軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

番外編:ヴォルフ視点 兵士のまなざしより

兵舎の奥で剣の手入れをしていたら、軍務官が入ってきた。ブレンナー様が直接兵舎に来るのは珍しい。たいていは伝令を寄越す。俺は剣を膝の上に置いて立ち上がった。

「ああ、いい。楽にしてくれ」

俺は挨拶をしてから座った。ブレンナー様が向かいの椅子に腰を下ろした。大柄な体が椅子をきしませた。

「明日、テルナーの紹介で城下町の娘が一人、武器庫の棚卸しに来る」

「はい」

「お前に手伝いを頼みたい。重い物を運ぶ手が要る」

「承知しました」

ブレンナー様が少し躊躇したような顔をした。普段、この人は躊躇しない。命令は短く、迷いがない。それが今、わずかに止まっている。

「その娘について、ひとつだけ言っておく」

「はい」

「片付けの名手だそうだ。マルケス商会の倉庫やホルスト家の書庫。それからヴェーバー家の薬棚を整えた。テルナーが整理を頼んだら、三日で終わらせた上に、数字の乖離までも見つけた」

俺は黙って聞いていた。

「お前の役目は、その娘の手伝いと、警護だ。重いものを運ぶ。何かあれば守る。それだけでいい」

「警護、ですか」

武器庫の棚卸しに警護が要るのは初めてだ。重いものを運ぶ手伝いはわかる。だが警護は別の話だ。ブレンナー様が「警護」と言うとき、それには意味がある。

「念のためだ。当日、頼むぞ」

「はっ」

ブレンナー様が立ち上がった。出ていく前に、俺の剣を見て、一言だけ付け加えた。

「手入れを怠るな。何があっても抜けるようにしておけ」

俺は頷いた。いつもと同じ言葉だ。だが今日のは少し違う響きだった。

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夜、ニクラスが兵舎を訪ねてきた。

俺たちは双子だ。一日に一回は顔を合わせる。話さない日もあるが、近くにいる。今夜のニクラスは、何か言いたそうな顔で来た。

「明日、城下町の娘が来るそうだ」

俺は頷いた。ブレンナー様から聞いた、と言わなかった。ニクラスもそれ以上は説明しなかった。双子は、相手が何を知っているかを測れる。

「テルナー様が呼んだ」

「ああ」

ニクラスがそこで黙った。何か考えている顔だ。だが続きは言わない。俺もそれ以上は聞かない。

「お前は手伝いに入るのか」

「武器庫の棚卸しの手伝いだ。ブレンナー様の命令だ」

「そうか」

ニクラスの「そうか」には特に意味はないはずだ。ただの相槌だ。だが今夜のニクラスは、その「そうか」のあとに少しだけ間があった。何かを言いかけて飲み込んだような間。

「片付けの名手らしいな」

俺が先に言った。ニクラスが少し驚いた顔をした。

「お前も聞いたのか」

「ブレンナー様から」

「ふうん」

ニクラスがそれだけ言って、剣の手入れを再開した俺の手元を見ていた。砥石の上を刃が滑る音だけが、しばらく続いた。

「数日かかるのだろうか」

俺がもう一度、聞かれてもいないことを言った。なぜ言ったのか、自分でもわからない。ただ、確認したかったのかもしれない。「数日で終わる」と。

「それは本人次第だ。まだわからない」

ニクラスがそう答えた。それから、付け加えた。

「俺もテルナー様から手を貸せと言われている」

俺は頷いた。双子で同じ娘の手伝いに入る。それだけのことだ。たぶん、それだけのことだ。

ニクラスが帰った後、俺は剣を磨き続けた。刃を布で拭った。水で濡らさず、油を薄く塗った。いつでも手入れは怠らない。

「何があっても抜けるようにしておけ……、か」

武器庫の棚卸しで、剣を抜くことになるまい。だが、ブレンナー様の言葉は、その日以降、頭の中に残り続けた。

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翌朝、武器庫に向かった。

地下に下りる階段は冷たい。松明の灯りが石壁を撫でている。武器庫の扉の前で、俺は立ち止まった。中に誰かいる気配がした。

扉を開ける。噂の人物がそこにいた。

亜麻色の髪を後ろで一本にまとめた、痩せた娘だった。城下町の娘の服装。仕立ての良くないワンピース。頬が少しこけている。武器庫の真ん中に立って、棚を順番に見ている。俺が入ってきても、すぐには振り向かなかった。

