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姉上、憑依転生されてません!?

作者: 成神 なるせ

本文

姉が、紅茶を飲んで言った。

「うま……こほん、おいしいですね」

アランは危うくティースプーンを取り落としかけた。

朝食の席だった。

磨き上げられた銀食器。季節の花を飾った長卓。父のしかめ面。母の完璧な微笑。

そして、王太子の婚約者候補として厳しく育てられた公爵令嬢セラフィーナ・レーヴェント。

その姉の口から今、絶対に出るはずのない音がした。

うま。

公爵令嬢が言う言葉ではない。

まして、あの姉が。

セラフィーナは、人形のように美しい姉だった。

長い睫毛も、白い肌も、花びらみたいな唇も、陽の差す回廊に立つ姿も、あまりに整いすぎていて現実味がない。

アランはそんな姉を、ずっと遠くから眺めてきた。

褒め言葉として、人形のようだと思っていた。

精巧で、繊細で、壊れやすくて、目を奪われる芸術品。

仲が良いわけではない。悪いわけでもない。

そもそも、ほとんど交流がないのだから。

父と母はアランには期待を、姉には失望を向けていた。

アランは次期公爵として勉強漬け。姉は王太子妃候補として価値を示せない失敗作扱い。

長年のそれで、姉は本当に人形みたいになった。

怒らず、泣かず、逆らわず、ただ美しくそこにいるだけの。

だから、今朝の「うま」はおかしい。

おかしすぎる。

アランは何食わぬ顔でカップを持ち上げ、向かいに座る姉を見た。

セラフィーナは涼しい顔で紅茶を置いた。

耳の先だけ、ほんの少し赤い。

父は気づいていない。母も気づいていない。

だが、控えていた侍女の肩がぴくりと震えたのを、アランは見逃さなかった。

やはり、おかしい。

少し前にも、姉は庭の薔薇を見て笑っていた。

昨日は窓の外の噴水を妙に熱心に眺めていたし、一昨日は食事を見て「野菜が少なすぎるのでは」と言っていた。

今までの姉なら、そんなことはしない。

花を見ても空を見ても表情は変わらない。食事に意見しない。紅茶に「うま」なんて言わない。

――姉上、まさか誰かに乗っ取られてません?

