作品タイトル不明
第13話 進まない翻訳と肖像画
愛がないとは、なんのことを指していたんだろう。
砂漠の国の本を開きながらも進まない手元を見て、ぼんやりと考え出した。
シリル様の部屋に招かれてから数日経っても、『愛がない』を思い出しては、あてもなく考えている。
あれから、私とシリル様は、以前のように戻った。
夜寝る前は私の部屋でお喋りをし、一日を一緒に振り返り、そして私の頭を撫でてくれる。
会話がぎこちなくなることもなかったし、態度がおかしくなることもなかった。
ただ、あの日のあの出来事だけは触れないという空気感だけがある。
それだけだけれど、近づいた心が、数ミリだけ離れた気もしている。
かと思えば、シリル様は私の手を取って、甲にキスする時もある。
これは以前では考えられないことだから、マーサが目撃した時は、「まあまあまあまあ!お祝いにケーキでも焼きますっ!?」と目を輝かせていた。
「『愛がない』…を、シリル様は知っているのかな…」
焼き付いたシリル様の顔を脳裏に浮かべては、苦い気持ちがしてくる。
シリル様が、私の好きだという気持ちに気づいていないのなら、気遣ってくれたんだとわかる。
でも、思い返すと、『私にシリル様を想う愛がないから』というニュアンスで言われたのか、疑問が湧くようになった。
『お互いに愛がないから仕方ない』なら、納得できる。
本当に、そうだったのかな…。
いや、自分の都合のいいように思いたいだけかも。
私自身を拒絶されたと思いたくないだけで。
はじめから白い結婚だったのに、今更別のことにならなかっただけだ。
ただ、あの言い回しが、やけに気になるのも事実だ。
シリル様なら『私のことが好きでもないのに、メリンダが無理矢理することないんだよ』くらい言う気がするのだ。
普段はほんわりしているけど、言うことはしっかり言う人だ。
でも、あの時の言い方は『これ以上は愛がないと辛いからね』だった。
『これ以上は愛がないと』とは、何を指していたんだろう。
もし、その何かが、シリル様の経験則に基づくものに紐付いていたとしたら…?
一度考え出すと、どうしてもここに辿り着いてしまう。
シリル様は、女性の扱いは得意じゃないと言っていた。
長年続いた再婚話を、私と結婚するまで躱してきたくらいなのだから、本気の相手以外に誰かとどうにかなってきたタイプには思えない。
少なくともこの10年は、あまり女性に積極的ではなかったと考えられる。
過去に恋人はいたかもしれないけれど、1回目の結婚は政略結婚だったと聞いている。
婚約期間も含めるなら、シリル様のお相手になり得た方はそう多くないはずだ。
そうなると、『愛がない』に当てはまる人物は、亡くなった奥様なのでは…?
そう勘繰ってしまう自分がいて、嫌になる。
シリル様がお話しにならないことを、勝手に妄想して、それでいて勝手にヘコんで。
あんな顔をするくらいに、シリル様が気にしていることのはずなのに。
私はこんな時でも、自分ばっかりで。
好きな人のことになると、こうも一喜一憂してしまうなんて知らなかった。
恋とは、最低な自分と何度も出会うことなのかな…。
私がこんなに面倒くさいなんて、知らなかった。
全く進まない砂漠の国の本に突っ伏して、はあああとため息を吐いた。
「奥様、具合がよろしくありませんか?」
昼食をとったあと、フランクに心配そうに尋ねられた。
「え、元気だよ?」
「食の進みがいつもより遅かったですし、翻訳にも身が入らないようですし…」
よく見ているなぁ〜。
食欲がないように見えて、じゃなくて、食べるスピードが遅いなのが、私だな…ははは。
どうしようかな、心配をかけたいわけじゃないんだけど。
うーんと悩んだあと、最近気になるようになったことを素直に訊いてみることにした。
「ねえ、フランク。一つ訊いてもいい?」
「もちろんにございます、奥様」
