作品タイトル不明
第39話:一四六七年、「応仁の和議」成立
室町第の静まり返った一室に、分厚い和紙が擦れる乾いた音だけが響いていた。
細川勝元と山名宗全の目の前には、幕府の文官によって書き上げられたばかりの「誓紙」と「借用証文」の束が置かれている。
『幕府が用意する外洋船および火器の全てを借り受け、利を添えて返済すること』
『これに違背した場合は提督の座を剥奪し、領地をことごとく幕府に返上すること』
それは、武将の誇りを逆手に取った、完全なる経済的隷属の契約書であった。
勝元は、筆を握る右手が微かに震えるのを止められなかった。
隣に座る宗全もまた、証文を睨みつけたまま奥歯を強く噛み締めている。
彼らは天下を二分する大名であり、数万の兵を動かす権力者であった。
しかし今、彼らの軍隊は物理的な兵站を絶たれて瓦解し、頼みの綱であった精鋭たちも、幕府軍の圧倒的な火器の前に手も足も出ず散り散りになっている。
断れば、これまでに膨れ上がった戦費の借金で領地は差し押さえられ、一族は路頭に迷う。
彼らに残された道は、目の前の証文に判を押し、莫大な借金を背負って異国の海へ銭を稼ぎに行くという「超高給の奴隷」になることだけであった。
「……勝元。我らは、えらい女狐に魅入られてしもうたようじゃな」
宗全が自嘲気味に呟くと、勝元は深く息を吐き出し、覚悟を決めたように目を閉じた。
「戦場が野から海へ変わっただけのこと。この首と引き換えに莫大な富を得る機会を与えられたのだ。武士として、受けて立つほかなかろう」
勝元は目を開き、力強く筆を走らせて自らの花押を記した。
続いて宗全も、その横に堂々たる筆致で己の名を刻み込む。
上座からその様子を見下ろしていた日野富子が、満足げに扇子を閉じた。
「よう決断なされた。これよりはお二方が、我が幕府の誇る両翼でおじゃる。異国の波濤を越え、存分に武の誉れを立てなされませ」
「ははっ……!この勝元、粉骨砕身、将軍家と富子様のために身を尽くしまする!」
「この宗全の命、もはや富子様のもの!必ずや海の果てより黄金の山を持ち帰ってみせましょうぞ!」
二大巨頭が、将軍家の権威と圧倒的な経済力の前に完全にひれ伏した瞬間であった。
部屋の隅で、空気に徹して控えていた薫子は、静かに頭を下げたまま、心の中で快哉を叫んでいた。
『やった……!ついにやったわ!!』
薫子の胸の奥で、前世からの歴史オタクとしての魂が激しく打ち震えていた。
西暦一四六七年。
史実であれば、この年に彼らの対立が限界を超え、十数年にも及ぶ未曾有の大乱「応仁の乱」が勃発するはずであった。
京都の街は灰燼に帰し、天皇も将軍も権威を失い、日本は百年続く血みどろの戦国時代へと突入していく。
それが、歴史書に刻まれた絶対的な運命のはずだった。
だが今、目の前で武将たちが判を押したのは、宣戦布告の書状ではない。
彼らは武器を置き、経済の鎖に繋がれ、日本の国力を外の世界へ向けるための「和議」に合意したのだ。
後世の歴史書には、京都を焼き尽くした大乱ではなく、この日結ばれた『応仁の和議(東山和睦)』という言葉が刻まれることになる。
『これで戦国時代は来ない!日本の国力は内戦で浪費されることなく、全額ベットで世界へ注ぎ込める!』
薫子が幼い頃から積み上げてきた、途方もない歴史改変のパズルが、今ここで完璧に完成したのである。
最小限の流血と、計算し尽くされた物流と経済の支配。
それらが、歴史の巨大なうねりを完全に押し留め、武将たちの闘争心を太平洋の彼方へと向けさせたのだ。
「薫子。茶を淹れ直しなされ。新たな門出の祝いでおじゃる」
富子の穏やかな声に、薫子は恭しく一礼した。
「かしこまりました。至高の一服をご用意いたしまする」
名もなき小間使いの少女は、誰にも気付かれることなく、歴史の特等席で最高の勝利の美酒に酔いしれていた。