作品タイトル不明
挿入話~皇城の夜~
数多くの尖塔を備える優美な皇城には、主塔または皇帝の塔と呼ばれる、最も大きな塔が中央に聳えている。
その傍らには皇后の塔があり、中層階と最上階とに設けられた空中回廊で皇帝の塔と繋がっていた。
中層階は公務の場であり、皇帝の塔には小規模な謁見の間が、皇后の塔には親しい者や重要な来客をもてなす応接室があり、どちらの塔にも執務室がある。その中層階の空中回廊は、皇帝と皇后が公務のパートナーとして行き来するための通路だ。
最上階は私的な場。
そこにはそれぞれの私用の書斎や趣味の部屋、そして寝室がある。
皇帝と皇后の寝室を結ぶ空中回廊は、正式名称を渡月回廊と称するが、通常は夜の回廊と呼びならわされている。
その夜。
「皇后陛下がお渡りでございます」
侍従が告げた言葉に、皇帝コンスタンティンは書き物から顔を上げた。
夜の回廊に通じるドアから、侍女を伴った皇后マグダレーナが姿を見せている。すでに寝支度を整えていて、いつもきっちりと結い上げているブルーグリーンの髪を下ろした姿だ。回廊は冷えるため毛皮のコートを羽織っているが、その下には夜着が覗いている。
コンスタンティンは微笑んだ。
「今宵も美しい」
「そういうのは要りませんわ」
誉め言葉をはねつけられるのはいつものこと、出会った頃からだ。それでも言い続けるのは、マグダレーナの精神がぱっと火花を散らすのが見える気がするから、それこそが美しいとコンスタンティンが思っているからだった。
侍女がベッドの天蓋布を下ろし、マグダレーナの毛皮のコートを脱がせると、侍従と共に一礼して去った。
天蓋布は透けるほどに薄い白布で、全体に細かな日月星辰の文様が織り出されている。とある洞窟に生息する、この世界のあらゆる音を聞き取ることができるとされる魔獣、 天耳蝙蝠(てんじこうもり) の繭を撚った糸で作られており、一切の音を遮断する性質を持つ。そのため、内部の音は外には全く聞こえなくなるのだ。
ちなみに天耳蝙蝠は、名前は蝙蝠だが実際の見た目は、耳だけ巨大なかわいいモモンガらしい。
天蓋布の中、コンスタンティンと並んでベッドに腰掛けた体勢で、マグダレーナはほっと息を吐く。
そしてーー隣の夫にどんと身体をぶつけて、一緒に寝台に転がった。
無抵抗に、むしろ喜んで、皇帝は皇后の下敷きになる。
「どうした?」
「……何と申しますか」
残念ながら甘いムードというわけではないようで、マグダレーナはふーっと長い吐息をついた。
「今日は大使夫人たちとのお茶会の日で、エカテリーナを招いておりましたの」
「ああ。アレクセイが妹を送って来ていたと、執事長から報告を受けている」
初めて会った時からマグダレーナはエカテリーナを気に入って、皇城へ招きたいと言っていたものだ。しかし実現するまでずいぶん時間がかかってしまった。
そもそもエカテリーナが学生の身で週末しか機会がなく、マグダレーナは多忙。慣れない学園生活が落ち着いてからと配慮していたら、エカテリーナはガラス工房や公爵家の切り盛り、リーディヤとのあれこれや、学園祭の準備や、舞踏会の準備と、忙しさが増すばかりのようだった。ミハイルからそう聞いて、マグダレーナは呆れ混じりに感心していたものだ。
といっても、皇后たるマグダレーナが招待すればエカテリーナはやって来ただろう。時間がかかったのはむしろ、エカテリーナへの注目の大きさと、ユールノヴァとユールマグナの対立激化が思わぬ勢いで進んでゆくため、エカテリーナをどういう催しに招くか熟慮が必要になったためだった。
エカテリーナは皇都に現れてからも、ほとんど社交をしていない。それでいて注目の的だ。社交の糸口が出来れば、雪崩を打つように人々が殺到しかねなかった。
なにより、すっかりミハイルの結婚相手の本命とみなされるようになっている。
皇室がうかつに動けば、その見方を肯定したことになり、もう決まったとまで言われてしまうだろう。政治的にはまだ余白を残しておくべきだし、妹をこよなく愛するアレクセイが、ユールノヴァが激怒しかねない。