鷹揚に頷くフランクに一歩だけ近づいて、なるべく小さい声で話した。
昼間はシリル様もフェルナンド様もお仕事でいないけれど、それでもあまり大きく言うことでもない気がして。
「…前伯爵夫人の肖像画って、1枚もないの?」
そうなのだ。
元奥様のことを考えだした時に、お顔を知らないことにはたと気づいた。
すごく今更すぎて、私って本当に自分のことで精一杯なんだなと反省した。
この家の調度品や取り揃えられている物は、かなり落ち着いた印象だ。
貴族としては、質素とも言えるぐらいに物も少ない。
だからといって、肖像画が1枚も飾られていないのは不自然だ。
名家にもかかわらず、廊下にもどこにも、私の見える範囲にないとなると、敢えて出していないと考えるのが妥当に思える。
だから、フランク相手とはいえ小声にもなる。
フランクの目が見張り、珍しく返答が返ってこなかった。
「…もし、私に気を遣ってとかなら、私気にしないし」
「いえっ、奥様がというわけではなく。…前伯爵夫人、ヴェローニカ様の喪が明けてからは、坊ちゃんたちのお部屋以外は全部取り外すことになりましたので、随分前から肖像画は飾っていないのです」
「じゃあ、もう9年くらいずっと?」
「はい。旦那様のご意向でそのように」
「シリル様の意向…」
奥様のお顔を見たくないんだろうか…。
思い出すと辛いとかかな。
前を向けなくなるから、立ち上がれる日まで隠しておいたというなら、わかる気がする。
私も幼い頃はお母様の肖像画を見るのに躊躇いがなかったのに、反抗期になるとなぜか後ろめたくて見られなくなったことがある。
そんな理由だとしても、今もずっとというのは長い気もする。
シリル様は、何を思っているんだろう。
「捨てちゃったというわけじゃないんだよね?」
「はい。倉庫に保管してあります」
「それ、…私が見るのも、まずいかな?」
私の言葉にフランクは驚いた様子は見せなかったけど、一拍あってから、柔和な笑みを見せた。
「きっと、ヴェローニカ様もお喜びになると思いますよ」
フランクに案内してもらって、倉庫まで足を運んだ。
「こちらにございます」
フランクがそう手を向けたものには、白い布がかかっていた。
あたかも、何があっても目に触れないように、厳重に覆われている気がした。
私は、喉がキュッとなった。
…もし、お父様がお母様の顔を見たくなくて、こんなふうに隠していたら、悲しくなりそうだな。
自分の両親と重なって、切なさが胸のうちに広がっていく。
比較するようで申し訳ないけれど、お父様は、お母様を愛していたんだなとわかる。
お父様は今でも懐中時計の内側には、お母様の肖像画を入れている。
それに執務室の机には、私たち4人姉妹のものを飾っている。
それだけでも、随分と違う気がする。
私のせいでお母様が亡くなったことを、家族の誰からも非難されたことはない。
それは、お父様が私をお母様の分まで愛してくれているからだ。
こんなところで、父の愛を感じるとは思わなかったな…。
「…見ても、いい?」
「もちろんにございますよ」
私が頷くと、フランクは布を取り去ってくれた。
埃が舞うことなかった。
きっと、普段から使用人が布の上まで掃除してくれているんだろう。
前の奥様は、少なくとも使用人にはよく思われていたのかな。
現れた肖像画は、奥様単体のものではなく、ご家族5人のものだった。
この人が、奥様…、ヴェローニカ様なんだ。
そこに写っているのは、凛々しいお顔の女性だった。
鮮やかな赤のドレスがよく似合い、宝飾品に負けない華やかさのある人だ。
緑の瞳が、なんとも言えないくらい力強い。
目が、宝石みたいだ…。
なんというか、ルイーゼ様みたいな、貴族らしい女性といった印象かも。
シリル様と並んで座っている奥様は、この5人の中で誰よりも目立って見える。
シリル様の印象も、今とは違う。
若いのはもちろんなんだけど、いつもの柔らかさが見当たらない。
