軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第183話 義母、襲来

へルンベルク邸の中でも一番大きな来客用の部屋。

アメリアとローガンの対面に、一人の女性が姿勢よくソファに腰掛けていた。

艶のない黒いドレス。

首元まできっちりと閉じた襟元は隙を与えず、腰元で組んだ手には無駄な力も抜けもなかった。

その身のこなしには、貴族社会の礼儀と形式を極限まで洗練させたような厳格さがあり、ただそこにいるだけで空気が張り詰める。

鋭くも淡い黒曜石のような瞳が、入室してきたアメリアとローガンに一瞬だけ向けられた。

何かを測るように、だが感情の色を浮かべないその目は、冷たい湖面を思わせた。

そんな中、ローガンはアメリアに耳打ちする。

「セリーヌ・へルンベルク……俺の母親だ」

「この方が……」

(似てる……ローガン様に……)

女性──セリーヌを見るなりアメリアはそう思った。

年齢は四十前後くらいだろうが、見た目は実年齢よりも若く見える。

黒曜石のような双眸に、まっすぐ通った鼻筋。形

のよい唇は薄く引き結ばれ、その表情には一切の揺らぎがない。

アイスグレーの髪は丁寧に結い上げられ、一本の乱れもなく、首元には控えめな銀のネックレスが光っていた。

どこまでも整った外見。だがそれは“美しさ”というより、“構築された威厳”だった。

ローガンの、あの感情を抑えた冷たい顔がふと重なる。

無口で、思慮深くて、滅多に本心を明かさない。

その根源が、目の前のこの人から来ているのだと、アメリアは直感した。

「……母上。ずいぶんと急ですね」

ローガンの声は平素と変わらぬ低音だったが、その語尾にはわずかに硬さが滲んでいた。

まるで心のどこかを壁で塞ぐように、少し距離を置いた声音だった。

「婚約者に会いたいと書いたでしょう。あなたは読んだはずよ」

「だとしても、手紙と同時に来るとは思いませんよ。こちらにも準備というものが……」

「領主たる者、いつ誰が来ても恥じぬように備えておくのが務めでしょう? まさか、親の訪問ひとつに動揺するような家の管理しかできていないの?」

セリーヌの返答は極めて冷淡だった。声に温度も波もない。

温もりを感じさせるものは微塵もなく、役所的な処理のような淡々とした口ぶりだった。

(おや、こ……?)

二人のやりとりを見て、アメリアは率直にそんな感想をいただいた。

形式としての会話は成立しているのに、そこに心の交流があるとはとても思えない。

かつて自分が両親に受けていた虐げや突き放しとも違う。この二人の間には、そもそも情というものが、最初から存在していない、他人同士のようにすら思えた。

(って、いけない、いけない)

ただ座っていても仕方がない。相手は婚約者の母親なのだと、アメリアは背筋を伸ばす。

アメリアは立ち上がり、セリーヌの元へ歩み寄る。

それからスカートの裾をそっとつまんで、丁寧に一礼する。

「初めまして。ローガン様と婚約しております、アメリアと申します。本日は遠路はるばるお越し下さり、ありがとうございます」

そう告げた直後だった。セリーヌの瞳が、わずかに動いた。

ほんの数ミリ、鋭く跳ねるように。

「そのお辞儀、背筋が曲がっているわ」

「……え?」

思わず、アメリアは顔を上げてしまった。

「あと一歩、後ろに下がってから礼をしなさい。今の立ち位置では、足元のラインが美しく見えない。姿勢も、もう一度鏡で確認してから人前に出ることを勧めるわ」

あまりにも即座な指摘に、アメリアは思わず呆気に取られてしまう。 間髪もなく、まるで最初から間違いを待ち構えていたかのような口調だった。

室内の空気が、ぴしりと硬くなる。

「椅子に座るときの手の位置もおかしかったわ。指先を揃えるだけでは不十分。手の甲の角度にも意識を払うこと。肘の高さと背筋のラインを合わせなければ、印象が崩れる」

セリーヌの声は相変わらず淡々としている。

しかしその言葉はひとつひとつ、胸に突き刺さってくる鋭さがあった。

「そんな所作では、妻として王族や諸侯の前に出たとき、恥をかかせることになるわ」

冷たく、容赦のない一言だった。

応接室の空気が北国の雪山のように下がる。

部屋の隅で控えていた使用人たちはそっと目を伏せ、気まずそうに視線を逸らす。

アメリアに掛けられた言葉の強さに、場の空気ごと張り詰めていた。

しかし――。

「はいっ、ありがとうございます!」

アメリアは、はっきりとした声でそう返した。

明るく、曇りのない声音だった。

「……はい?」

セリーヌは面食らったように言葉を落とした。

アメリアの笑顔に、羞恥や怯えの色はない。

あるのはただ、純朴さと、真っ直ぐな向上心。

指摘されたとは思えない、なんならキラキラとすらした瞳にセリーヌがわずかに眉を動かす。

「……貴女、何か勘違いをしているのではなくて?」

その言葉に、アメリアは首を横に振った。

「いえ、違います」

朗らかな調子は崩さず、それでも真剣な眼差しを向ける。

「きちんと教えてくださる方って、なかなかいらっしゃらないので。すごく勉強になります。なので、とてもありがたいなあと」

その言葉は取り繕ったものでも、媚びでもなかった。

本心から出た“感謝”だった。

セリーヌの瞳が、ほんの一瞬揺れる。

それは驚きにも動揺にも見えた。セリーヌは何も言わず、ふいに視線を外した。

その横顔はまるで何事もなかったかのように無表情。

アメリアの発言には触れず、セリーヌはこう続けた。

「……移動でお腹が空いたわ。昼食を用意してちょうだい」

◇◇◇

へルンベルク邸の昼食の席には、いつもとは違う緊張が満ちていた。

長く磨かれた木製の食卓。

その中央に据えられた燭台が、静かに揺れる炎を灯している。

アメリアの隣にはいつも通りローガン。その向かいには、姿勢を一分の乱れもなく保ったままナイフとフォークを操るセリーヌが座っている。

その顔には終始、感情の起伏が見られなかった。

冷たい畔のような静謐な美しさと、どこまでも遠いまなざし。

(食器を落とさないようにしないと……)