全体を見ている、とわかった。剣の稽古で間合いを測るときの目に似ていた。一つひとつを見ているのではなく、全部を一度に見ている。

俺が一歩踏み出すと、娘が振り向いた。亜麻色の髪が動いた。薄い青の目だった。そばかすが頬に散っていた。

「あ、お手伝いしてくださる方ですか」

「ヴォルフだ」

「ミーナです。よろしくお願いします」

お辞儀された。俺も頭を下げた。それで挨拶は終わった。それ以上、何か言う必要はなかった。この娘も、何かを言ってほしそうではなかった。

すぐに作業が始まった。

「ヴォルフさん、剣を棚から下ろして壁際に並べてください。長いものと短いものを分けて」

俺は頷いて動いた。剣を棚から下ろして、壁際に並べた。長いものと短いもので分ける。難しい指示ではない。だが、この娘の指示は妙に正確だった。「長いもの」「短いもの」と言われただけなのに、どこに何本ずつ並べるか、無駄のない配置で頭に浮かんだ。たぶんこの娘の頭の中には、すでに完成形があるのだろう。俺はその完成形に向かって動いている。

彼女は、自分でも動いていた。短剣や矢筒など、自分で持てるものを別の棚に移していた。動きに無駄がない。一度持ち上げたものを途中で置き直すことがない。最初から最後まで、一本の線で動いている。剣の稽古で、無駄のない動きをする者を見たときと同じ感覚があった。

「こっちの棚に、長い順で入れてください」

俺は黙って従った。指さされた位置に、正確に置いていく。長剣の刃の形が違うものがある。柄の材質も違う。だがこの娘は剣のことを知らないはずなのに、「同じ形のものを揃えて棚に戻す」と指示してきた。形と大きさで分けている。剣の知識ではなく、整理の知識で動いている。

俺はその動きを横で見ながら、自分の役目を果たした。重いものを運び、指示された場所に置き、また次の指示を待った。会話はほとんどなかった。必要な指示と、俺の短い返事だけ。

半日経った頃、彼女が手を止めた。何かに気づいたような顔だった。

棚の裏に掛けてあった台帳を取って読み始めた。読み終わって、もう一度棚を見た。それからまた台帳を見た。

俺はその顔の変化に気づいた。最初の「全体を見る目」とは違う目になっていた。何かを数えている目だ。

「ヴォルフさん」

「はい」

「もう一度、剣を数えていいですか」

「どうぞ」

俺は壁際に並べた剣を、邪魔にならないように一歩下がった。娘が剣の前を歩きながら、指で数えている。声に出さない。指の動きだけ。終わって、もう一本ずつ列を確認した。

「やっぱり、四十七本です」

ポツリと呟いた。俺に向かって言ったのではなさそうだった。自分に向かって言っていた。

台帳をもう一度見て、それから棚の裏側に回った。壁と棚の間に何かが落ちていないか確認している。隣の小部屋の扉まで開けて、中を覗いた。何も言わずに戻ってきた。

俺はその動きを見ていた。見ていて、自分も確かめてみる気になった。指示されたわけではない。ただ、この娘が二度数えて同じ数字にたどり着いたのを見て、自分の目でも確認しておきたかった。兵士の癖だ。上司に報告を上げる前に、自分で一度確認する。

俺も壁際の剣を数えた。指で、静かに。四十七本だった。短剣も数えた。三十三本だった。槍の穂先、二十八個。弓、十五張。盾、二十一枚。

彼女の数字と、俺の数字は同じだった。

数え終わって、俺は小さく頷いた。この娘の数字は正確だ。間違いではない。ということは、台帳の数字のほうがおかしいのだ。

「ヴォルフさん。配置図を書きます。少しお待ちください」

「了解です」

紙と炭筆を取り出して、棚の配置を描き始めた。各棚に何が何本あるかを書き込んでいく。台帳の数字と、自分が数えた数字を並べて書いている。差が出ている品目に印をつけている。

俺は壁にもたれて、彼女の手を見ていた。炭筆の動きが速い。書く字は小さいが整っている。書記官が書く字と似ている。だがニクラスの字とは違う。ニクラスのほうが線がもう少し細い。この娘の字は、線の太さが均等で、角がきっちり揃っている。