肖像画だから、ビシッと描かれているにしても、気を張っているように感じる。
いつもは優しい紫色が、強く光っているようにも見える。
このシリル様に出会っても、私、シリル様ってわからないかも…。
ほんわかした表情でもない、笑い皺もないシリル様が、やけに遠くに感じる。
2人の間に立つ小さい男の子が、多分三男のアレン様だろう。
4、5歳くらいかな。
シリル様の横に立っているのがエルウィン様で、後ろに立っているのがフェルナンド様だろう。
面影があるし、お顔はフェルナンド様が奥様似で、エルウィン様はシリル様に似ているんだな。
この5人で、家族だったんだ…。
そこまで大きいサイズではないのが、なんともルース伯爵家っぽい。
でも、廊下に飾るには十分な大きさだ。
もしかしたら、エントランスにでも飾ってあったんじゃないかな。
「夫人、綺麗な人だね」
「この日のドレスは、特にヴェローニカ様のお気に入りのものでしたからね」
「フェルナンド様は、奥様似だったんだね」
「ええ。ヴェローニカ様はご自身に似ているお子様が生まれて、安心していらしてました」
「そういうものなの?」
「男児を産むプレッシャーは、どこの奥様もあるかと思いますので」
「…それは、きっとそうね。うちも男の子がいなくて、一番上のお姉様じゃなくて結局従兄弟が継ぐ予定だもの」
「それは、大変でしたね」
「私にはわからないけどねえ」
私は、ヴェローニカ様を見つめた。
この方がシリル様を支えて、家族になった人なんだ。
どんな人だったのかな。
シリル様のことは、どう思っていましたか?
そして、シリル様はどう思っていたのかな。
「…肖像画を見ていないと、お顔を忘れちゃわないのかな」
「…そうですね。人の記憶というものは、頼りないですからね」
「息子さんたちは、普段見られているのかな?」
「それは大丈夫かと思いますよ。それぞれ小さいものをお持ちになっているかと」
「じゃあ、まあいいのか」
私は肖像画に近づいて、裏も覗いてみた。
下の方にサインが書いてあるようだったけど、ここからだとちゃんと読めないな。
裏に回ってみないとわかんないね。
物が多くて見えないけど、どかしてもらうことのほどではない。
もう一度だけ、ヴェローニカ様を見て頷く。
「フランクありがとう。掛け直してくれる?」
「よろしいのですか?」
「うん、お顔が見てみたかっただけだもの」
「そうですか、かしこまりました」
「社交界にいらしたら、高嶺の花だったろうね〜」
「…メリンダ奥様」
白い布をかけ直したフランクが、珍しく私の名前も含めて呼んだ。
「…前伯爵夫人のことは、何もお聞きにならなくてよろしいのですか?」
そう尋ねるフランクの顔が少し強張っていて、でもお父様みたいな目をしていた。
「フランクに訊いたら、全部教えてくれそうだね」
「私でよろしければ、いくらでも」
「あはは、心配してくれたんだよね、ありがとう。でも、大丈夫だよ」
「そう、ですか」
「うん。シリル様がお話にならないことは、私も知らなくていいはずだから」
「奥様…」
フランクの顔がますます心配そうに歪めて、私、ここに嫁いできてよかったなと思った。
やっぱり、みんなに大事にしてもらっていると実感する。
ヴェローニカ様も、こんなふうにこの家で過ごされたのかな。
「だから、私からは訊かないよ」
「…それは、出過ぎた真似をいたしました」
「へへへ、ありがとね。あ、今日のこと、シリル様に言っていいからね」
「かしこまりました」
「…シリル様は、嫌な顔しないかな」
「そんなことはされません。…もし、旦那様がそんな不届きなことをされましたら、私がお叱りします」
「あははっ、だめだよ。シリル様、優しいんだから」
「奥様は、旦那様に甘いんですから」
フランクは執事の顔をしながらも器用に口を尖らせたような言い方をするので、私は笑ってしまうのだった。