軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

344 枯らす者

幻影がユグドラに向かって来ている。その情報を聞いても、シトリーの反応はアドラーが予想していたよりもずっと小さかった。

その発端が自分達のリーダーが放った狗の鎖だと言うこともしっかり伝えているのに、まるで全てが予定調和であるかのようだ。

現人鏡は森の中を歩く漆黒の仮面を被った異質な魔導師の姿を映し出し続けていた。足こそ速くないが、進む方向に迷いはない。何らかの手段で狗の鎖の痕跡を辿っているのだろう。数時間もあればユグドラまでたどり着くだろう。

見れば見るほど気味の悪い幻影だった。もともと人間に似ている幻影は強力な傾向があるが、それだけではない。ゾークを殺しユデンを両断した騎士の幻影も強かったが、この幻影はまたあの幻影とも何かが違った。何が違うのか、言葉で断言することはできないが――。

幻影の姿を見たシトリーが思案げな表情を作り、頷く。

「なるほど…………今回は、そういう作戦でしたか。予想外ですね…………いや、いつも通りと言えばいつも通りとも言えますが」

「シトリー……オマエ、ヨワニンゲンの策に慣れすぎだろ、です」

「まぁ、今回はクライちゃんがここまで来てるしねえ……」

仕方がないとでも言わんばかりに肩を竦めるリィズ。どうやら今回のような事は珍しくないらしい。

山と積まれた硝子に、宝石。並べられた錬金術師特有の実験器具に囲まれながら、ルシアが幻影の姿を見てしかめっ面を作る。

「こっちもまだ目処が立っていないっていうのに――まったく。しかも――最悪です。この幻影が連れている精霊、ただものじゃない。幻影本体も含めると、片手間で対応できる相手ではありません」

「うーむ……」

トレジャーハンターとして生き残るには相手との力量差を判断する能力が不可欠だ。その言葉は、片手間でなければその幻影もどうにかできるという自信を示していた。

ルシアの言葉を腕を組んで聞いていたラピスが鼻を鳴らす。

「ふん…………容易い相手ではない、が、ユグドラを捨てて逃げるわけにもいかん」

「…………ところで、ヨワニンゲンはどこに行ったんだ、です?」

「クライさんなら……この場を私達に任せて、セレンさんとどこかに行きました。クライさんにはクライさんのやるべきことがあるんです……多分」

げんなりしたような表情をするクリュス。シトリーはしばらく幻影の動きを観察していたが、小さく咳払いをすると、ぐるりと周りを見回して言った。

「私達だけで迎撃します。相手は単騎で、準備をする時間もあります。見たところ、クライさんの手を煩わせる程でもない……と思います…………多分」

「…………まぁ、迎撃しないわけにもいかないが……何か策でもあるのかい?」

ゾークを殺したあの騎士の幻影と同格の相手だとすれば正面からぶつかるのはあまりにも危険だが、強力な魔導師は騎士を相手にするのと違って有効な手というのがほとんど存在しない。

彼らは万能だ。彼らは強力な結界を纏い自在に空を飛び、自然を操る。個人差が大きく、こうしてどのような術を得意とするのか前情報もない状況では手は打ちづらいが、既に時間はあまり残されていない。