書き終えた紙を、俺に見せた。

「これでいいでしょうか。ブレンナー様にお渡ししてきます」

「はい」

紙には差が書いてある。

俺は剣を握る手を、無意識に握った。

武器が消えている。半年で、これだけの数。誰かが持ち出している。組織的に。少しずつ。気づかれないように。

俺の頭は、武器庫の管理について素早く考えた。鍵は誰が持っていたか。出入りした記録はあったか。半年前の棚卸しは誰がしたか。すべて、答えは「ブレンナー様」に繋がる。

否、ブレンナー様が犯人ではない。あの方は誠実な軍人であり、指揮官でもある。だとすれば、ブレンナー様の管理下で、誰かが手を加えている。

俺はブレンナー様の言葉を思い出した。

ああ、と思った。

兵士たるものいつでも事態に当たれるように訓練する。しかしこの娘は、それそのものを解決できるできないに関わらず、おかしな話を見つけてしまうんだ。気づかないうちに。整理しているだけのつもりで。気持ちが悪いから整える、それだけのつもりで。

俺はもう一度、彼女の顔を見た。何もない顔だった。整え終わって、配置図を書き終えて、それを依頼主に渡そうとしているだけの顔。自分が見つけてしまったものの重さを、まだわかっていない顔。

「行きましょう」

階段を上がりながら、俺は剣の柄に手をかけた。いつでも抜けるようにしておいた。この娘が何か邪悪なものに、突如として攫われぬように。

ブレンナー様は、この結果を予想していたのかもしれない。信じがたいことだが、我らの兵舎に裏切り者がいるのだ。

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秋祭りの前日、仕事が早めに終わった。

武器庫の棚卸しの件が落ち着いてから、俺の仕事は普段通りに戻っていた。だが、あの娘が書庫に通い始めた頃から、城の中の空気が少しだけ変わっていた。テルナー様の執務室の灯りが夜遅くまで点いている。ブレンナー様が兵舎に来る頻度が増えた。ニクラスも書庫で夜まで帳面を書いている日が増えた。

その日は、珍しく俺もニクラスも夕方までに仕事が片付いた。俺はニクラスに声をかけた。

「今日は外に出るか」

「外」

「城下町で飯だ。久しぶりに」

ニクラスは少し考えて、「行く」と短く答えた。俺たちは双子だが、一緒に食事に行くのは数ヶ月に一度あるかないかだった。ニクラスは帳面の前にいるのが好きで、俺は兵舎にいるほうが落ち着く。だが、今夜は珍しく、二人で出た。

城下町の南通りを歩いた。秋祭りの前夜で、通りが浮き足立っていた。屋台の匂いがあちこちから漂っている。肉を焼く煙。揚げ物の油の音。甘い菓子の匂い。俺たちは赤とんぼ亭を目指した。何度か行ったことのある食堂だ。料理の量が多い店として、兵士の間では知られている。

赤とんぼ亭は祭りの前夜で混んでいた。奥のテーブルに二人分の席を確保できた。俺は品書きを指さした。

「揚げ鶏、ヒラ焼き、ロースト肉。全部持ってきてくれ」

店主が少し笑った。兵士の注文だ、と思ったかもしれない。ニクラスが追加で魚の煮付けとスープを頼んだ。

「ああ、パンも」

ニクラスが短く付け加えた。兵舎のパンとは違う、焼きたての黒パンがこの店の売りだった。

料理が運ばれてきた。大皿に揚げ鶏、ヒラ焼き、ロースト肉が盛られている。魚の煮付けが別の皿で来た。スープが二つ。パンの籠。テーブルの上がすぐにいっぱいになった。

俺とニクラスは、ほとんど同時に手を伸ばした。

子供の頃からそうだった。大皿が目の前に来たら、二人で競い合うように食べた。母が「二人とも、少しは遠慮しなさい」とよく言っていた。でも腹が減っていたから、遠慮はしなかった。遠慮しないのが兄弟だった。大人になった今でも、その癖は抜けていない。

俺は揚げ鶏から手をつけた。ニクラスがロースト肉を切り始めた。パンの籠から一つずつ取った。スープは各自の前に置いた。黙って食った。話すより、食べるほうが先だった。

揚げ鶏の衣がぱりっとしていた。中の肉が熱くて汁が出た。ヒラ焼きは香ばしい香辛料の味がした。ロースト肉は骨付きで、ニクラスが骨の周りの肉まで丁寧に削ぎ落としていた。書記官の仕事と同じ手付きだった。細かいところまで見逃さない。

