軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

445 神隠し②

第零騎士団の一員、ヒュー・レグランドが目を覚ました時、そこは真に近い暗闇の中だった。

目覚めた直後は状況がわからなかったが、冷えた空気が肺に入り、少しずつ意識が確かなものになっていく。

カビ臭い冷えた空気に、手のひらに感じる冷たい石の感触。光の一切ない空間は、今が昼なのか夜なのかもわからない。

呼吸を整えながら、意識を失う前の事を思い出す。

予言周りの事件で肉体的・精神的にぎりぎりまで削られていたヒューが退院を許されたのは一月ほど前の事だ。

重要な任務が多い第零騎士団では、任務中に負傷した場合は長い休暇が与えられ、医者から許可が出るまで任務に復帰できない。すっかり入院中になまってしまった体を少しでも早く回復させ、任務に復帰するため、帝都を見て回る。

入院前までは帝都は予言周りの事件の話一色だったのだが、僅かな間で帝都はユグドラの皇女来訪の話一色に変わっていた。そして、それはヒューにとって許容しがたい事だった。

予言騒動の際、《千変万化》とのやり取りを担当した自分の行動は間違いなかった。

唯一の失敗は――ヒューが、耐えきれなかった事だ。

予言にまつわる事件は結局、《千変万化》が解決した。その実態は様々な理由で公にはなっていないが、第零騎士団はほとんど役に立たなかったし、他の者達もサポートしかできなかった。

そして、ヒューは、耐えきれなかったが故に、ただの被害者になってしまった。

正体不明の存在から渡された呪物を届け、ただそれだけで入院してしまった男。もしも最後まで《千変万化》の隣で立つ事ができていたのならば、たとえ役に立たなかったとしても、ヒューの功績は認められていただろう。もしかしたら、その後のユグドラへの道程に同行する事もできていたかもしれない。そうなれば、ヒューの名は《千変万化》や《嘆きの亡霊》と共に讃えられていたのだ。

体験した千の試練は噂に聞いていた以上に過酷だった。学院を首席卒業し、エリートである第零騎士団に配属された自信は一瞬で粉々にされ、今また同じ状況になっても耐えられるかわからない。

だが、諦めるつもりはなかった。

足りないものがあるのならば補えばいい。より強靭に成長すればいい。

一人だったら心が折れていたかもしれない。だが、千の試練を受け、まだ折れていない者たちが大勢いるのだ。そういう連中に劣るというのは、到底ヒューには納得できそうにない。

まだヒューは《千変万化》にかけるのが誤りだとは思っていない。どれほど過酷な道になろうとも、その先は間違いなく栄光に繋がっている。

必要なのは功績だった。大きな功績があれば、フランツ団長もヒューが再び《千変万化》につくことを認めるだろう――。

頭を押さえ、声をあげる。

「…………そうだ。あの後、街に出ていて……確か…………噂を聞いたんだ。街の人に――入った人が戻ってこない店がある、と」

第零騎士団の役割は治安維持ではない。だが、助けを求められ何もしないなど栄光ある第零騎士団の一員として許される事ではない。それに何より、それはその時ヒューが求めていた『功績』だった。

事件の匂い。もちろん、ヒューは自分が一人で大きな事件を解決できるなどうぬぼれてはいない。真偽の調査だけして手に負えなそうだったら助けを求めるつもりだった。だが、何もせずに報告だけしてもヒューの功績にはならない。

そこで、ヒューはある程度独自に調べる事にして――市民の案内で、その店とやらに行ってみる事にしたのである。

少しずつ暗闇に目が慣れてくる。そこはどうやら、地下牢のようだった。石の壁に床。濃い闇の中、鉄格子がうっすらと見える。壁には拘束用の手錠なども設置されていたが、つけられていないようだ。