アドラーの問いに、シトリーは不思議そうな表情をしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。

§

まだ距離はあるはずなのに、流れ込んでくる淀んだ空気を感じた。

膨大なマナ・マテリアルを蓄えた幻影や強大な力を誇る魔獣は相応の空気を纏う。今回の幻影は身体の大きさこそ小柄だったが、その身に秘めた魔力は竜にも匹敵していた。

現人鏡の中。仮面の魔導師は、ぼんやりとユグドラの入り口に立っていた。足元からは細い煙が上がり、ユグドラの入り口付近に生えていた草木が枯れていく。

その横には大きな黒い精霊が揺蕩うように浮かんでいる。幻影はしばらくその場で立ち止まっていたが、やがてゆっくりと足を踏み入れた。

数千年の歴史を誇るユグドラには、外敵を遠ざけるために強力な結界が張ってあるらしい。周辺に生息する強力な幻獣・魔獣をも遠ざける結界だ。

人に酷似した足がユグドラと外の境界を跨ぎ、地面に触れる。だが、何も起こらない。

その様子に、アドラー同様、固唾を呑んで鏡を見ていた精霊人の一人、アストルが目を見開く。

「ユグドラの結界が……発動していない?」

「ありえない、です……何千年もの間この地を管理してきた精霊人の結界だぞ!? です。む、無理やり突破するならともかく、すり抜けるなんて――」

幻影は何の痛痒も見せることなく、ふらふらと誰もいないユグドラの町を歩いていた。既にあの幻影の注意は追いかけていた『狗の鎖』からユグドラ自体に移っているようだ。

歩くだけだが、枯らす能力は健在だ。ユグドラの住居は木で作られている。大きさが大きさなのですぐに枯れ落ちる事はないだろうが、あまり悠長にしている時間はないだろう

だが、共に鏡を覗いていたシトリーに焦りはなかった。一度鼻を鳴らし、どこか妖艶な笑みを浮かべる。

「ユグドラの結界が効かない事くらい、想定済みです。だって結界に阻まれたら――つまらないでしょ?」

自信満々なセリフ。幻影がユグドラの中心部にある広場――開けたスペースに差し掛かる。その時、四方から光の柱が立ち上がった。

ゼブルディア有数の守護騎士。《不動不変》のアンセム・スマートの結界魔法。

突然の光に一瞬硬直する幻影。その上に浮いていた漆黒の精霊を、不意に飛来した長い棒が穿つ。

風船のようだった精霊の身体が四散する。

結界の外から、棒を投げつけたのはリィズだった。盗賊にとって短剣の投擲技術は基本スキルだ。今回投げたのは短剣ではなく『 対魔金属鋼(アンチマナメタル) 』の棒だが、投擲した棒は確実に精霊の核を穿っていた。

もちろん、この程度では精霊は死なない。ただ、その力を散らしただけだ。

だが、十分だった。一瞬でもその動きを止めることができれば、残ったのはただの魔導師の幻影一体だけだ。

予定通りの場所に命中させたにも拘らず、リィズがどこか不満げに言う。

『もー、私は接近戦がいいのにぃ!』

『お姉さま! ちょっと後ろに!』

ティノがリィズを引っ張り後ろに下がる。そして――鏡の映像が白に染まった。

はるか彼方で発生した凄まじい轟音が空気を揺らし、振動と風がアドラー達の元まで押し寄せてくる。

《万象自在》のルシア・ロジェの攻撃魔法。

その威力は、以前戦っていた時よりもはるかに高かった。基本的に攻撃魔術は広域への攻撃より一点への攻撃の方が威力が高くなる傾向がある。

今回《不動不変》の張った結界は外の攻撃から中を守るためのものではない。破壊を内側から外側に漏らさないためだ。

幻影が見せた枯らす力を、そしてルシア・ロジェの攻撃魔法のエネルギーを外に逃さないための結界。それでも幾らかの衝撃は外まで漏れたが、この程度で済むのならばまだマシなのだろう。

