作品タイトル不明
番外編:テルナー視点 白い庭の名前
書斎の机に向かっていた。城から持ち帰った最後の書類を確認していた。クーデター未遂の事後処理がようやく形になりつつあった。三月の終わりだ。窓の外はまだ薄暗い。日が長くなり始めたとはいえ、夕方の早い時間からもう灯りを点ける必要があった。
机の角にお茶が置かれていた。湯気が立っている。妻のクラーラが置いていったのだろう。私は気づかずに書類を見ていた。礼を言いそびれた。
「お茶をありがとう」
廊下のほうに声をかけた。返事は来なかった。台所に戻ってしまったらしい。
書類に視線を戻した。今夜中に片付けたい。明日からまた城で別の仕事が始まる。ケスラーの家族は救出された。脅迫文を仕掛けた者たちは捕らえられた。城壁修繕費の流れも止めた。だがすべての書類が片付くにはまだ時間がかかる。一つの事件が終わっても、書類の上ではまだ終わっていない。
お茶を一口飲んだ。少しぬるくなっていた。それでも心が軽くなる。
書斎の扉がもう一度開いた。クラーラが入ってきた。今度は何も持っていない。手は前で組まれていた。
「あなた、まだかかりそう?」
「うむ。今日中に片付けたい」
「無理はしないで」
「無理ではないさ」
クラーラは私の机のそばに立った。書類を覗き込むようなことはしない。書類は機密のものが多い。クラーラはそれを知っている。覗かないことも知っている。ただ立っていた。
何か言いたいことがあるのだとわかった。長く連れ添うとそういうことはわかる。
「何かあったか」
クラーラは何か悩みながら、隣の椅子に腰を下ろした。
おそらく、私の仕事が終わるのを待つということだろう。だがクラーラの様子が妙なままで、書類へ戻れるわけがなかった。ペンを置いた。
「クラーラ」
「ええ」
「話したいことがあるなら、話してくれ」
クラーラが私を見た。
少し笑った。困ったような笑い方だった。
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クラーラは膝の上で手を組んだ。普段は料理の話をしているときの手だ。蜂蜜の壺の話。粉のふるい方の話。新しいメイドから新しい焼き菓子の作り方を教わった話。そういう話をしているときの軽やかな手。
今夜のクラーラの手は軽くなかった。組まれている指の関節が少しだけ骨張って見えた。
「あの子のことなんだけれど」
「ミーナ殿か」
「ええ」
私は黙って待った。
「あの子、最近うちに来てくれるじゃない。それで私、考えていたのだけど……。あの子は、来てもいいのに、毎回、来てもいいか確認するのよ。台所に入る前に。お茶を飲む前に。お代わりをする前に。全部、確認するのよ」
「礼儀だろう」
「礼儀だけではないと感じてるの。きっと……あの子はまだ、自分がここにいていいか、わかっていないの」
私は何も言わなかった。
「ねえ、あなた」
クラーラが顔を上げた。
「ミーナちゃんを、うちに迎えて……養女にしたいと思っているの。駄目かしら」
その言葉が部屋に置かれた。
私は机の上のペンを見ていた。ペンの先がインクで黒くなっていた。乾く前に拭くべきだった。乾いてからでは取りにくい。
「……まだ、早いのではないか」
私はそう答えた。自分でも声が低くなっているのがわかった。
「早い、と言うけど、あの子はもう待たされすぎたわよ」
クラーラの声は穏やかだった。穏やかだが譲る声ではなかった。
「待たされた、というのは」
「あの子の人生のことよ。あなたが知っている部分も、知らない部分も含めて。きっと……待たされっぱなしの十数年だったのではないかしら」
私は息を吐いた。何か反論しようとして、反論する言葉がなかった。
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書類を脇に寄せた。今夜の仕事はもう止めにしよう。
椅子の上で姿勢を直した。クラーラのほうに少しだけ体を向けた。
「クラーラ。なぜ、今その話なんだ」
「今夜、わたしが急に思いついたわけじゃないわ」
「だろうな」
「ずっと思っていた」
「いつから」
クラーラが少し考えた。
「あの子が初めてうちに来た日、覚えていらして?」
「覚えている」
「あの子、夕飯のあとに出したお茶、両手でカップを持ったわね」
「持っていた」
「両手でカップを持つのは、温まりたい人の持ち方なの。寒い時期じゃなくても両手で持つ人がいる。心が冷えている人」
私はそのときのミーナを思い出した。痩せた手だった。指先まで色が薄かった。夕食はほとんど残さずに食べ、クラーラがあとから出したお茶を、何度も手のひらをカップの側面に押し当てるようにして飲んでいた。火傷しそうな温度だったはずだ。なのに離さなかった。離したくなかったように見えた。