エカテリーナをいきなり外交の場に出すことにはなるが、国内貴族がほとんどおらず無責任な噂からは守ることができ、かつエカテリーナにも有益で楽しいであろうお茶会を初めての招待に選んだのは、マグダレーナがエカテリーナへさまざまに心を尽くした結果であった。
「エカテリーナはどうだった」
「聡明な子だから大丈夫だろうと思っておりましたけど、想像以上でしたわ。出すぎず控えめでいながら、有望なところにしっかり繋がりを作っておりました」
マグダレーナの唇が、苦笑の形を作る。
「でも端から見ると、若くて精一杯頑張っていることがよくわかって、可愛らしいったらありませんでしたわよ。それで、あの頃の自分もこんな風に、端から見れば可愛いお嬢さんに見えていたのだろうと、ちょっと気恥ずかしくなりましたわ。
といっても同じ年の頃のわたくしは、あれほど上手には立ち回れませんでしたわね。突進するばかりで」
皇室に嫁ぐ前のマグダレーナは、自分で商会を立ち上げて商売をする夢へ邁進していた。自分の船、三本マストの外洋船を持って、世界を巡る。そのための人脈作りと蓄財にせっせと取り組んでいたのだ。
そんな彼女にコンスタンティンは早くから惚れ込んでいたのだが、たいへん邪魔に思われていた。
「それで得た味方も多かっただろう」
「お世話になりましたわ。特に、セルゲイ公」
ユールセイン公爵令嬢が商人になりたいなどと言っても、ほとんどの人間が笑うか呆れるかだった。しかしセルゲイはマグダレーナの努力を見極めた上で、夢の実現に役立つような人と引き合わせたり交渉の場に連れて行ってくれたりと、協力してくれたのだ。
……まあ、そこにはたいてい、コンスタンティンが一緒にいたのだが。
「結局セルゲイ公は、わたくしの味方であり敵でしたわね」
「そういう人物だったな」
コンスタンティンは笑う。
「セルゲイ公は、そなたのことも余のことも、こよなく愛してくれていたと思う。どちらのことも本気で応援していた……そなたが夢を叶えて余が夢に破れていたら、セルゲイ公はそなたのために喜んだだろう。息子のアレクサンドルは人に愛される天才だったが、セルゲイ公は人を愛する天才だったかもしれないな」
「ほどほどにしていただかないと、迷惑ですわ。どちらも」
マグダレーナがバッサリと斬り、コンスタンティンはまた笑った。女癖の悪いアレクサンドルと顔を合わせるたびに、マグダレーナはバッサバサ斬りまくっていたものだ。
「懐かしい、今となっては」
セルゲイ公もアレクサンドルも、今は亡い。セルゲイ公もだが、まさかアレクサンドルが、あれほど早く逝くとは。
「ミハイルが、エカテリーナを迎えにまいりました。星読みの塔に連れて行ったようですわ」
「ほう」
現在へ引き戻されて、コンスタンティンの関心は息子の恋路へ移った。
「領地では首尾よく捕らえたそうだが、うまく渡せただろうか」
と。
マグダレーナが身を起こし、コンスタンティンの手首を握った。
握ったというか、掴んだというか……確保したというか。
「それで、思い出しましたの」
マグダレーナがにっこり笑う。
「あの蝶。そういえばわたくし、説明をいただいたこと、ありませんでしたわね?」
「……」
「どういうものか知らせず渡していただきましたけど、どういうおつもりだったかしらと思いまして。今さらなどと仰ったら、暴れますわよ」
「……」
少し怒ったマグダレーナの表情はいっそう美しいのだが、そう伝えてもまったく懐柔されてくれないに違いないことが、今この時は残念だ。
マグダレーナとふたりきりの天蓋布の中であることを幸いに、皇帝にあるまじきことに、コンスタンティンはじりじりと後ずさった。
その少し前。
「僕のところには来なかったけど、他へ行こうともしなかったから、充分に望みはある」
「そういうのを勝手に推し量って、いつか知られたら嫌がられませんか」
「ただの言い伝えで、事実かどうかもわからないんだ。そんなことをわざわざ伝えなくてもいいだろう。珍しい綺麗なものを、エカテリーナは喜んでくれたんだし」
「と言いつつ、ただの言い伝えをあてにしておられますね」
ミハイルとルカの主従がそんな会話を交わし、ミハイルがしばらく沈んでいたのだった。