「策なんて不要ですよ。策に頼りすぎれば地力が落ちます。私達はクライさんがそう判断しない限り、正々堂々正面から戦います。あれは――ルシアちゃんの相手です」

「どこが正々堂々だよ」

そのこちらの戦力を十分発揮した無駄のない攻撃に、クイントが呆れたように言う。

「こんなのクライさんの策に比べれば策なんて呼べませんよ」

砂埃が収まる。そこにあったのは――大きなクレーターと、その中心に立つ幻影の魔導師の姿だった。

幻影の真上にふと黒い点が生じ、みるみる大きくなり黒い精霊の姿となる。

魔導師の身体には小さな罅が入っていたが、血の一滴も出ていない。その罅もすぐに消える。

隣で鏡を覗いていたウーノが目を大きく見開いた。

「これは……強固なマナ・マテリアルが装甲のようになってますー!」

「マナ・マテリアルの装甲……幻影特有のアプローチですね」

内側まで攻撃は到達していなかったのだろう。あれほどの奇襲を受けてこの程度のダメージとは……やはりレベル10宝物殿の幻影となると一筋縄ではいかない。

あのレベルの威力の攻撃を耐えられる魔獣は《千鬼夜行》にもいなかった。貧弱なはずの魔導師型幻影の見せた思わぬ耐久力に、ウーノが落ち着かない様子でシトリーを見る。

「ど、どうするんですかー? ほとんど無傷みたいですがー!」

「倒すまで攻撃するに決まってるでしょう。攻撃が通らなかったわけではないんです。ルシアちゃんの魔法はそう何度も耐えられません」

「……へッ!?」

不意に、冷たい風が吹いた。きらきらと空気が輝き、無数の矢が天空に顕現する。

強敵を前にしての躊躇いのない魔術行使。空に浮かぶ無数の氷の矢は幻想的で、その冷たい殺意を示しているかのようだった。

アンセムの結界の外。ルシアが持っていた長い杖を振り下ろす。

氷の矢が陽光を反射し、魔導師に降り注ぐ。逃げ場もない程の密度で放たれた氷の矢に対して幻影が取った行動は――迎撃だった。

きらきらと光る空気。一瞬で周囲に構成された氷の矢がルシア・ロジェの放った氷の矢を迎撃する。

無数の矢と矢がぶつかり、氷が激しく砕け散る。押し寄せる冷たい空気と轟音に、アドラーは自然と身を震わせていた。

きらきらと砕けた欠片が魔導師の幻影の周りに舞い落ちる。ルシアの矢は一本たりとも幻影に届いていない。

目を見開き、その戦闘風景を凝視する。

「相殺した!? 互角、だって!?」

障壁を張り防ぎ切るのならばともかく、矢の魔法を撃ち合って全ての攻撃を撃ち落とすなど、本来ありえない。

隣で様子を見ていたシトリーが感心したように言う。

「いや……互角ではありませんね。まさかルシアちゃんと同じ魔法を使ってルシアちゃんに打ち勝つなんて――」

「!?」

空から降り注ぐ矢は止まる。だが、幻影の魔法は終わっていない。そのまま放たれた無数の氷の矢が結界の外に立っていたルシアに飛来し、アンセムの張った結界に阻まれ消える。

どうやら打ち勝つといっても、そこまで大きな差はないらしい。

ルシアは一瞬、呆気にとられたように自分と同じ魔法で自分を凌駕した幻影の魔導師を見るが、すぐに表情を戻した。

不機嫌そうな表情を作り、杖を握りしめる。

『なるほど…………面白い。いつもと比べれば余りにも単純ですがそういう事なら――そろそろ格上の魔導師と遭遇する機会も減ってきたところです』

『待て、ルシア』

杖を振り下ろそうとしたその時、ルシアの後ろから声がかけられた。

護衛のためにアドラー達の元に残ったアストルを除いた《星の聖雷》のメンバー達だ。

全員ルシアの左右につくと、そのリーダーであるラピスが腕を組んで言う。

『邪魔をするつもりはないが――今は、あれに構っている時間はない。加勢させてもらうぞ』

『…………どうぞ、好きにしてください』

ルシアが杖を振り上げる。その目の前の空気中が渦巻き、数メートルもある巨大な槍を構築する。

量で制圧できなかったから今度は質で勝負する。単純明快な答えだ。そして今回は一人ではない。

顕現した鋭利な氷の槍を確認すると同時に、《星の聖雷》のメンバー達が術を行使する。

『今回はルシア、貴様に合わせてやろう』

魔術に適性のある精霊人が五人。精霊人達の前に一瞬で様々な色を持つ矢が顕現した。

矢を生み出し放つ術は基本的な攻撃魔法の一つであり、術者の熟練度が直接に反映される魔術でもある。

本数に威力。発射速度に、命中精度。広範囲の敵を倒すのには向いていないが、高位の魔術師の 魔法の矢(マジック・アロー) は威力だけならば上級攻撃魔法に匹敵するのだ。

しかも、今回は複数人の魔導師が同時に術を使った事で、魔法の矢にも多様性が生じる。水の矢。風の矢に、雷に、土。炎の矢がないのは精霊人が火を苦手としているからだろう。

そして、それら無数の魔法が合図もなく一斉に放たれた。

ルシアの巨大な槍が砲撃のような速度で放たれ、精霊人達の矢が弧を描き高速で幻影を襲う。

幻想的な光景に秘められた『技術』に、ウーノがため息をつく。

「すごいですねー…………精霊人の魔術の腕は有名ですが――あんな大人数で術を使っているのに、巧みに互いの術に干渉しないよう、避けています……」

ルシア・ロジェは当然として、他の精霊人達も間違いなく一流の術者だった。

本来、複数人の魔導師が一斉に一人のターゲットに攻撃魔法を使うのは効率が悪い。互いの魔術同士がぶつかりあったら威力が大きく削ぎ落とされるからだ。だが、彼女達の矢は相殺を避け威力を保つために、直線ではなく弧を描き対象に迫っている。