半分ほど食ったところで、俺は手を止めて水を飲んだ。ニクラスも同じ頃に手を止めた。双子は、腹が満たされる速度も似ている。

何度か食べては水を飲むを繰り返してテーブルの上は更地になった。店主が空の大皿を下げに来て、「よく食うなあ、兄さんたち」と笑った。俺は片手を上げて応えた。ニクラスは何も言わなかったが、少しだけ口の端が動いていた。

追加で、俺は串焼き、ニクラスはスープを注文する。最後に食べるものはいつもだいたい決まっていた。

そこで扉が開いた。ミーナ殿だった。

亜麻色の髪を後ろで結んで、薄い青の目をした、あの娘。武器庫で手伝った娘。俺とニクラスは、同時に目を上げたと思う。娘も俺たちに気づいた。店主が「相席でもよければ奥にひと席だけ」と言っていた。

「あ、知り合いです。あちらにお邪魔します」

娘が俺たちのテーブルに近づいてきた。ニクラスが小さく頷いた。

「ミーナ殿」

「こんばんは。先日はお世話になりました。満席でして、相席させてもらっていいですか」

「どうぞ」

ニクラスが隣の椅子を引いた。俺は肉を噛んでいたので、頭だけ下げた。口がいっぱいだった。

娘が食事券を出して、店主に白身魚の焼き物とかぶときのこのスープを頼んでいた。俺は肉を飲み込んで、少しだけ体の向きを変えた。娘を観察する位置に。警戒ではない。ただ、見ていたかっただけだ。

料理を待つ間、娘が俺たちを見ていた。

「あの、お二人って」

「双子です」

ニクラスが答えた。あっさり答えた。俺はそのあっさりさに、内心で少し笑った。

「そうだったんですか。どうりで」

「こいつが兄です」

俺は親指でニクラスを指した。ニクラスが「一刻だけだ」と言い返した。よくある応酬だった。子供の頃から繰り返してきた。

娘の顔に、小さな疑問が浮かんでいるのが見えた。双子なのに、なぜ文官と武官に分かれたのか。口には出さなかったが、顔に出ていた。俺は娘の顔から、そういうものを読むのに少しだけ慣れ始めていた。

「子供の頃から、こいつは本ばかり読んでいて、俺は外で鍛錬をしていた」

俺は言った。誤魔化しではない。本当のことだ。兵舎に入るずっと前、俺は裏庭で木刀を振っていた。毎日、何時間も。

「……鍛錬というより暴れていた」

ニクラスが小さく訂正した。俺は笑った。確かに、子供の頃は鍛錬と暴れの区別がついていなかった。ニクラスの言うほうが正確かもしれない。

「母は同じ顔が二つあるからしょっちゅう間違えていた。こいつが叱られるべき時に俺が叱られたり」

「逆もあった」

双子の応酬だった。俺はいつもより口数が多かった。ニクラスが俺を見た。「お前、今夜はよく喋るな」という顔をしていた。俺もそれに気づいた。気づいたが、理由は考えなかった。

料理が来た。白身魚の焼き物。娘が一口食べた。

「おいしい」

思わず声が出た、という感じだった。目の前がぱっと広がるような顔をしていた。俺は揚げ鶏の次のひとつを手に取りながら「うん」と言った。それだけで通じる。ニクラスは口の端が少しだけ動いた。

かぶときのこのスープも来た。娘が飲んでいた。何かを思い出すような目で。

「祭りの警備で来週から忙しくなる。また前後で仕事を依頼するかもしれない」

口の中が空いたので、俺が言った。

「そうなんですか、お疲れさまです」

「ミーナ殿も忙しそうだな。さっき通りで見かけた。台を動かしていた」

「青果屋さんの台の配置を直したんです」

娘が脚の長さが五ミリ違っていた話をした。俺は思わず「五ミリがわかるのか」と聞いた。ニクラスが「わかるのだそうです」と答えた。娘の代わりに。娘が少しだけ面映ゆそうな顔をした。

五ミリ。目で見てわかる人間はいない。普通は気づかない。この娘は気づく。そしてこの娘は、それを特別なことだと思っていない。「気持ち悪いから直した」という顔をしている。