時間の感覚はないが、体力の残量からしてそこまで経っていないだろう。念の為に持っていた剣も取り上げられていない。

これは不自然な話だ。人を捕らえる時に武器を没収するのは当たり前の処置である。

恐らくここは、帝都の敷地内だろう。さすがに気絶した第零騎士団を帝都の外に連れ出せるほど、入都審査がザルだとは思いたくない。

「地下に牢獄か。ろくでもないな……ぞくぞくしてきた。思ったよりも大物だったかな」

実績としては十分である。だが、心配なのは、ヒューを案内してくれたはずの市民の姿が見えない事だ。

もしもヒューと同様に捕まっているのならば、助け出さねばならない。

また、他にも問題がある。何故意識を失っていたのか、覚えていない事だ。

こんこんと壁をノックする。小さな音が監獄内を反響する。どうやら思ったよりも広そうだ。

「騎士団の救援は――来ないかな。路地裏だったしな。あんなところに店があったなんて知らなかったし――」

古びて読めなくなった看板を掲げた、いかにも怪しい店だった。本当に営業しているのかもわからない、客がくる事自体信じがたいような。

侵入する前に情報を共有するつもりだったのだが、結局共有できていない。案内してくれた市民がさっさと店の中に入ってしまったためだ。止める間もなかった。

まったく、欲張るとろくな目に遭わない。

「まぁ、腕のサビを落とすにはちょうどいいか……」

まだヒューには余裕がある。意識を失い地下牢に閉じ込められる程度、予言騒動の時と比べたらどうという事もない。

ヒューは小さく息を吸い長く吐くと、抜剣した。

甲高い金属音。切断された鉄格子が床に落ち、けたたましい音を立てる。

第零騎士団は精鋭中の精鋭、鉄格子を切るなど容易い事だ。あの《千剣》のように木剣で鉄を切るのはさすがに無理だが――。

斬り落とされた鉄格子を潜り、外に出る。そこで、ヒューは気付いた。

斬った鉄格子。その隣にあった鉄の扉に触れる。扉は軋むような音を立てて開いた。

この扉――鍵がかかっていない? これでは逃げてくださいと言っているようなものだ。

さすがにありえない状況に、得体の知れない怖気が背筋を奔る。顔をあげ、監獄の外の通路を見る。

少しずつ目が暗闇には慣れてきてはいるが、狭い通路の先は見通せない。

嫌な予感がした。油断すれば飲み込まれそうになるその異質な空気は、決して帝都の中で体験できるようなものではない。

もしかして、賊に捕らえられた、などではないのか?

この世界そのものが敵対しているような気配は人為的に生み出せるものではない。

間違いない。ヒューだって戦闘に従事する者として幾度となく足を運んでいる。

ここは――宝物殿だ。少なくとも帝都近辺には存在しないはずのタイプの。

異常な事態に冷や汗が流れ、ヒューは唇を舐めた。

「監獄型宝物殿、か。戻って報告すれば大金星だな。昇格間違いなしだ」

声が虚しく暗闇に響く。ヒューの言葉に答える者はいない。

想像が正しければ、宝物殿の中でも特に警戒が必要なタイプの宝物殿だ。

特徴は複雑怪奇な内部構造と――徘徊する幻影だ。この手の宝物殿には複数種の強力な幻影が存在し、逃げ出そうとする者をどこまでも追ってくるという。

ヒューの持つ宝物殿攻略のためのノウハウはごく一般的なものだ。勘で探索するには状況は頗る悪かった。

装備も貧弱だ。剣は持っているが鎧は着ていないし、ポーションだって持っていない。だが、前へ進まなかったら消耗しどうにもならなくなるのが目に見えている。

緊張で喉が乾いていた。精神を研ぎ澄まし、全方位からの襲撃を警戒する。

監獄の構造は現代のものとほとんど変わらなかった。複数の房と鋼鉄の格子――もちろん帝国には存在しない古いタイプではあるが、コンセプトは変わらない。

捕らえ、虐げ、逃さない。

だが、宝物殿は無秩序に構成されているわけではない。ここが地下監獄型の宝物殿ならば、地上を目指せば出口が見つかるはずだ。

探索を進めていくと、すぐに牢獄が並ぶエリアは終わり、通路に入る。

気配を殺し、足音を立てないように慎重に進む。声に出さずに自分に言い聞かせ奮い立たせる。

ヒュー・レグランドは強い。あの凶悪極まりない気配を振りまく伝説の呪物――『呪いの精霊石』を運搬する仕事だって誰にでもできるものではない。少なくともあのレベル8ハンターに、試練を受けるに相応しい実力を持つと認められていたわけだ。