「あの時から、わたしは、あの子をうちで受け入れたいと思っていたの」
「お前は、いつもそうだ」
クラーラは少しだけ笑った。孤児院などへの寄付を妻名義で行ったり、季節ごとの行事を執り行ったりしている。
「でも、わたしが受け入れたいと思うだけでは決まらないでしょう。あなたが決めることもあるし、あの子自身が決めることもある。それから城の事情もある。だからわたしは、長いこと、言わなかった」
「今、言うのか」
「いい時期だと思ったのよ」
「なぜ」
「事件が一段落したから」
私は頷いた。それはそうだ。クーデター未遂が形になるまで、養女縁組のような大きな話は出せなかった。動きを察知されてはいけなかった。あの子を狙う者がまだ動いている可能性があった。今でも完全には消えていない。だが少なくとも目下の危険は引いた。
「もうひとつ、理由がある気がする」
私はそう聞いた。
クラーラが頷いた。
「ええ、あるわ」
「言ってくれ」
「あの子、女の子らしくなってきたの」
「……どういうことだ」
「冬の間に背が少し伸びてきて、痩せているのは変わらないけれど、骨が浮く感じが少なくなった。顔色もよくなってきた。あの子、今、変わりかけているのよ」
私は黙った。そう言った変化については、やはり女性から見た方が気がつくものなのだろう。
「あの子が、これから健やかに成長する時に。自分が誰になるか、迷う前に。あの子に、根を持たせてあげたいの」
部屋が静かになった。
私は窓のほうを見た。雪の名残が庭の隅に少しだけ残っていた。あとは土が見えていた。等間隔に植えた球根の芽が、ほんの少しだけ顔を出している。クラーラが秋に植えたものだ。何の花だったか聞いた気がするが思い出せない。
立ち上がって窓のそばに行った。窓ガラスに手を当てた。冷たい。外はまだ夜の温度だ。
「クラーラ」
「ええ」
「あの子にとっての一番は、何だと思う」
その問いを口にしてから、自分の声が少しかすれているのに気づいた。咳払いをした。クラーラはこちらを向かなかった。椅子に座ったまま、自分の膝のあたりを見ていた。
しばらく沈黙があった。クラーラは答えを急がなかった。
「整える場所が、ずっと、あること」
クラーラがそう答えた。
私は窓ガラスから手を離した。クラーラのほうに向き直った。
「場所、か」
「あの子は、整えるために整えているのではないと、わたしは思うの」
「整えるために整えていないなら、何のためだ」
「分からないけれど……安心するためかも」
クラーラの声は静かだった。
「あの子、整え終わると、肩の力が少し抜けるの。台所に来てお皿の角を揃えて並べた後とか、お茶を飲んだ後にカップの取っ手の向きを直した後とか、座っていた椅子をきちんと戻した後とか。整え終わって、初めて、息を吐けるみたいなのよ。あれは習慣じゃないわ。あの子にとっては、たぶん、もっと深いものなの」
私は静かに聞いていた。
「だとしたら、あの子の一番は、整える場所が、ずっと続くこと。続く保証があること。明日も整えていい場所が、確かにあること。それがあの子の一番なの」
「では、養女にすることが、その場所を保証するか」
「保証するわ」
クラーラは即答した。
「雇われた場所は、雇い主の都合で変わるでしょう。あの子の立場も、それで変わる。家族の家は違うわ。わたしたちが死んでも、家族だったことは消えないの。書類でも、名前でも、形は何でもいい。残るものがあれば、あの子はそこに整えていけるの」
私はクラーラを見ていた。
クラーラは私を見ていなかった。自分の膝のあたりを見ていた。膝の上の手はまた組まれていた。
「クラーラ」
「ええ」
「あの子は、お前にとって、誰だ」
クラーラはすぐには答えなかった。
私はクラーラを試すつもりはなかった。だが聞いておかなければならなかった。聞かないまま養女にしたら、あとで何かが歪む気がした。一度きちんと聞いておきたかった。
クラーラはしばらく組んだ手を見ていた。それから顔を上げた。
「ミーナちゃんは、ミーナちゃんよ」
「それだけか」
「それ以上ではないし、それ以下でもないわ」
私は頷いた。
「あなた、心配していた?」
クラーラがこちらを見た。
「わたしがミーナちゃんを、わたし達の子の代わりにするんじゃないかと」
クラーラが亡くした子の話をするのは年に何度もない。
「……心配していたかもしれない」
「あなたはそういう人よね。分かっているわ」
クラーラの声ははっきりしていた。