そんな馬鹿げた考えが、アランの頭をよぎった。

だが悲しいことに、それがいちばんしっくり来た。

その翌日、廊下で母に呼び止められたセラフィーナは、「次の王太子妃教育までに必要事項を確認したいのですが」と言い出した。

「必要事項?」

「業務内容のようなものを。何を求められているのか曖昧なまま努力しろと言われても、困るでしょう?」

母は絶句した。

アランも、少しだけ吹き出しそうになった。

業務内容。

王太子妃教育をなんだと思っているのだろう、この姉は。

だが、困るでしょう、には深く同意した。大変遺憾ながら。

ますますおかしい。

それでも、最初のうちは黙って見ていた。

アランは昔から、見ることに慣れていた。

口を出すより先に、観察して、覚えて、飲み込む。

そうしているうちにこの家で生き延びる術を身につけてきた。

姉を見るのも、その延長だった。

廊下の先に立つ姿。窓辺に落ちる影。風に揺れる金の髪。

人形のように美しい芸術品。

遠くから見ているぶんには、完璧だった。

だが最近の姉は、完璧ではない。

驚く、困る、言い間違える。

ちょっと目を離すと、庭師の鉢植えを覗き込んでいたりする。

以前の姉が完成された彫像なら、今の姉は火の灯った硝子細工だった。

危うくて、読めなくて、妙に目が離せない。

ある意味で、こちらのほうがずっと芸術的ですらある。

そして、その感想に胸が少し痛む。

本当の姉は、どんな人だったのだろうか。

アランは知らない。

知ろうとすることは、いつでもできたはずなのに。

話しかけようと思えば話しかけられた。同じ屋敷にいたのだから。

けれどアランはしなかった。

遠くから美しいと思って、それで済ませていた。

だから、もし本当に中身が変わっているのだとしても、今さら自分が何を言えるのか分からなかった。

それでも、確かめずにはいられなかった。

決定打になったのは、図書室だった。

午後の空いた時間に立ち寄ると、セラフィーナが本棚の前にいた。

手にしていたのは薬草に関する本だった。

社交術でも王家の系譜でもなく、薬草。

アランはもう、声をかけるしかない気分になっていた。

「姉上」

セラフィーナはびくっと肩を揺らして振り向いた。

その反応だけで、アランの中ではほぼ決まりだった。

前の姉なら、そんなふうに驚かない。

「……アラン」

「読書をされるのですね」

「ええ。いけなかったかしら」

「いえ。ただ、意外でした」

「そう」

そこで会話は終わると思った。

だがセラフィーナは少し首を傾げた。

「あなたは、いつもそんなに難しい顔をして本を読むの?」

アランは黙った。

姉が、自分に話しかけた。

「難しい顔、ですか」

「ええ。明日世界が終わることを知った顔」

「そこまででは……いや、どんな顔ですかそれ」

「少なくとも楽しそうではないわね」

少しだけ笑ってそう言う。

セラフィーナが笑う。

目の前で見ても、やはり違和感があった。

いや、違和感というより衝撃だ。

顔立ちは同じなのに、中にいるものが違う。そんな印象が拭えない。

その日からアランは、折を見て姉に話しかけるようになった。

ほんの短い会話ばかりだ。

食堂で、廊下で、図書室で。

長話はしない。できない。

けれど、少し言葉を交わすだけで、疑惑は増すばかりだった。

ある日、厨房の前で姉が足を止める。

「いい匂い……」

「姉上」

「なにかしら」

「今、だいぶ庶民でしたよ」

「そう?」

「そうです」

またある日には、新しいドレスの仮縫いで鏡の前に立ちながら、ぼそりと言った。

「これ、構造が複雑すぎない?」

「姉上」

「何よ」

「公爵令嬢としてあるまじき感想です」

「ええ、そんなに」

「そうです」

さらに別の日、茶会用の小さな菓子を見つめて、

「見た目はすごいのに一口で終わるの、なんだかコスパが悪いわね」

と言ったところで、アランと目が合った。

「……今のはなしで」

「手遅れです」

「厳しいわねえ」

「当然です」

そんなやりとりを重ねながら、アランは少しずつ確信していった。

姉上は、そんな顔をする人でしたか。

そんなことを言う人でしたか。

前の姉は、もっと死んでいた。

ひどい言い方だと分かっている。

だが、そうとしか思えなかった。

今の姉は、あまりにも生きている。

呆れて、困って、笑って、食べ物の匂いに惹かれる。

だからこそ、胸の奥に哀しみもあった。

本当はどういう人だったのか知れなかった。

知ろうとしなかった自分が、今さらそれを悔やむのは身勝手だ。

けれど哀しいものは哀しい。

問い詰めるなら、ちゃんと覚悟を持たなければいけないと思った。

機会は、温室で訪れた。

昼下がりの温室は静かだった。

ガラス越しの光が柔らかく、湿った土の匂いがこもっている。

セラフィーナは奥の鉢植えの前にしゃがみ込み、葉を覗き込んでいた。

「これ、ミントかな」

小さな独り言だった。

アランは声をかける。

「姉上」

「ひゃぃっ」

完全に素の変な悲鳴だった。

もう、言い逃れはできない。

「少し、お話が」

セラフィーナは立ち上がった。

スカートの裾を整える仕草が微妙に遅れる。取り繕い慣れていない人間の動きだった。

「……なにかしら」

「ここなら誰も来ません」

アランはまっすぐ見た。

「あなたは誰です」

しん、と一瞬だけ静まる。

温室の中で、葉がかすかに擦れる音がした。

「姉上は、そんな顔をする人でしたか」

「どんな顔かしら」

「花を見て笑って、紅茶に『うま』と言って、厨房の匂いに釣られて、僕に話しかける顔です」

「最後のは別にいいでしょう」

「いいえ。かなり重要です」

セラフィーナは小さく息を吐いた。

「……ずいぶん観察していたのね」

「唯一の息抜きでしたので」

「息抜き」

「姉上は人形のように美しい芸術品でした」

「それ、やっぱり褒められてる気がしないのだけれど」

「僕にとっては最大級の賛辞です」

セラフィーナは困ったように笑う。

その笑みが、また胸に刺さった。

アランは試すように言う。

「子どもの頃、一度だけ、姉上が僕に菓子をくれたことがありました」

セラフィーナは少し目を伏せ、それから静かに言った。

「……ごめんなさい」

ああ、やっぱり。

「そうなんですね」

「ええ」

「前の姉上はどこへ行ったんです」

セラフィーナはしばらく迷っていたが、やがて観念したように口を開いた。

「分からないの」

「分からない?」

「気がついたら、この身体の中にいたわ。前世の記憶がある、と言えば近いのかもしれないけれど、そんな綺麗な話でもないの。別の世界で生きて、死んで、どういうわけかここで目を覚ました」