この未知の宝物殿で何が出現したとしても、『呪いの精霊石』以上に凶悪な相手というのは絶対にありえないだろう。なにしろ、伝説によるとあの呪いは複数の国を滅ぼしているのだから。

と、そんな事を考えたその時、不意に進行方向から肉が腐ったような刺激臭がした。ひんやりしていた空気が生暖かいものに代わり、べしゃりという何か湿ったものが床を打つ音が響く。

ヒューは小さく息を吸うと、音の方向を睨みつけた。

鼻の曲がるような匂い。かなり近い。いや……近すぎる。

違和感があった。この強烈な気配――ヒューの感覚ならばここまで接近される前に気づくはずなのだ。

だが、考えているような時間はないようだった。闇の中、通路の角から二メートル近い見上げるような影が現れる。

それは――人型の生き物だった。これまで見たことのない幻影だが、強いて言うのならば――ゴブリンだろうか。だが、ただのゴブリンではない。

輝くような真紅の瞳。身長は二メートル超。でっぷり太った腹部はヒューの三倍はあるだろうが、むき出しになった肉はしかし、半分溶け滴り落ち、触れた石畳から煙が上がっている。

これが腐敗臭の原因だろうか。

その右手には血塗れの斧が、そしてその左手には――鎖で繋がれた無数の人間の首がぶら下げられていた。

悍ましい姿。その爛々と輝く瞳がヒューを捉え、その分厚い唇が新たなる獲物の発見に醜悪な笑みを示す。腐敗しているように見えるが、特に痛みは感じていないらしい。

「見づ……げだ…………」

「!? 喋るのか…………」

怪物が咆哮をあげ、斧を振り上げ突進してくる。その迫力に、ヒューは片足を後ろに下げ、剣を構える。

意識を集中する。その斧を滴り落ちる血は、左手の首は、先にここにやってきた犠牲者のものだろうか? いや――。

待ちの姿勢を取るヒューに、怪物の目が一瞬大きく見開かれる。目測二メートル、斧が振り下ろされるその直前、ヒューは強く踏み込んだ。

怪物の動きは速いが、ヒューの方が更に速い。斧が振り下ろされる前に身を低くし踏み出し、すれ違いざまに斬りつける。その瞬間、その左手にぶら下げられた首と、目が合った。

頭頂から鎖で貫通するように括られた首だ。目はくり抜かれており、苦悶の表情を浮かべた首。ヒューと目をあわせた瞬間、その半端に空いた口が、確かににやりと笑みを浮かべる。

頭蓋を貫通して首をくくるなど、そう簡単にできる事ではない。

つまりこれは、犠牲者ではない。

ただのアクセサリーだ。斧を濡らす血も恐らく本物ではないだろう。過去から掘り起こされた存在である 幻影(ファントム) は往々にしてこういう特徴を持って生まれる。

と言っても、危険がないわけではない。斧を受ければ頭をかち割られるだろうし、その溶け落ちた血肉を浴びればダメージは免れないだろう。

ただ、この程度ならば、恐れるまでもないだけだ。

素早く斬りつけるヒューの動きにその怪物は完全に対応できていなかった。恐らくこれが存在していた時代には戦いというものがろくになかったのだろう。これが絶対強者だったのだろう。だが、現代では違う。

この程度ならば、勝てるッ!

