作品タイトル不明
第26話「喧嘩別れは流石にまずい!?」
「わからないならもういいです!!」
ばんっ、と机が鳴った。
セレフィーナが初めて感情を剥き出しにしていた。
図書室の空気が、ぴたりと止まった。誰もページをめくらない。誰も椅子を引かない。雨音だけが、窓を細かく叩いている。
セレフィーナは机に手をついたまま、肩を震わせていた。
怒っている——だけじゃない。
傷ついていた。
それも、ずっと前から積み重なっていたものが、今ようやく決壊したみたいに。
なのに俺は、その理由を半分も理解できていなかった。
「……なんで、そんな顔するんだよ」
思わずそう言ってしまったのだ。言った瞬間、自分でも最悪だと思った。でも、もう止まることはできない。
「俺、そんなに変なこと言ったか?」
「……変ですよ、何回も何回も、言われてきたでしょう、」
セレフィーナの声は低かった。
あまりにも静かだ。静かすぎて、逆に胸が苦しくなるような声だった。
「あなた、自分で何を言ってるかわかってないんですよ」
「だから、何が——」
「“誰にでも同じ”って、そんなの……!」
そこで彼女は言葉を切った。
唇を噛む。
白い指先が、本の端をぎゅっと握り締める。
「……そんなの、特別な人間からしたら、一番苦しいじゃないですか」
その言葉を聞いた時、胸の奥がどくりと鳴った。図書室の窓を、雨粒が強く叩く。さっきまで小雨だったのに、いつの間にか本降りになっていた。
灰色の空。
暗く沈んだ光。
世界そのものが、今の空気に合わせて曇っていくみたいに。
「特別って……」
「わからないなら、もういいです」
「よくないだろ!」
自分でも想像していないほど、強い声が出た。周囲の生徒がびくりと肩を揺らす。セレフィーナも、少しだけ目を見開く。
でも次の瞬間には、また冷たい顔に戻っていた。
「なんでお前、勝手に怒ってるんだよ」
「勝手……?」
「俺、お前に何かしたか?」
「しましたよ」
一秒も迷うことのない即答だった。
「ずっとしています」
「……何を」
「期待させるようなことを、いっぱい.......」
「は?」
「優しくして、助けて、隣にいて、大事だって言って——でも結局、誰にでも同じ」
セレフィーナの声が震える。
怒りで、悲しみで、そして........悔しさで。
「私は、あなたにとって特別だと思ってたんです」
その言葉に、今度こそ、俺は完全に言葉を失った。セレフィーナは俯いたまま続ける。
「……でも違った」
「違わない」
反射的に否定していた。
けれど、その“違わない”の意味を、俺自身ちゃんと説明できなかった。
セレフィーナがゆっくり顔を上げる。金色の瞳が揺れていた。今にも泣きそうなのに、必死に耐えている目だ。
「じゃあ聞きます」
彼女が言う。
「あなたは、私が他の男の人と楽しそうに話していても、平気なんですか」
「……それは」
「平気なんですか!」
言葉に詰まった。
頭の中に、意味のわからない嫌な想像が浮かぶ。セレフィーナが、知らない男と笑っている姿、隣に立っている姿、誰かに触れられている姿......
胸の奥が、妙にざわついた。
……なんだ、これ。
その沈黙だけで、十分だったのかもしれない。セレフィーナが、小さく笑った。
「ほら、やっぱり」
「いや、違——」
「違わないです」
彼女は静かに本を閉じる。ぱたん、という音が、やけに大きく響いた。
「あなた、自分のことになると、本当に鈍い」
「……」
「でも私は、そんなところも好きでした」
胸が、また痛くなる。好き“でした”。過去形だ。それだけで、息が詰まりそうになる。セレフィーナは鞄を掴むと、そのまま立ち上がった。
「今日は帰ります」
「待てよ」
「嫌です!」
「話、終わってないだろ」
「終わってますよ! もう、終わりですかね、私たち......」
彼女は背を向けたまま言った。
「これ以上話したら、もっと嫌なこと言いそうなので、さようなら」
「……セレフィーナ」
「今、名前呼ばないでください.......またね、とは言いませんよ」
その一言が。たぶん今日、一番刺さった。彼女は一度も振り返らない。図書室の出口へ向かって歩いていく。
窓の外では、雨が強くなっていた。曇天だった空は、もう完全に夜みたいに暗い。周囲の生徒たちも、誰一人として声を出せなかった。
ただ、セレフィーナの靴音だけが静かに遠ざかっていく。扉の前で、彼女は一瞬だけ止まった。
ほんの少しだけ、何かを期待するみたいに。
でも俺は、その時なんて言えばいいかわからなかった。引き止める言葉が、出てこない。
そして——
「……最低です、レイン」
小さくそれだけ残して、セレフィーナは図書室を出ていった。
扉が閉まる。
重い音だった。
その瞬間、ようやく図書室に息が戻る。
誰かが小さく息を呑み。誰かが気まずそうに目を逸らし。雨音だけが、変わらず窓を叩き続けていた。
俺はしばらく、動けなかった。
机の上には、セレフィーナがさっきまで読んでいた本だけが残されている。
開きかけのページ、乱れた栞、強く握られて、少しだけ折れてしまった紙の端......
——ああ
たぶん俺は、思ってたよりもずっと。
セレフィーナのことが、特別だったんだな。
気づいた時にはもう、遅かった。エリクが遠くの席から静かに呟く。
「……お前、終わったな」
「…………」
否定、できなかった。
窓の外では、雨が本格的に降り始めている。まるで、台風でも来るかの如く。
灰色の空から落ちる雨が、校舎の窓を静かに濡らしていく。
——たぶん、初めてだった。
セレフィーナと、本気で喧嘩したのは。