アランは黙って聞く。

「だから、この子本人ではないわ」

予想していた。けれど胸の奥には、冷たいものが落ちたままだ。

「でも、この子がどれだけ苦しかったかは分かるの」

セラフィーナは痛ましそうに目を細めた。

「記憶そのものは曖昧でも、痛みだけは残っているの。どうやって息を殺して生きていたのか、とか」

アランは唇を結んだ。

想像はしていた。気にかかってもいた。

だが、知ろうとはしなかった。

「前の姉上は、戻るんでしょうか」

「分からないわ」

優しい声だった。

だから余計に、責める気にはなれなかった。

「怒らないのね」

セラフィーナが言う。

「怒る資格は、僕にはありません」

アランはゆっくり答える。

「本当の姉上を、僕は知りません。知ろうと思えば、いつでもできたのに、近づかなかった。遠くから眺めて、美しいと思って、それで満足していた。だから今さら返せとは言えない。ただ……悼むことしかできない」

セラフィーナはじっとアランを見ていた。

それから、ひどく柔らかい声で言った。

「この子は、素敵な弟を持ったのね」

その言葉に、アランは少しだけ息を止めた。

責められるより、よほど堪えた。

「別人でも構いません」

セラフィーナが目を見開く。

「今のあなたのほうが、ずっとましだ」

「……それ、前の子に対してだいぶ失礼では」

「ええ。なので訂正します」

少しだけ間を置いて、アランは言い直した。

「別人でも構いません。今のあなたは、生きている」

セラフィーナの表情がわずかに揺れる。

前の姉がどんな人だったか、もう知ることはできない。

けれど目の前のこの人は、生きようとしている。

それを否定したいとは思わなかった。

「それは嬉しいけれど、生きていくにはこの家、息苦しすぎるわ」

ぽつりとセラフィーナが言う。

「同感です」

「あなたもでしょう」

アランは少し口元を緩めた。

「僕も両親の人形ですから」

王太子妃候補としての人形と、公爵家嫡男としての人形。

役割は違う。だが糸を握られていることに変わりはない。

ならば、話は早い。

「秘密を共有しましょう」

「共有」

「ええ。あなたが憑依転生だということを、僕は黙っている」

「そんなにはっきり言うのね」

「姉上、憑依転生しましたよね?」

「しちゃったっぽいのよねえ」

軽い。

あまりにも軽い。

アランは思わず額を押さえた。

「そこはもう少し深刻に」

「だって今さらでしょう」

「……たしかに」

少しおかしくなって、口元が緩む。

「では」

アランは声を落とした。

「……証拠隠滅の仕方から相談しましょうか、姉上」

セラフィーナがぎょっとする。

「そんな物騒な」

「誤解しないでください。別に誰かを埋める話ではなく」

「今の流れでそれ以外に聞こえないわよ」

「僕は公爵家の嫡男ですから、使える札と消すべき痕跡を整理する癖があるだけです」

「十四歳でその発想になるの、やっぱりこの家よくないわね」

「まったくです」

セラフィーナが吹き出した。

その瞬間、アランは思う。

ああ、これは悪くない。

秘密を共有して、共犯になって、両親に隠れてこそこそ相談するのは。

思いのほか、ずっと悪くない。

それから二人は、屋敷の中で短い会話を重ねた。

父と母の前では距離を保つ。

だが食堂で目が合えば、ほんの少しだけ表情が緩む。

廊下ですれ違えば、必要最低限の言葉で情報を交わす。

使用人の中で誰がどちらに忠実か。

王家と公爵家の間で、誰が何を見ているか。

アランは知っていることを伝え、セラフィーナは慣れない貴族社会に眉をひそめる。

「思ったより面倒ね、この家」

「今さらですか」

「いや、外から見るのと中から回すのでは違うでしょう」

「回すつもりなんですか」

「一応、公爵令嬢の身体だし」

「適応が早い」

「褒めてる?」

「少し」

そんなふうに話せる相手がいるだけで、屋敷の空気は少し違って見えた。

王城から使者が来たのは、それからほどなくしてだった。

近々開かれる茶会への打診。

王太子周辺の人間がわざわざ公爵家を訪れるとなれば、父も母も気を張る。

応接間には余計なくらい花が飾られた。

母は完璧な笑顔を貼りつけ、父は機嫌よく家の格を語る。

セラフィーナには、いつも通り黙って美しく座っていればいい、そういう空気だった。

だがセラフィーナは、そのいつも通りを少しだけ裏切った。

出しゃばらない。だが黙りすぎない。

相手の言葉をきちんと受け、自然に問い返し、必要なところで微笑む。

ただの人形ではなく、会話のできる意思のある令嬢としてそこにいた。

使者は明らかに機嫌を良くしていた。

「さすが公爵家のご令嬢。聡明でいらっしゃる」