食事を終えて、店を出た。秋の夜風がひんやりしていた。通りには祭りの前夜の提灯が並んでいた。

「では、」

娘が別れの挨拶をしようとした。そのとき、ニクラスが言った。

「仕立屋の角でしたか」

俺は少し驚いた。ニクラスが娘の住所を覚えていた。以前、馬車で送ったときに聞いたのだろう。それを、今、ニクラスがはっきりと口に出して確認した。

「はい。すぐそこですから、大丈夫です」

「通り道ですから、送ります」

通り道、とニクラスが言った。

俺は、ああ、と内心で思った。

城は北だ。仕立屋の角は南寄りだ。通り道ではない。だがニクラスは「通り道」と言った。理由が要るから、理由を作った。ニクラスが、だ。

ニクラスが彼女に理由を作るのを、俺は初めて見た。普段のニクラスは、理由がなければ動かない。テルナー様の指示に従うのは、指示があるからだ。俺に声をかけるのは、双子だからだ。ニクラスの行動には、いつも明確な理由があった。

だが今夜、ニクラスは「通り道」という作り物の理由で、娘を送ろうとしている。

俺はそれに気づいた。気づいたが、何も言わなかった。ニクラスが隣で、俺と似たようなことを感じているらしい、とわかっただけだ。双子は、言わなくてもわかる。

俺はもう歩き出していた。ニクラスに合わせるふりをして。実際は、俺も娘を送りたかった。自分でもそう思った。

三人で並んで歩いた。俺が一番背が高くて、ニクラスがその隣で、娘が少し後ろ。誰も喋らない。提灯の明かりが三人の影を石畳に落としていた。

仕立屋の角に着いた。

「ここです。ありがとうございました」

「おやすみなさい」とニクラスが言った。俺は片手を上げた。それだけだった。

娘が家の方向に歩いていく後ろ姿を、俺は少しだけ見送った。ニクラスも同じように見送っていた。二人とも、同じ方向を見ていた。

背を向けて、城のほうに歩き始めた。

「通り道、か」

俺はニクラスに聞いた。嫌味ではなかった。ただ、確認したかった。

ニクラスが少し黙ってから、答えた。

「……通り道だ」

「そうか」

それ以上は言わなかった。双子は、言わなくてもわかる。今夜の「通り道」は、俺とニクラスの共通の言葉になった。

秋の夜風が冷たかった。提灯の灯が揺れていた。祭りの前夜の城下町が、俺たちの後ろで少しずつ静かになっていった。

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秋祭りの日、俺は警備の腕章をつけていた。

城下町の南通りから北広場まで、昼の巡回は三度ある。人が多いから、普段よりも気を張る必要があった。だが今日は、それだけではなかった。もう一つ気を張る理由があった。

ミーナ殿だ。

祭りの朝、俺は知っていた。あの娘が今日は城に来ない日だと。テルナー様から聞いていた。「ミーナ殿は城下町で過ごす。巡回の最中に見かけたら、目配りだけしておいてくれ」と。

目配りだけ、という言い方は、その娘を警護対象として指定しているのと同じだ。でもはっきり「警護しろ」とは言わない。なぜか。あの娘に気づかれないためだ。彼女は自分が狙われているとまだ気づいていない。気づかないままで整理整頓を続けている。それが今のところ、あの娘を守っている。

「ミーナ殿」

一人で祭りを見て回る姿は新鮮に映った。少なくとも俺には。

「こんにちは。お仕事中ですか」

「休憩に入った。ニクラスは向こうの門にいる」

嘘ではなかった。休憩時間だ、と自分に言い聞かせた。警護対象に話しかけることで任務を遂行していると知ったらミーナ殿は表情を固くしそうだ。それに、ニクラスが向こうの門にいるのは事実だった。

娘が俺の肩越しに舞台を見ているらしい。俺は半歩横にずれた。舞台のほうがよく見える位置に。小さな子が揃いの衣装で踊っている。娘が拍手した。俺は拍手しなかった。口元が少し緩んでいたかもしれないが、自分ではよくわからない。

「串焼き食べますか」

「休憩中だ」

「休憩中だから食べられるのでは」

俺は少し考えた。この娘が買いに行く、と言っているのを断る理由は、なかった。

「一本だけ」

娘が屋台の列に向かって歩いた。戻ってきて、串焼きを一本差し出した。俺はそれを受け取った。三口で食った。速い、と娘が言いたげな顔をしていたが、俺は特に何も言わずに肉を味わう。