「ミーナちゃんは、ミーナちゃんのままで来てくれたの。だからわたしも、ミーナちゃんのままで迎えるの。代わりではないわ。新しい家族として」
私は机のほうに戻った。椅子に座り直した。書類の角をいつもより丁寧に揃えた。揃えながら、自分の指が少し冷えているのに気づいた。窓に手を当てたせいだ。
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私も同じことを考えていたのだ、と言って、既に養子縁組についての書類を取り寄せてあることを告げた。
しばらくしてクラーラが口を開いた。
「ねえ、あなた」
「なんだ」
「あなたは、なぜ、養女にしようと思ったの」
私は揃え終わった書類の束を見ていた。角がきちんと揃っていた。揃えると見えるものがある、と誰かが言っていた。あの子だ。あの子が言っていた。「角を揃えるだけで、見えなかったものが見えるようになります」と。
「いくつか、理由はある」
「聞きたいわ」
私は息を整えた。財務官としての答え方ではない答え方をしようとしていた。普段の私は書類のように答える。今夜は違う形で答えたかった。それでも最初は結局、角張った職の形になった。
「あの子は、これから、もっと大きな仕事に近づいていく」
「大きな仕事、というのは」
「あの子の目は、城下町の片付け屋に収まる目ではない。もう収まっていない。城の書庫でも収まりきっていない。あの子が見るものは、これから、もっと広がる。それは私が望むか望まないかとは別のところで広がっていく。あの子の目がそうさせる」
クラーラは聞いていた。
「広がっていく先で、あの子に拠り所がないと、心配だ。雇われた者の身分のままでは、あの子が触れるものに対して、あまりに軽い。あの子に、もっと確かな立場がほしい」
「立場、ね」
「家族の中に、ということだ」
「ええ」
「それを与えられる方法のひとつが、養女縁組だ」
クラーラは黙って聞いていた。
「これが、財務官としての答えだ」
私は一度息を吐いた。
「では、財務官ではないあなたの答えは?」
クラーラが聞いた。
私はクラーラのほうを見た。クラーラは私を見ていた。財務官としての答えだけで終わらせない、と決めた目だった。
少し間があった。
私はもう一度息を吐いた。
「あの子が、うちの食卓で、『いただきます』と言うのを、聞きたい」
それが私の本当の答えだった。
口に出してから、自分でも驚いた。声が少し震えた。震えるつもりはなかった。妻相手でも、本当のことを言うのは少しの勇気がいる。きっと自分と向き合った言葉でなければならないからだろう。
クラーラが笑った。
困ったような笑い方ではなかった。今度はまっすぐな笑い方だった。
「あなた、もうそこまで考えていたのね」
「考えていたのではない」
「では?」
「思っていた」
クラーラがうなずいた。
「考えると思うは、違うわね」
「うむ」
二人で微笑み合う。
クラーラが立ち上がった。お茶のカップを下げて、新しいお茶を淹れ直してくる、と言ってくれた。
クラーラが台所に消えた。
私は机の上の書類の束をもう一度見た。整えた角を見た。
クラーラが戻ってくるまでに、私は春先での予定の紙を一枚、机の手前に出した。空欄の余白に一行書いた。
「ミーナ殿に、書類の話をする」
それだけ書いてペンを置いた。
書類の話、とだけ書いた。具体的なことは書かなかった。クラーラと話したことを、すぐにミーナに切り出すつもりはなかった。話し方を考える必要があった。
あの子は、急に「あなたを養女にしたい」と言われたら、たぶん混乱する。礼儀のように受け入れるかもしれない。それは違う。あの子に、自分で決めてもらう必要がある。
そのための準備を、これから整える。少しずつ整える。
クラーラが新しいお茶を持って戻ってきた。机に置きながら窓のほうに目をやった。
「春になったら、白い庭ではなくなるわね」
「ヴァイスガルトの庭、というのは、もとはそういう意味ではない」
「そうね。清潔で整った場所、という意味だものね」
「春になっても、白くなくても、整っている庭だ」
「あの子に、ぴったりね」
私は新しいお茶を一口飲んだ。
「あの子に、ぴったりだ」
クラーラは隣の椅子に戻った。新しいお茶のカップを両手で持って、ゆっくり飲んでいた。クラーラの手はもう組まれていなかった。両手でカップを持っていた。
ミーナが両手で持つのと、クラーラが両手で持つのは、たぶん意味が違う。クラーラは温まりたいのではない。温める側の人だ。ただ、両手で持ちたいときもあるのだろう。
二人ともしばらく何も話さなかった。
窓の外で夜風が一度強く吹いた。それからまた静かになった。