その一言で、母の笑顔が一瞬だけ引きつった。

夜、セラフィーナは書斎に呼ばれた。

アランも同席していた。

跡継ぎとして、家の評価に関わる話だからという名目だ。

父が低い声で言う。

「余計なことをしたな」

母も続けた。

「今まで求めてもできなかったくせに、急に勝手な真似をして。お前は黙って微笑んでいればいいのです」

セラフィーナは黙っている。

その沈黙が諦めではないと、アランはもう知っていた。

だから口を開く。

「それは違うでしょう」

父と母がそろってアランを見る。

アランは引かなかった。

「姉上を侮辱するのはおやめください」

「アラン!」

母が鋭く名を呼ぶ。

だがアランは構わず続けた。

「本日、王家の使者に最も高く評価されたのは姉上です。結果を出した人間を責めるおつもりですか」

「しかし――」

「しかし、ではありません」

父の言葉を、アランは初めて正面から遮った。

書斎の空気が凍る。

「姉上が黙って微笑むだけの人形でいたから、今まで何も進まなかったのでしょう。今日うまくいった。ならば、今までのやり方が間違っていたと認めるべきです」

「貴様、親に向かって!」

「親だからこそ申し上げています」

冷たく、はっきりと、言葉を打ち込む。

「姉上を失敗作のように扱うのは、この家の品位を下げるだけです。成果を認めることもできないのであれば、公爵家の名が泣きます」

母が絶句し、父の顔色が変わる。

だが反論は来ない。

来られない。

今日の結果がある以上、感情で押し切るには分が悪いからだ。

アランはさらに畳みかけた。

「王家の覚えが良くなったことを喜ぶどころか、自分たちの思い通りに動かなかったからと責め立てる。そんな姿を外に見せれば、誰がどう思うでしょうね」

父が唇を噛む。

母は扇を握りしめたまま、何も言えない。

やり込めた。

胸の奥が少し熱くなる。痛快だった。

「……以上です」

アランは一礼した。

「姉上を責めるおつもりなら、僕は反対します」

父も母ももう黙ったままだった。

書斎を出ると、セラフィーナが隣で小さく息を吐いた。

「あなた、思ったよりずっと容赦ないのね」

「姉上が思っていた僕は、ずいぶん線の細い弟だったようですね」

「うん。もうちょっとこう、繊細で儚い観賞用かと」

「失礼ですね」

「ごめんなさい。でも、助かったわ」

そう言って笑う。

その笑顔に、アランは少しだけ目を細めた。

前の姉がどんな人だったのか、もう分からない。

それは変わらず哀しい。

けれど今の姉は、こうして隣で笑う。

驚いて、呆れて、たまに庶民みたいなことを言う。

そして自分の隣に立っている。

それが思いのほか、心強かった。

廊下の窓の外には夜の庭が広がっている。

闇の中に噴水の白い輪郭だけがぼんやり浮かんでいた。

「姉上」

「なにかしら」

「その妙な言い回し、今後も矯正していきますので」

「まだそこ言うの?」

「重要です。『うま』は禁止です」

「そんなに?」

「そんなにです。コスパも」

「それはつい口から」

「ついで出る単語ではありません」

セラフィーナがくすくす笑う。

アランも、もう笑うことを我慢しなかった。

さっきまでの書斎の冷たい空気とはまるで違う。

胸の中にあるのは重さではなく、高揚だった。

味方がいる。

この家で、同じ方向を向ける相手がいる。

それだけで、こんなにも息がしやすいのかと思う。

「では、姉上」

「ええ?」

「次は本格的に反撃会議です」

セラフィーナが目を瞬かせる。

「本格的って、どこまで?」

「まずは両親の手札と弱点の洗い出しからですね」

「やっぱり物騒なのよ、その言い方」

「安心してください。まだ埋めません」

「まだって言ったわね今!」

アランは小さく笑った。

「冗談です」

「信用ならないわあ……」

そう言いながら、セラフィーナの顔は楽しそうだった。

アランも同じだった。

今まで自分は、ただ見ているだけだった。

美しい人形を、遠くから眺めているだけだった。

けれどもう違う。

姉は人形ではない。

自分も、ただの人形でいるつもりはなかった。

これから何をどう崩していくのか。

両親にどう報い、どう出し抜き、この家の息苦しさを奪い返すのか。

考えるべきことは山ほどある。

なのに不思議と、足取りは軽い。

隣にいるのが、予想のつかない、生きた姉だからだろう。

そのことが、たまらなく嬉しかった。

同じ側に立つ相手がいる。

それは思っていた以上に、心強い。

「行きましょう、姉上」

「どこへ?」

「共犯者らしく、まずは作戦会議に」

「……ほんとに共犯なのね、私たち」

「ええ」

アランは迷わず頷いた。

「ようやく、です」