軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九章 凍牙の迷宮攻略

出発の朝は、曇り空だった。

ロッシュ辺境伯領の北門。ティナ、ルディ、シーラの三人が装備を整えている。ティナはいつものエプロンドレスではなく、動きやすい旅装に身を包んでいた。腰には薬草のポーチ。背中には日記帳と攻略記録のノートを収めた革鞄。

「……ティナ、その格好」

「何ですか」

「いや……いつもと違うから」

「ダンジョンにエプロンドレスで行く人はいません」

「そりゃそうだけど」

ルディは何か言いかけて口を閉じた。言語化できない感情を飲み込んだ顔。ティナは見て見ぬふりをした。自分も、鎧姿ではなく旅装のルディを見て少しだけ動揺したので、おあいこだ。

見送りに来たのはホルストとアンドレイだった。

ホルストはティナの肩を軽く叩いた。

「ふむ。気をつけていきなさい」

「はい、父上」

「父さんは立派に留守番をする。帰ってきたら温かいスープを作っておく。――たぶん味は薄いが」

「父上のスープは薄くても美味しいです」

「お前は嘘が下手だなあ。母さん似だ」

ホルストの目がほんの少しだけ潤んだ。しかし涙は見せず、ルディに向かって言った。

「勇者殿。娘を頼む――と言いたいところだが、うちの娘は頼まれなくても一人で何とかする性格だ。だからこう言おう。娘の隣にいてやってくれ」

「約束します」

「ふむ。よろしい。――おにぎりを作っておいた。たぶん三角形にはなっていないが」

ホルストが差し出した包みの中には、楕円形の何かが並んでいた。ティナから聞いた概念を見よう見まねで再現した結果だろう。形は壊滅的だが、温かかった。

アンドレイが三人の前に進み出た。ルディに向かって言う。

「ルディ君」

「師団長」

「今回は死ぬな」

いつもの慇懃無礼な口調ではなかった。短い言葉。皮肉のない、剥き出しの声。

「……それは命令ですか」

「命令ではない。私個人の希望だ」

ルディは一瞬目を丸くした。それからぶっきらぼうに、しかし確かに頷いた。

「努力します、師団長」

「外部からの支援と撤退路の確保は、私が責任を持つ。――気をつけて行きなさい」

凍牙の迷宮。北方山脈の中腹に口を開けた巨大な氷の洞窟。入口から凄まじい冷気が吹きつけてくる。

ティナは生まれて初めてダンジョンに足を踏み入れた。書斎で日記帳を読みデータを分析し攻略記録を編纂した。しかし、自分の足で氷の通路を歩き、自分の肌で冷気を感じ、自分の目で暗闇を見つめるのは全く違う経験だった。壁の氷は青白く光り、吐く息が白く凍る。足元は滑りやすく、一歩ごとに神経を使う。

「……寒い」

「氷属性のダンジョンだからな。攻略記録にも『防寒対策:重ね着推奨』って書いてあっただろ」

「書いた本人が寒いと言っています。データと体感は違います」

「じゃあ攻略記録に追記しとけ。『体感温度はデータより10度低い』って」

「追記します。……本当に寒いです」

シーラは二人の後ろで壁の氷の結晶構造を観察していた。「この結晶配列は文献と一致しますね。魔力含有率が高い」とメモを取っている。寒さへの言及は一切ない。学者の集中力は体感温度を上回るらしい。