ニクラスは記録係だから、門で人の出入りを書いている。俺は娘に、もう一本串焼きを買って、ニクラスに届けてくれと頼んだ。自分で届けに行ってもよかった。でもそうしなかった。

娘が包みを持って、門のほうに歩いていく。俺はその背中を見ていた。

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日が暮れて、提灯が点いた。祭りの灯りが城下町全体を暖色に染めていた。俺の巡回は夜まで続いていた。

あの娘がまた広場にいるのを見つけた。今度は一人で、楽団の演奏を聴いている。大人の楽団で、弦楽器の音が重く響いていた。彼女の体が、音に合わせて少しだけ揺れていた。俺の位置からは後ろ姿しか見えなかった。

俺はその後ろ姿を、数秒、見ていた。

数秒だ。それ以上は見なかった。見なかったはずだ。

そのとき、ああ、と思った。

なぜ「ああ」と思ったのかは、考えなかった。考えても答えが出ないことは、考えない。剣の稽古で学んだことだ。答えの出ない動きを考え続けるより、次の動きに移ったほうがいい。

俺は次の巡回に移った。

祭りが終わり皆帰路に着く。ミーナ殿とそれとなく合流し、仕立屋の角を曲がる前に、俺は自然と後ろについていた。巡回のついでだが、経路ではない。彼女の家がある方向だ。

仕立屋の角を曲がった。祭りの音が遠くなった。静かな通りだった。提灯の数が急に減る。暗い道を、娘が歩いている。俺は半歩後ろを歩いていた。

家が見えた。玄関脇に置いてある陶器の鉢植え。

ミーナ殿の足が止まった。

俺の目も、同時に鉢植えに行った。

「ヴォルフさん、鉢植えが動いています」

俺は鉢植えの前にしゃがんだ。地面を見る。かすかな靴底の跡があった。鉢植えの前に立って、扉のほうを向いた跡。一人分。

立ち上がって、建物を見上げた。二階の窓。留め金。外から見て、かすかに浮いている。朝はきちんと閉まっていた。誰かが外から持ち上げて開けようとした跡だ。

俺は判断した。即座に。

「ミーナ殿。今日は家に入るな」

言葉が出た。短く、硬く。巡回中の声だ。

「このまま城に来てくれ」

「なぜですか。鉢植えがずれているだけです」

俺は立ち上がって、彼女の顔を見た。街灯が少ないので、顔は半分影になって見えた。片方の目だけが、ぼんやりと見えた。薄い青の目。いつもと同じ目だった。だがその目は、状況を理解していない目だった。

鉢植えがずれただけ。彼女にとってはそれだけのことだ。大家の掃除か、猫か、あるいは風か。普通はそれで済ませる。だが今回に限っては、誰かが、この娘の暮らしの場所の位置を確認したということだ。

それは、狙いを定める動き。

俺はそれを知っていた。軍人として。獲物を狙うときに、人間はまず距離を測る。そして位置を覚える。そして戻ってくる。だから鉢植えがずれている時点で、次に来る者がいる。次は鉢植えだけでは済まない。

「鉢植えだけじゃない。二階の窓の鍵が浮いている。外から見てわかるか」

「……誰かが入ろうとした?」

「入ったかどうかはわからない。だが今は確認しないほうがいい。城に行こう」

ミーナ殿が自分の部屋を見上げた。何かを言いたそうな顔をした。

「荷物が」

「明日取りに来る。俺がついて行く」

しばらく黙ってから、頷いた。

「……わかりました」

踵を返した。俺は半歩後ろに下がって、彼女の後ろについた。歩き始めてから、俺の目は通りの影、路地の奥、屋根の上を見ていた。誰かがいるかもしれない場所を順番に確認していた。剣の柄に手はかけていないが、いつでもかけられるようにしていた。