勝利への確信に笑みを浮かべるヒュー。

だが、斬り飛ばすつもりで放った斬撃はしかし、何も捉えなかった。

「ッ!?」

斬りつけるはずだった一撃が空振り、つんのめる。

慌てて態勢を整え、後ろを振り向く。

そこには、何もなかった。

鼻が曲がりそうになる腐臭も、奇妙な足音も、そしてもちろん、醜悪な巨体も――影も形もない。

幻影(ファントム) はもともと倒せばいずれ消え去るものだが、それとも違う。ヒューはまだあれを、倒していない。

現れた時と同様、一瞬で消失した。

「馬鹿な…………何だ今のは……」

背筋に冷たいものが奔る。周囲を確認するが、あの怪物が存在していた痕跡は影も形もなくなっている。床に滴り落ちた腐肉まで消え去っていた。

理解できない、意味がわからない。何が起こっているのか全く見当もつかないが、立ち止まっているわけにはいかない。

ヒューは呼吸を整え冷や汗を拭うと、再び暗闇を歩き始めた。

§

どうやらこの監獄は随分広いらしい。石造りの内部はまるで迷宮のように入り組んでいて、冷たい空気と闇がじわじわとヒューの体力を奪っていく。

幻影は最初の一体以来現れなかった。これもこれまで探索してきた宝物殿とは異なる不自然な点である。たまに遠くから足音や物音が聞こえる事もあるが、反響のため音の源がどこなのか把握できない。どうやら想像していたよりもだいぶ深い所に捕らわれていたらしかった。

「ッ…………また罠か。面倒くさいな」

足元の石畳が凹み、背後から黒く塗られた矢が飛んでくる。ヒューは身を捻るようにして飛んできた矢を回避する。

盗賊ではないヒューでは罠を回避する事はできないが、飛来する矢を避け損なう程、近衛騎士は弱くない。速度がもう少し速かったら苦労していただろうが、どうやらこの宝物殿の罠は現代の人間に対応しきれていないようだった。

あるいは、当てるつもりはないのかもしれない。何故だろうか、この宝物殿には手心さえ感じられる。まるでヒューを試しているかのような、手心を。

どれだけ進んでも風景は代わり映えしなかった。部屋もそれなりの数あったが、内装もほとんど変わらず、この宝物殿がどの文明を元にしているのかもわからない。

こうして歩いていると、果たして自分が進めているのかすら定かではなくなってくる。ろくに情報がない未知の宝物殿を探索するハンター達を称賛したい気分だ。

そんな事を考えながら歩いていると、再び監獄に似たエリアに差し掛かる。どうやらこの宝物殿は暗い通路と牢獄部分で構成されているらしい。

もしかしたら自分以外にも捕らえられた者がいるかもしれない。

音を立てないように注意して金属の扉を開き、中を確認する。

鉄格子に遮られた無数の小部屋を一つ一つ確認していく。

どの部屋も生き物の気配はなかったが、部屋の一つを覗いたその時、ヒューは目を開いた。

鍵の空いている扉を開け、慎重に中に入る。そこにあったのは――亡骸だった。

既に完全に白骨化している、恐らく人間の亡骸。壁によりかかるようにして亡くなっている。

格好からして、ハンターだろうか。近くには持ち物だと思われる完全に錆びついたナイフや割れたランタンなどが転がっている。

だが、ヒューが目をつけたのは、だらりと下ろされた右手の前にあった一冊の手帳だった。

手帳は他の道具と違って劣化が少ないようだ。革表紙のそれを拾い、中をぱらぱらと捲り、求める情報を探す。

幸いな事に、手帳に書かれた文字はヒューにも読み取れるものだった。しかも、何故だろうか……この字、どこかで見たような気がする。

『ここは奴らの実験場だ。奴らは人を攫い、観察し、実験する。遥か遠き神より下されし使命を果たすために』

実験場? 奴ら……? 遥か遠き神より下されし使命?

