軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

水の精

別邸の小さな裏庭は、ユールノヴァ城の庭園のように完璧にデザインされたものではなく、野草のようなハーブが茂る、イングリッシュガーデンに似た自然美をたたえる場所だった。

細い葉が特徴的なローズマリー、淡いピンクの花をつけたオレガノ、繊細な葉のフェンネル、他さまざまな植物がそれぞれ群れとなり、爽やかな香りを漂わせている。

「エカテリーナ」

紫がかった青い花が鮮やかな、セージの一種らしき一群の前で振り返り、ミハイルが微笑む。

エカテリーナは急ぎ足でその傍らへ歩み寄った。

裏庭には、他に誰もいない。

彼女に付き従ってきたメイドのミナは、裏庭の入り口のところで足を止めて控えている。ミハイルの従僕ルカがそうしているため、お付きの心得として、同じ位置にとどまったのだ。

「ミハイル様。先ほどは――」

大角牛から助けてくれた礼を言おうと口を開いたエカテリーナを、ミハイルはすっと手を上げて止めた。

「すまない。君に、僕からひとつ、訊きたいことがあるんだ。先にいいかな」

「え、ええ。もちろんですわ」

うなずきつつ、エカテリーナは身構える。

何を訊きたいんだろう。

なんであんなところにいたのか、かな。それとも、なんであんな格好をしていたの?かも。

どっちも好きでじゃないんだー!

あそこにいたのは、小妖精の罠にはめられたせいだし。ふともも見えてたのは、大角牛がメンチ切ってきたから、目を逸らせない状態でなんとか逃げようとしていたからで。私のせいじゃないんだからね!

というのを、どう説明しよう。

などと、訊かれたらどう答えるかをエカテリーナが脳内でシミュレートしていると、ミハイルは言った。

「僕が、大角牛に遭遇した時のことなんだけど。その直前に、川辺で…… 水の精(ウンディーネ) を見たようなんだ」

ん?

え?

え?

大角牛に遭遇する直前。

川辺。

いや、それ、私だけど……。

「川辺で、大きな石に腰掛けていた」

大きな石に腰掛けてたよ、だからそれは私、なんだけど……。

けど。

柔らかな声音で、ミハイルは言う。

「あの川には 水の精(ウンディーネ) が棲んでおられるのかな。もし、君が知っているなら教えてほしいと思って」

えっと……。

つまり……。

それは。

――川で見たのは私じゃ、なかった……ということにしてくれる、の?

あれは 水の精(ウンディーネ) だった、ってことに……。

呆然としているエカテリーナを、ミハイルは夏空色の目で穏やかに見ていた。

「ミハイル様……」

皇子……。

君って――なんていい奴なんだー!

ぶわっと感動が込み上げてきて、エカテリーナは泣きそうになる。

貴族令嬢として、致命傷になるような失態だったもの。相手が悪かったら、脅しの材料になることさえあり得たんじゃないだろうか。そんなことにはならなくても、笑い者になったり、一生の恥になったり、する可能性は十分あるはず。

もちろん皇子はそんな子じゃないけれど。

見なかったことにするよ、とかって言ってくれると期待していた。でも、そういうことを言うんじゃなくて、自分が見たのは君じゃなく、 水の精(ウンディーネ) だったことにするって。それを、こんな風に告げてくれるって。

粋だ。

うわあ、すごい。十六歳の男の子が、粋な気遣いをやってくれてる。そんなことができる高校生男子なんて、滅多にいないよ。大人にだって、そうそういない。

ありがとう、皇子。

あらためて、君ってすごいよ。

さっきハリセンで叩きたいなんて思って、本当にすまんかった!

「わたくしは……あの川に 水の精(ウンディーネ) が棲んでおられるかは存じませんの」

長い沈黙の後に、エカテリーナはゆっくりと言う。

「ですけれど、ミハイル様が見たとおっしゃるなら、きっとそこにおられたのですわね」

「うん。確かに」

うなずいて、ミハイルはまた少し赤くなる。

「その、僕が見た 水の精(ウンディーネ) は……とても、きれいだった」

うっ。

うわ。

ちょっと待って――ちょっと、待ってよ。

私、すごく赤くなってない⁉︎

褒められるのはお兄様の美辞麗句で慣れてるのに!

それは、なんか、全然違うんだけど。なんか、困るんだけど!言葉が出てこないよ!

くそう、アラサーを赤面させるとは恐ろしい子!

あっ、そういえば君は破滅フラグの化身だった。この、やたら困る感じはそのせいなのか⁉︎

真っ赤になってしまった顔を両手で覆って、思考を残念方向へ疾走させるエカテリーナであった。

「エカテリーナ…… 水の精(ウンディーネ) について、もうひとつ訊いてもいいかな。また違う話なんだけど」

「は、はい。わたくしにお答えできることでしたら」

ミハイルの言葉に、エカテリーナは顔をあげる。

「公爵邸の浴室に、 水の精(ウンディーネ) の像があるよね。執事に尋ねたら、僕が泊まっている西棟と、君が暮らしている北棟は同じ型の像が使われているそうなんだけど。あれが、少し君に似ている気がして……。それほど古くも新しくもないようだけど、あれは。

アレクサンドル公――君とアレクセイの、父君の頃に設置されたのではないかな、と思ったんだ。

そしておそらく、皇女が降嫁した場合のみ使用するという北東の翼……大伯母上、君の祖母が暮らしていたところの浴室は、もし 水の精(ウンディーネ) の像があるとしても、違う型、違う顔をしていると思う」

「――」

エカテリーナは言葉を失う。

そういえば、フローラちゃんもあの像が私に似ていると言っていた……。

私に似ているということは、お母様に似ているということ。

お祖父様が公爵だった頃、公爵邸、ユールノヴァ城には 祖母(ババア) と親父が住んでいた。

その時期に浴室の彫像を取り替えることになれば、どういった像にするかは親父の要望が通ったに違いない。

それは……。

エカテリーナは思わず口元を押さえた。

考えたこともなかったけど。親父は、ひそかにお母様を偲んでいたのだろうか。

北東の翼に暮らしていたババアは、他の浴室に立ち入る可能性はない。ババアの目が届かないところに隠して、そっと。

いいや、認めない。そんな、いい話みたいなこと。

それくらいなら、どうして一緒に暮らさなかった。どうして会いに来なかった。お母様は、あんなに恋していたのに。いまわの際にお兄様を親父と間違えるほど、待っていたのに。

「すまない。余計なことを言ってしまったみたいだ」

ミハイルの声に、エカテリーナははっと顔を上げる。

「い、いえ。その、わたくしは、あの彫像がいつ設置されたのかは存じませんの。ですけれど、執事に確認すれば、わかると思いますわ」

「いや、手間をかけてもらうほどのことではないんだ。悪かったね、忘れてほしい」

「いえ……」

……私が困ってたから、いったん他のことを忘れるような、インパクトのある話題を出してくれたんだろうな。

どんだけ大人なんだよー。もう。アラサーも脱帽だよ!