城に向かって歩きながら、俺は娘の背中を見ていた。

ミーナ殿は歩きながら、何かを考えていた。肩の線でわかった。歩幅が普段より短い。何かに気を取られて考え事をしているときの歩き方だ。

俺は何も言わなかった。言うべきことは、さっき全部言った。あとは城に着くまで、何も起こらないように見張るだけだ。

城の門に到着した。衛兵が俺を見て通した。

「テルナー様に報告する。ミーナ殿は書庫の控室で待っていてくれ」

「はい」

控室に向かって歩いていった。俺はその背中を見送って、それからテルナー様の執務室に向かった。

歩きながら、俺は自分の手を見た。剣の柄に触れなかった手。でも、いつでも抜ける位置にあった手。

この手は、今日から別のものを守る手になった気がした。

なぜそう思ったのかは、考えなかった。

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大掃除から数日後、ミーナ殿は熱を出して倒れこんだ。

俺はテルナー様に呼ばれて、執務室に行った。

「ヴォルフ。ブレンナー軍務官から、地下のことは聞いたか」

「いいえ。詳しくは」

「ミーナ殿が地下の奥の倉庫で、監禁の痕跡を見つけた。足枷、爪の跡、腐った食べ物。恐らく口封じのために誰かが監禁されていた場所だ。……生きてはいまい。調査にあたる人員を厳選している最中だ」

俺は黙って聞いていた。テルナー様の目が重かった。

「ミーナ殿は、その部屋を見て強いショック状態となった。ニクラスが背負って運んだ。体は弱っているが、命に別状はない」

「はい」

「ヴォルフ。ミーナ殿を今夜からしばらく見張ってくれ。ブレンナー軍務官には話を通してある。控室の前でいい。誰も入れるな。リーゼ様、フリーダ、マルタ、ブルーノ、ニクラス。ミーナ殿が気を許している人だけ通せ」

「了解しました」

俺は兵舎に戻って、警備の交代を手配した。北側の巡回は別の兵士に任せて、俺は控室の前に張り付くことになった。ブレンナー様にも連絡をいれる。ブレンナー様は、承知しているという表情で、深く頷いた。

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夜遅く、控室に戻った。

フリーダが椅子で居眠りしていた。娘は眠っていた。額に布巾が載っていた。水差しが寝台の横の机に置いてあった。

俺はその水差しに手を伸ばした。飲みやすく取りやすい位置に動かす。

水差しを動かしてから、俺は自分の手を見た。

この手は、剣を握る手だ。人を守るために剣を抜く手だ。その手が、今、水差しの位置を……。そう思うと不思議に思えた。

書記官の兄も、たぶんこういう手の使い方をしているのだろう。ペンを握る手で、帳面を書いて、それで娘の周りを整えている。俺とは違う道具だが、同じことをしている。

フリーダが身じろぎをする。娘も小さく寝息を立てている。俺は椅子に座らなかった。扉の横に立ったまま、夜が明けるのを待った。

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翌日、熱は少し下がった様子だった。でも、体はまだ起き上がれる状態ではなかった。医師が朝と昼に様子を見に来た。「このまま休めば大丈夫です。若いですから」と言っていた。

皆が代わる代わる部屋に入っていった。俺は扉の横に立ち続けていた。ニクラスも一度、顔を見に来た。ニクラスは何も言わずに部屋を覗き、俺と目が合って、小さく頷いた。俺も頷き返した。それだけだった。

昼を過ぎ、夕方になり、また夜になった。娘は眠り続けていた。

夜中、フリーダが「少し休ませて」と小さく言って、隣の椅子で眠った。俺は扉の横から、フリーダが眠る音と、娘の呼吸音を両方聞いていた。呼吸が整っている。熱はまだあるが、呼吸は普通だ。それでいい。

俺も疲れないわけではないが、寝ずの番には慣れている。

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丸一日と半日経って、彼女が目を覚ました。

俺は部屋の中に入った。娘の反対側から、寝台に近づいた。娘が俺を見た。薄い青の目。いつもより少し潤んでいた。でも、意識ははっきりしていた。

娘が起き上がろうとした。

「まだ動くな」

俺は手を伸ばして、娘の額に手の甲を当てた。熱を確かめた。冷たい手だ、と彼女は思ったかもしれない。俺の手は、普段から冷たい。剣を握る手は、血の巡りが指先まで行きにくい。

「まだ熱がある。寝てろ」

娘が俺を見ていた。

「……どのくらい寝ていましたか」

「丸一日と半日」

娘の顔が、少しだけ変わった。丸一日と半日。その間、何も確認していない、と思った顔だった。水差しの位置を——と言いかけて、俺は先に伝えた。

「棚はニクラスが確認した。水差しは俺が位置を直した。動くな」

娘の目が、少しだけ潤んだ。気のせいかもしれない。俺はそれを見ても、何も言わなかった。言う言葉がなかった。言葉が出てこなかった。

言葉が出てこないときは、黙っている。それが俺の流儀だ。剣を振るときに、振らない瞬間があるのと同じだ。振らないでいい瞬間は、振らない。言わないでいい瞬間は、言わない。