ここまで様々な属性の魔法で狙われては先程のような相殺も難しい。

幻影の動向を――自分の魔法を凌駕してみせた魔導師の次の手を観察するルシア。迫る魔法を見て、幻影は再び手を持ち上げた。

『ッ!?』

ルシアが目を大きく見開き、息を呑む。強い風が吹き、幻影の髪が大きく揺れる。そして――その目の前に、巨大な氷の槍が生み出された。

いや――生み出されたのはそれだけではない。

幻影の周囲に、続けざまに魔法の矢が生み出されていく。《星の聖雷》のメンバーが生み出したものと同じ種類の魔法の矢。

「……複数の魔法を同時発動――ありえない…………いや、かつて存在していた魔導技術はそこまで進んでいたのか――」

純粋な魔導師ではないアドラーでも知っている。複数種類の攻撃魔法を同時に展開するのは至難の業だ。それもあれほどの数となると、恐らく現代の魔導師で再現できる者はいないだろう。

《星の聖雷》のメンバー達も呆然としているのが見える。矢と矢がぶつかり合い、相殺されて花火にも似た光が瞬く。

ルシアの放った氷の槍と幻影の生み出した氷の槍が真っ向からぶつかり合い、双方の槍が四散する。

威力はほぼ互角だろうか、だがこちらはルシア含めて六人の魔導師で攻撃しているのだ。そして、まだ幻影も、そして精霊も、攻撃を仕掛けてきていない。

様子を見ているのか、他に理由でもあるのか――再び静寂が戻る。

「……魔術では完全に向こうが上のようだね。だが、勝敗を分かつのは純粋な実力だけじゃあない。まだ物理的な攻撃を交えれば勝機はある。 守護騎士(パラディン) の守りの術は対魔導師向けだ」

まだ勝機はある。こちらの手札はルシアや《星の聖雷》だけではない。

勝敗を決めるのは、対魔術防御の術を受けたリィズの神速にあの幻影が対応できるかどうか、だろう。

リィズ・スマートの速度はこれまでアドラー達が出会ってきたどの 盗賊(シーフ) よりも上だ。あの速度は初見殺しに近い。

攻撃に転じる隙をついて殺す。あの 対魔金属鋼(アンチマナメタル) を使えば精霊だってどうにかなるだろう。

そんな事を考えていると、シトリーが目を瞬かせ、納得したようにうんうん頷いた。

「あー…………そういう事でしたか」

「え?」

ウーノがシトリーを見る。

鏡の中のルシアが不機嫌そうな表情に変わっていた。眉を顰め、自らの手のひらを見て言う。

『……………………なるほど……必要なのは並列起動じゃなくて、待機、か。射出までの待機時間を設けた術を順次構築する。確かにこれなら、疑似的にではあっても、異なる術を同時発動できる。後少し時間があれば……私一人でも気づいたのに……』