幾つもの不穏な単語に、眉を顰める。ゼブルディアで神と聞き真っ先に連想するのはかつて帝都の位置に存在していた神殿型宝物殿を支配していた者である。

だが、神殿型宝物殿が攻略されたのは既に千年も前の話だ。何より、この場所は神殿らしくない。

手帳に書かれていたのは日記のようだった。この場所を調査した日記。

じっくり読みたいところだが、そんな時間はない。不要な箇所を読み飛ばし、さっさとこの場所を出るヒントを探す。

『この場所に出口はない。ここにあるのは、恐怖だけだ。過去の記憶から恐るべき者共を呼び起こしたこの隠された監獄を、私は【星神の箱庭】と名付けた。きっと、ここにやってきた者達は皆、なすすべもなく、力尽きる。助けは来ない。光はない。深淵の中、永遠に、取り残される』

【星神の箱庭】。やはり、この宝物殿は【星神殿】と関係のある場所なのか?

だが、やはりわからない。ここには名付けたと書かれている。偶然の名付けで星神という単語は出てこないだろう。

無心にページを捲る。

それが書いてあったのは、最後のページだった。

震えたような文字で書かれたその文章を読んだ瞬間、息が止まった。

目を見開き、何度も何度も文章を見直す。理解ができなかった。

『私の名は第零騎士団の一人、ヒュー・レグランド。結局、ゼブルディアで立身する事もなく、《千変万化》に記憶される事もなく、誰にも認められずに終わってしまった。ただただ、無念だ』

震えた手で書いたような乱れた文章。

そこでようやく、ヒューは気付いた。

この手帳に書かれている文字――道理で見覚えがあると思った。

これは――私の字だ。

「ッ!?」

不意に地面に投げ出されていた亡骸の腕が上がり、その手がヒューの手首を掴む。慌ててそれを振り払い、後ろに下がる。

されこうべが、けたけた笑う。いつの間にか、その亡骸の装備はハンターのものから鎧に変わっていた。黒ずみ無数の傷がついているが、間違いない。

その鎧は、栄えある第零騎士団の騎士にのみ与えられたものだ。すぐ近くには同じ朽ちた第零騎士団の剣が落ちている。

目眩がした。心臓が早鐘のように鳴っている。これは、未来の自分の姿なのか?

そんなわけがなかった。

ヒュー・レグランドは自分一人だ。とっさに叫ぶ。

「手帳は、名乗り、かッ! 道理で、ゼブルディアの公用語で書かれているわけだ! 【星神の箱庭】…………この情報を外に届ければ、大金星だッ!」

おかしいとは気づいていた。ハンターの装備がぼろぼろなのに、手帳は問題なく読める程度に形を保っていた。

亡骸も本物の人の亡骸ではなかったのだろう。そして――中に書かれていた内容。

恐怖を煽るような内容。道中に現れた、攻撃が通じなかった怪物。無限に続いているかのような監獄内部。

「幻だッ! 全てッ! 私の頭の中を読み取っているなッ! そう考えれば、これまでの現象にも説明がつく!」

人を攫い、心を読む宝物殿。宝物殿には特殊な性質を持つものがあるが、それと同種だろう。

自ら名乗る宝物殿など前代未聞だが、神殿型宝物殿については未だ解明されていない事が多い。それに連なる存在ならば、何があってもおかしくはない。

不意に全身に無数の視線を感じた。見ている。目に見えない何かが、ヒューを観察してる。

壁に背をつけ、剣を構える。だが、果たして自分は本当に壁を背にできているのかすら自信がなかった。

目に映るもの全てが信じられない。

振り払ったヒューの亡骸もいつの間にか消えている。遺品も全て含め、まるで最初からそこには何もなかったかのように。

深呼吸を繰り返し、なんとか動揺を鎮める。宝物殿の性質がわかっても状況は解決していない。倒すべき相手も、救うべき対象も、脱出手段も、何も見えていない。

荒く呼吸を繰り返しながら必死に突破口を探るヒュー。その時、闇の奥から囁くような声がした。

「この世界の騎士って、皆こんなに強いの?」

「ッ……何者だッ!!」

いつでも斬りかかれるように剣を構える。

闇の奥から現れたのは、一人の黒髪の少女だった。まっすぐ切り揃えられたショートカットに、人形のような整った容貌。杖は持っていないが、ゼブルディア魔術学院の印章の入った制服を着ている。

