、ルディが雑用をやめたら離れていった。就活の「仲間」は、内定が出たら連絡が途絶えた。便利だから一緒にいただけの関係だった。

でも今目の前にいる三人は――ルディが「完璧な勇者」でないことを知った上で、ここにいると言っている。

ルディはマフラーに顔を埋めた。目の奥が熱い。泣くのは勇者らしくない。でも今は――今だけは――。

「……すまん。心配かけた。でも――」

マフラーの下で、声が震えた。

「お前らがいてくれて、助かってる。……ありがとう」

フィンが声を上げて泣いた。「勇者殿……! 勇者殿にお礼を言われるなんて……! 自分、頑張ります! もっと頑張ります!」

ルディも危うかったが、ここで泣いたら収拾がつかない。

ベルントが記録帳を開いた。全員が「えっ」と振り向いた。

「今の会話は――仲間としての記録です。報告書には載せません。私の個人的な日記に書きます」

「お前にも日記があるのかよ」

「記録官ですので」

「職業病だろそれ……」

笑いが起きた。食堂の中に、初めて「仲間の笑い声」が響いた。テーブルの上の蝋燭が揺れた。風もないのに、揺れた。

――そうだ。もう一つだけ。

「あと、ベルント。お前の記録帳にある"保留"の山だけど」

「……お気づきでしたか」

「"勇者殿、夜間に虚空に向かって指を動かす動作を確認。表情が穏やか"――それ、たぶんお前が思ってるやつだよ」

「……辺境の方と、虚空越しにやり取りを?」

「そう。見えない画面で文通してた。……はたから見たら相当やばい奴だったと思う」

「記録帳には『要精神鑑定の可能性あり。保留』と書いてありました」

「精神鑑定候補だったのかよ」

「取り下げます。理由が判明しましたので」

「そういう理屈の付け方するやつ、もう一人知ってるわ……」

ルディはティナのことを思い浮かべて、小さく笑った。合理的な理屈をつけて好意を隠す人間が、この世界にも二人いる。

その夜、ルディはテントに戻り、ステータス画面を開いた。ログ欄に一行だけ書いた。

「状態、良好。備考――帰る場所ができた。あと、仲間もできたかもしれない」

書いてから、もう一度読み返した。日記帳の向こうで、ティナがこの一行を読むだろう。読んで、きっと添削するだろう。「"かもしれない"は不要です。事実を書いてください」と。

ルディはそれを想像して笑った。

――ティナの添削が来る前に訂正しておくか。

ログ欄に追記した。

「訂正。仲間が、できた」

~~~

翌朝。ルディはステータス画面を開いた。

ログ欄には、昨夜の記録が残っている。そしてその下に――丁寧な筆跡の一行が追加されていた。

「添削不要です。――よかったですね」

ルディはテントの中で固まった。視界にはステータス画面だけが浮かんでいて、テントの薄い布越しに朝の光が差し込んでいて、外からフィンが盾を磨く金属音が聞こえていて、ナディアが欠伸をしている気配がして、ベルントが記録帳をめくる紙の音がしていた。

「添削不要」。ティナ・ロッシュが、ルディの文章を添削しなかった。初めてだ。あの辺境伯令嬢が、疑問符の数も、主語の省略も、ら抜き言葉も指摘しなかった。代わりに、七文字だけ添えた。

――よかったですね。

ルディはマフラーに顔を埋めた。

「……ずるいな、お前」

ステータス画面を閉じた。テントを出た。

朝の空気は冷たかった。北方の秋の空は鉛色に曇っていて、雪混じりの風が山の上から吹き降ろしている。いつもの朝だ。

フィンが盾を磨いていた。ルディの姿を見つけると、背筋を正して――しかし昨日までとは少しだけ違う、気負いのない笑顔で――「おはようございます、勇者殿!」と言った。声は相変わらず大きかった。

ナディアが黒パンをちぎりながら、目だけで挨拶を送ってきた。口は動かさない。いつもの省エネモード。しかし碧眼の中に、昨日まではなかった温度があった。

ベルントが記録帳を開いていた。ペンを構え、ルディの顔を見て、一言だけ告げた。

「おはようございます、勇者殿。――本日の天候、曇り。気温、低い。特記事項――なし」

「なし」。ベルントの記録帳に「なし」が記されるのは初めてだった。あの男は何かしら書かずにはいられない人間だ。「なし」と書いたのは、「今日は何も報告すべきことがない、平穏な朝だ」という意味ではない。「今日から、余計なことは記録しない」という宣言だった。

ルディは三人を見渡した。

「おはよう」

勇者としてではなく。ルディ・グラヴナーとして。

――前世の俺へ。こっちの世界でも色々あるけど、悪くないよ。飯は不味いし、上司は理不尽だし、何回も死ぬけど。帰る場所と、仲間と、日記帳の向こうに待ってる人がいる。

――お前が持てなかったもの、全部手に入れた。

――だから、もう少しだけ頑張る。

食堂に向かいながら、ステータス画面の備考欄に最後の一行を書いた。

「状態――まあまあ。死ぬかもだけど、帰る場所がある。だから大丈夫」

日記帳の向こうから、きっとこう返ってくるだろう。

「"まあまあ"は曖昧です。具体的に書いてください」

ルディは笑いながらダンジョンに向かった。

今日も死ぬかもしれない。でも今日は、一人じゃない。