「テルナー様には」

「報告済みだ。地下の件も。お前は寝てろ」

娘が小さく頷いた。

フリーダが目を覚ました。椅子の上で首が傾いていたのを起こして、俺と交代するように寝台の横に来た。俺は扉の横に戻った。立ち位置は変わらない。俺の役目は、見張ることだ。

娘が再び眠りに落ちるまで、俺はそこに立っていた。娘の呼吸が整ってから、もう一度水差しの位置を確認した。

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冬の終わりの馬車の中だった。

あの日、ミーナ殿が城下町の家の片付けに行くのに同行した。冬の間、ほぼ城で過ごしていた娘が、久しぶりに家の様子を見に行く日だった。ニクラスが書庫の仕事で手が離せなかったので、俺が一人で同行した。

行きの馬車は静かだった。娘は窓の外を見ていた。冬の城下町は雪が残っていた。石畳に雪が溶けて、馬車の車輪が水を跳ねていた。

家に着いた。彼女は家の中を一通り確認して、棚を拭いて、鉢植えの位置を直した。鉢植えは壁から十二センチ、扉の端から八センチ。俺はそれを知っていた。娘が手を伸ばす前に、俺は知っていた。

部屋自体にいた時間はとても短かった。彼女は城下町の様子を見にいくといって、多くの人と交流していた。

帰りの馬車に乗りこむ時には、彼女にしては生き生きとした顔になっていた。

娘が膝の上に布を広げた。中から、かぶが三つ出てきた。青果のおばさんからもらったのだろう。

「ヴォルフさん」

「ああ」

「これ、おばさんがくれました。ヴォルフさんも食べますか」

俺は即座に答えなかった。

かぶ。前にもおばさんからもらったと娘が言っていた。秋祭りの前の日だったか。とにかく、娘はおばさんからかぶをよくもらう。そしていつも、俺たちに「いりますか」と聞く。ニクラスにも聞く。俺にも聞く。

俺はいつも断っていた。「いらない」とか「いい」とか、短く。理由はない。ただ、もらう理由がなかった。彼女が手に入れたものを、俺がもらう必要はなかった。華奢な彼女が食べればいい。

でもその日、俺は違うことを言った。

「かぶ、一つよこせ」

言ってしまってから、自分で驚いた。

なぜ今日、そう言ったのか。考えたが答えは出なかった。ただ、そう言いたかった。

彼女は一瞬、驚いた顔をした。それから、かぶを一つ取り出して、俺に差し出した。

「はい、どうぞ」

俺はかぶを受け取った。小さくて、硬くて、冷たかった。冬のかぶだ。両手に収まる大きさだが、片手には収まらない。

娘は布を閉じて、残りのかぶを膝の上に置いた。俺と娘の間で、何も会話はなかった。俺の手の中に、かぶがあるだけだった。

窓の外を見た。雪が降りはじめた。冬の終わりの、最後の雪かもしれなかった。

俺はかぶを、膝の上に置いた。両手で包むようにして。すぐに食べるつもりはなかった。兵舎に帰って、誰かに頼んで煮てもらうか、ブルーノさんの厨房に持っていくか。それは後で考えればいい。

娘が、窓の外を見ていた。横顔が見えた。亜麻色の髪に、薄い青の髪留め。リーゼ様とお揃いの髪留め。娘はそれを毎朝、巾着から出すようにしている。

俺はその横顔を、見ていた。

……見ていた、ということを、自分で認めていた。

馬車は城に戻る道を進んでいた。車輪が水を跳ねる音。馬のひづめの音。雪が窓に当たる小さな音。全部が混ざっていた。

手の中のかぶが、ゆっくり俺の体温に馴染んでいく。最初は冷たかった外側が、少しずつ温まっていく。冬のかぶは固いし、手のひらで簡単には温まらない。でも、両手で包んでいれば、いつかは。

これでよかった、と俺は思った。

これが今の俺の形だった。

それだけのことだった。

それだけのことが、俺にとっては初めてのことだった。