その顔を見て、不意に記憶が蘇る。

闇に浮かぶその顔は、ヒューがこの状況に陥ったきっかけになった情報を齎した市民のものだった。

全て、罠だったのか。助けを求めてきた時点で。

恐ろしい擬態能力だ。幻影なのか? こうして眼の前にしても、その少女は人間にしか見えない。

「まさか、モンスター・ディギーを見ても怯えるどころか、斬りかかってくるなんて――彼は老若男女別け隔てなく殺戮し、大都市を恐怖のどん底に陥れた怪物なのに……モンスター失格だと、すっかり自信をなくしてるわ」

「はんッ! よくあるただの怪物だッ! それよりも、お前を倒せばここから脱出できるのか!?」

全力で声を張り上げ、正体不明の怪物を威嚇する。

恐れるな。人語を解する幻影は前例がある。高レベル宝物殿でしか出現しないはずだが、ここが普通の宝物殿でない事はとっくにわかっていた事。

ヒューはたとえ未知の幻影に遭遇したとしても、怯えたりはしない。

「……この世界どうなってるの? それに、そんな怖い事言わないで。泣いちゃうでしょう? うっ……ふふっ……」

その双眸から一筋の黒い涙が流れる。血の涙だ。

これまで遭遇した事のない怪しげな気配。少女がうつむき、肩を震わせる。そして――。

「ふふっ…………ふふふッ…………あははははははははッ!」

「ッ!!」

その首が、伸びた。黒い涙を流しながら、ボール大の頭がヒューに向かって飛来してくる。ヒューは息を呑んだ。

馬鹿げていた。首を伸ばしてくる人間そっくりの魔物。

数いる魔物の中でも異質な存在であるのは間違いないが、頭だけで向かってきて何ができるだろうか? 何より、ヒューは剣を持っているのだ。

「う…………おおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

ヒューは弱気を消し飛ばすように咆哮し、前に出た。こちらに向かってくる頭をぎりぎりでステップを踏み回避し、剣を振りかぶる。

「伸ばした首ががら空きだッ! 弱点をさらすなんて馬鹿なんじゃないか!? 頭だけ動くならデュラハンの方が強い!」

「この世界、ホント、いろんなものいすぎ。嫌いよ。だって、居場所がないもの」

首を叩き切る寸前、言葉を残して、その姿が幻のように掻き消える。

静寂の戻った通路。

相手の能力が、この宝物殿の性質が、わかった気がした。

恐怖、だ。暗闇からやってくる如何にも恐ろしげな怪物。監獄で朽ち果てていた、自分の死体。

この宝物殿は、幻を使い、ヒューを恐怖させようとしている。一部の妖魔が使う手だ。

勝てる。攻略できる。ヒュー・レグランドなら――恐らく神の残したであろうこの残骸をッ!

肩で息をつくヒューに、どこからともなく声がした。

「でも、無理よ。あなたが恐れるものは、もうわかっているの。私達と何が違うのかわからないけど――」

「何ッ!?」

声の元を探し慌てて振り返る。その時、全身を流れる血が凍りつくかのような衝撃がヒューを襲った。

これまでとは段違いの衝撃。息が止まり、手から力が抜ける。剣が落ちる音が響き渡る。だが、武器を落としたことなどもうどうでもよかった。

目を限界まで見開く。

眼の前、空中に小さな木製の箱が浮かんでいた。美しい意匠の施された箱だ。

「ば、馬鹿なッ……なぜ、これが…………これ、は、既に、解決したはず――ッ」

忘れるわけもない、トラウマの記憶。予言周りの騒動で最後に解き放たれた、国を滅ぼした伝説の呪い。

ヒューが謎の存在に押し付けられるように渡され、《千変万化》が対応したはずの呪物。

『呪いの精霊石』

濃厚な死の気配。その気配は、とてもただの幻から出せるものではなかった。

蓋が音もなくスライドし、床に落ちる。

かつては視認する事すら叶わなかった『呪い』が、禁断の箱から吹き出してくる。

そして、ヒュー・レグランドの意識は闇に呑み込まれた。