第21層。攻略記録の実地検証が始まった。

「通路A-3、天井に氷柱罠。重量50キロ以上で落下。――壁際を歩いてください」

「了解」

ルディが壁際を歩く。頭上で氷柱がきしんだが、落ちなかった。

「当たってた」

「当然です」

「いや当然じゃないだろ。お前、初めてダンジョンに来て、俺が何回も死んで覚えた罠を完璧に回避してる」

「あなたが何回も死んだ記録を、一行も読み飛ばさなかったからです」

第25層。ボス部屋の前。

「アイスヴァルキリー。弱点は火属性。物理無効。――第三フェーズの範囲攻撃に注意してください。予兆は左翼の氷柱が発光してから2秒後です」

戦闘が始まった。ティナの攻略記録通りに進む。右翼の氷柱を破壊。射線を限定。詠唱中に背面から接近。第三フェーズ移行――左翼の氷柱が光った。

「今!」

ルディが後方へ跳ぶ。範囲攻撃が炸裂。足元ぎりぎりまで氷の棘が迫ったが――届かなかった。直後の隙を突いて突撃、最後の一撃。ボスが砕け散った。

「第25層クリア。ロスト回数、0」

ルディは剣を収め、ティナを振り返った。

「お前の攻略記録、完璧だった。俺が3回死んで覚えたパターンを、お前は日記帳一冊で完璧にまとめた」

「あなたが3回死んだ記録を読んだからです」

ルディはしばらく前を向いて歩いた。それから、ほとんど聞き取れない声で呟いた。

「……お前に出会えてよかった。ってセーブデータに書いたら読まれるから、直接言う」

ティナは足を止めた。ダンジョンの通路には帳簿がない。顔を隠すものが何もない。仕方なく、正面から赤い顔を晒すことになった。

「……今の、日記帳に記録されてないですよね?」

「されてない。だから今だけだ」

「……ずるいです。本当にずるい」

シーラは三歩後ろで必死に笑いを噛み殺しながら、全てを論文用に記憶していた。

攻略は順調に進んだ。第30層。第35層。ティナの記録に従い、ルディは一度も死なずに層を突破していく。

コメディは欠かさない。ルディが中ボスを倒した後のドロップアイテムが甘味系の回復薬で、一瞬だけ顔が緩んだのをティナに目撃された。

「記録しますね。『勇者、ダンジョン中ボスを倒した報酬で最も喜んだのは甘い回復薬』」

「やめろ。歴史に残すな」

「記録親和ですから」

「それ都合よく使うのやめろ」

シーラが戦闘中にモンスターの生態をメモし始め、ルディが「今じゃないだろ!」と叫ぶ場面も。ティナがダンジョン内の薬草を見つけるたびに足を止めて採取し、「これは胃薬に使えます」「これは鎮痛剤の材料です」と嬉しそうにする場面も。

「ダンジョン攻略中に薬草摘み……」

「ダンジョンでしか採れない希少種です。見逃す手はありません」

「お前の攻略の動機、半分くらい薬草じゃないのか」

「三割です。残りの七割はあなたを死なせないためです」

「三割もあるのかよ」

ホルストのおにぎり(楕円形)は第26層の休憩時に食べた。ルディが「八十点」と採点しようとして、ティナの視線を感じて口を噤んだ。

「……美味しいです」

「素直でよろしい」

しかし――第40層を越えたあたりで、空気が変わった。

通路の壁が震えている。微かに、しかし継続的に。モンスターの気配とは違う、もっと根源的な振動。

シーラが水晶のレンズを取り出し、周囲の魔力を測定した。数値を読み取った瞬間、表情が変わった。いつもの好奇心に満ちた目が、険しい学者の目になる。

「ロッシュ嬢。ルディさん」

「どうしました」

「ダンジョンの魔力が不安定化しています。封印の劣化速度が――想定より速い」

「どのくらい速いんですか」

「このペースだと、封印が完全に崩壊するまで三日。三日以内に最深部に到達して封印記録を書き込まなければ、氷皇竜が完全に目覚めます」

三日。現在地は第41層。残り9層。一日三層のペースで進めれば間に合う。しかし余裕はゼロだ。

ルディは剣の柄を握りしめた。ティナは日記帳を開き、攻略記録のノートを広げた。

「第41層以降の最短ルートを再計算します。不要な戦闘は全て回避。ボス戦のみ最短手順で突破」

「了解」

「シーラさん、魔力の変動を随時報告してください」

「了解です」

三人の足が速まった。

もう笑い合う余裕はなかった。氷の通路を駆け抜け、罠を避け、モンスターの群れを迂回する。ティナの攻略記録が道を示し、ルディの剣が障害を切り開き、シーラの魔法が後方を守る。

第43層。第45層。第47層。

ティナは走りながらも日記帳を手放さなかった。ページをめくり、記録を確認し、声を出して指示を飛ばす。息が荒い。足が重い。薬草畑の日々で鍛えた体力がなければ、とうに倒れていただろう。

「ティナ、大丈夫か」

「大丈夫です。走れます」

「顔色が――」

「走れると言っています。心配は第50層に着いてからにしてください」

ルディは口を閉じ、ティナのペースに合わせて走った。彼女が倒れたら背負う準備はできている。しかし、この人はそれを許さないだろう。自分の足で走ると決めた人間は、最後まで自分の足で走る。ティナ・ロッシュとは、そういう人間だ。

第49層を突破した夜――残り一層。三人は最後の安全地帯で短い休息を取った。

氷の壁に背を預け、薬草茶を啜る。体は限界に近い。しかし精神は、不思議と澄んでいた。

「明日だな」

「ええ。明日、最深部です」

「ティナ。もし――」

「もし、は受け付けません。攻略記録に『もし』の項目はありません」

「……そうだな。悪い」

沈黙の中で、シーラが小さく言った。

「二人とも。――ここまで来られたこと、すごいことですよ」

「シーラさん……」

「私は学者です。データと理論で物を言います。だから言わせてください。ロッシュ嬢の攻略記録は、理論上は可能でしたが、実現するには三つの要素が必要でした。記録親和の力。勇者のセーブデータ。そして――この二つを結びつける信頼。あなたがたの間にそれがなければ、このダンジョンは攻略できなかった。これは学術的事実です」

「……ありがとうございます」

「いえ。――あと、これだけは先に言わせてください」

「何ですか」

「明日の戦闘中にメモを取ったら怒りますか」

「怒ります」

「ですよね。でも取ります」

「……シーラさんらしいです」

夜が明ける。最後の層への入口が、氷の光に照らされていた。

第50層。

最深部への扉。

ティナは日記帳を胸に抱いた。母の形見。自分の本音の居場所。ルディとの絆の証。そしてこれから――封印を修復するための道具になる。

ルディが剣を抜いた。ティナの前に立ち、背を向けた。

「行こう」

「はい」

扉が、開いた。