拗ねたような声。ルシアが顔をあげ、幻影を見る。それと同時に、その周囲に魔法の矢が生み出された。だが、今回は氷の矢だけではない。

水の、炎の、氷の、土の、風の、あらゆる属性を持つあらゆる色の矢が順番に空気中に浮かんでいく。顕現までの速度こそ遅いが、それは先程の幻影がやった事の再現だった。

空中に浮かぶ矢に囲まれ、《万象自在》が杖を大きく前に突きつけ、冷ややかな声で言う。

『力比べは終わりです。射出まで十秒。それだけあれば多少大きな魔法も使える。防御してください』

「?? なんで敵にわざわざそんな警告を――」

ウーノの疑問に、シトリーが呆れたように言う。

「…………敵に言ってるわけないでしょ。あれは、ラピスさん達に言ってるんですよ」

「え?」

周囲に浮かんでいた矢がほぼタイムラグなく射出される。

迫りくる無数の矢。幻影が手を持ち上げたその時、ルシアが高らかに呪文を唱えた。

『 過重(オーバー・) 重力波動世界(グラビティフレーム) !!』

「ッ!?」

空気が軋む。ルシアを囲むようにして立っていた《星の聖雷》のメンバー達が目を見開き、苦痛の声をあげ跪く。

幻影の身体がまるで真上から押しつぶされたかのように地面に崩れる。そして、その無防備な背にルシアが放った矢が着弾した。

§

水と炎の矢が互いに干渉し爆発、水蒸気となり視界を塞ぐ。

ウーノが呆れたような、感心したような声をあげる。

「うわ…………あれ、重力魔法ですかー? 珍しい…………でも、まさか味方まで巻き込むなんて――」

「ルシアちゃん、クライさんに頼まれて重力魔法の研究していたから――大丈夫、死にはしませんよ。そもそも味方に攻撃が当たることを気にして魔法なんて使えません」

シトリーのそっけない言葉。最初に遭遇した時、突然攻撃を仕掛けてきた際にもとんでもないパーティだと思ったが、どうやらその印象は間違えていなかったらしい。

術のタイミングは完璧だった。重力魔法で相手の抵抗を潰すことにより、ルシアの放った攻撃魔法は相殺される事なく、確実に幻影に着弾した。

並の幻影ならば確実に吹き飛ぶレベルの攻撃だ。だが、ルシアの険しい表情は変わらない。

巻き込んだ仲間も無視し、一人じっと水蒸気を睨みつけるルシア。

立ち込めていた水蒸気に一点、黒が交じる。黒はみるみる全体に広がり、地面に水滴となって落ちる。

水蒸気の向こうから現れたのは、倒れ伏す幻影と、まるでそれを守るかのように前に出た精霊の姿だった。

幻影の全身には先程よりもずっと大きな罅が入っていた。だが、そこからは血の一滴も出ていないし、罅についてもみるみるうちに修復していく。

どうやらあれだけでは足りなかったらしいが、今はそちらに構っている場合ではない。

黒い雫が滴り落ちるどろどろに溶けた黒い球体のような身体に、ぽっかりと開いた二つの目がじっとルシアを見ていた。

一体何の精霊なのだろうか、地面に落ちた黒い雫は瘴気を振りまき地面を黒く侵食している。つぶらな瞳は一見可愛らしいが、その精霊が魔導師の幻影をも凌駕する怪物である事は間違いない。

どうやらここからが本番らしい。

それまで終始冷静だったルシアの頬に冷や汗が流れ落ちる。ルシアは羽織っていたローブの中から水の入った瓶を取り出すと、蓋を開けた。中の液体が宙を舞い、細い帯となってルシアを守るように囲む。

水の精霊だ。精霊の使役は魔導師の術の中でも奥義とされている。

まだ隠し玉を持っていたのか。それは驚嘆すべき点だったが、それを含めてもまだルシアの方が分が悪いだろう。精霊の格が違うのだ。

重力魔法から解放された《星の聖雷》のメンバー達が立ち上がり、杖を構える。だが、全員足してもどれだけ差を埋められるか――。

絶体絶命の状況。戦況の推移を観察していたシトリーが困ったような表情で言う。

「うーん…………さすがにちょっと不利、かな。ルシアちゃんは勝ち目がなくても戦おうとするけど――ミレスを使うしかないですね。上位精霊には上位精霊です」

「ミレス……? そう言えば、ラピスも言っていたね……ユグドラの守護精霊、とか」

「事情があって避難させているんですが、少しくらいなら使えるはず――問題は、ミレスがみみっくんの中にいるって事と、それを使えるセレンさんがいないって事ですが……」

「………………確認してみよう。現人鏡よ、セレンを映し出せッ!」

セレンは《千変万化》と共に出ていったと言ったか――まったく、タイミングが悪すぎる。どうして《千変万化》の手腕を見てやろうと思ったのにアドラーの方が動いているのだろうか?

湧きかけた不満を押し殺し、現人鏡に命令する。

鏡の像が切り替わる。そして、映し出された映像を見て、アドラーは一瞬状況を忘れた。

そこに映し出されていたのは、以前《千変万化》が着ていた派手な柄のシャツを着たセレンの姿だった。

困ったような表情をした《千変万化》に背を押され、ふらつきながらユグドラの街の中を歩いている。

それだけでも尋常ではない何かが起こっているのはわかるが、一番アドラーを驚かせたのは、セレンのその表情だ。

昨日、見た凛とした表情とは正反対の、瞼を半分閉じた、いかにも眠たげな表情。足取りもふらついており、たまに欠伸までしている。

アドラーが観察した限り、セレンは責任感の強いタイプの精霊人だったはずだが、今のセレンからは昨日までの面影がまるでない。

『困るよ…………あの音、聞いただろ? 快適なのはいいけどしっかりして貰わないと』

『もういいんですよ。どうせ世界は滅ぶんだから、こんなにいい気分なのは初めてです。邪魔しないでください』

やる気が全く感じられない声に、《千変万化》が呆れたようにため息をつく。

『快適過ぎてダメになる人もいるっては聞いてたけど、一気に負担がなくなると責任感が強い人はこうなるんだな…………ほら、あっちから音がしたから行くよ』

「こ、この男……こんな状態で何をするつもりだ?」

その足は、今まさに激戦が始まったルシア達の方に向かっていた。