アメリアは緊張を抱えながらも、なんとか考えうる限りの礼儀を守って食事を進めていた。

料理はへルンベルク邸のシェフが腕によりをかけたもので、温かく優しい味だったが、味わう余裕はほとんどなかった。

沈黙を最初に破ったのは、セリーヌだった。

「婚約者を、なぜ今まで会わせに来なかったの?」

低く、どこか責めるようなニュアンスを含んだ声。

向けられた問いに、ローガンはナイフとフォークの動きを止める。

「……政務の都合で後回しにしていました。申し訳ございません」

静かに、張りつめた声で答えた。

「何かあればすぐに報告しなさいと、常々言っておいたでしょう」

叱責の言葉はまるで冷気のように食卓を走る。

「……」

ローガンは反論しなかった。

ただ「仰る通りです」と、短く詫びた。

アメリアは耐えきれず、思わず口を挟んでしまう。

「あの……そんなに責めないであげてください」

言った瞬間、空気が凍ったような錯覚が走る。

セリーヌの視線が、ゆっくりとアメリアに向けられた。

「あなたには関係のない話よ。これは、家族の問題」

その一言は、扉を閉ざすように突き放していた。

アメリアは、唇をきゅっと引き結ぶ。

「……わかりました。過ぎた発言を申し訳ございません」

今この場で自分が出るべきではない、そう判断して静かに頭を下げる。

セリーヌは興味を失ったように目を逸らし、代わりに再びローガンに視線を向ける。

「まったく……この調子じゃ、伝統あるヘルンベルク家もどうなることかしらね」

口元は微かに笑んでいたが、それは皮肉の色を含んでいた。

「クロードに家督を任せられれば、それが最善だったのだけれど」

ナイフを置きながら、何気ない調子で続けられたその言葉に、アメリアの胸が微かに痛んだ。

隣に座る彼は、ただ「申し訳ありません」とだけ応じている。

まるで、その返答が一番最善だとわかっているかのように。

その表情に怒りも憎しみもない。

ただ静かに、言葉を飲み込む姿勢があった。それが逆に、どこまでも痛ましく見えた。

「相変わらず、張り合いのない男ね」

セリーヌはつまらなそうに、ワインを一口飲んだ。

その横顔には、まるで何の感情も浮かんでいない。

(ローガン様……)

アメリアはふと、ローガンに目を向ける。

彼は、誰にも気づかれないように呼吸を整えていた。

あの時の、自分に見せる優しさや包容力とは全く異なる顔。

それが、家族の中で彼が歩んできた姿勢なのだと、アメリアは初めて静かに理解した。

同時に、ちくりと胸に鈍い痛みが走った。

食卓に置かれた燭台の火が、静かに揺れている。

セリーヌは変わらぬ無表情のまま、次の料理へと手を伸ばしていた。

フォークを手に取り、口元へ運ぶ。

その一連の所作は洗練されていて、無駄がないが。

(あれ……?)

アメリアはふと、違和感に気づいた。

セリーヌは、料理に手をつけるたび、時たま左手首を指先で押さえるような仕草を見せていた。

その動作は、見落としそうなほどさりげない。

(……痛めているのかな?)

咄嗟に声をかけそうになって、アメリアは言葉を飲み込んだ。

この人は、そんなことを口にされたくないのかもしれない。

ましてや自分のような他所者から気遣われることを、心地よく思わない可能性もある。

見なかったことにして、アメリアは視線をそっと逸らした。

それでも胸の奥に残る、かすかな引っかかりは消えなかった。

セリーヌは黙々と食事を続け、ローガンは時折短く返事をするだけ。

会話は最小限で、食卓に漂うのは料理の香りと、張りつめた空気だけだった。

◇◇◇

緊迫した昼食が終わった後。

セリーヌは「移動で疲れたから少し休ませて」とだけ言い残し、来客用の寝室に姿を消した。

糸を張ったような緊張感から解放されて、アメリアはホッと肩を落とす。

「……あれ、ローガン様は?」

ふと気づけば、昼食を共にしたローガンが見当たらない。

仕事のため書斎へ戻ったのかとも思ったが、なんとなく胸に一抹の不安が灯った。

食事中、セリーヌに叱責に耐えるように呼吸を整えていたローガンの姿が頭から離れない。

(探さないと……)

使命感に駆られるように、アメリアは屋敷内を歩いて探し始めた。

廊下、応接間、図書室――どこにも彼の姿はない。

使用人に尋ねても所在がはっきりしなかった。

そんなとき、ふと中庭を横切っていたアメリアは、目の端に動く影を捉えた。

見上げると、曇り空を背景にして、屋敷の屋上にひとつの人影が立っている。

「……!!」

アメリアは急ぎ足で階段を上り、妙に重い扉を押し開けた。

ひんやりとした風が、頬を撫でていく。

屋上は広く、外壁には白い欄干がめぐらされていた。

東側には小さなテーブルと椅子が並べられ、天気の良い日にはここでお茶もできるのだろう。

だが今は曇り空に覆われ、昼間とは思えないほど薄暗い。

屋上の端、石造りの欄干にもたれて、ローガンがじっと遠くを見つめている。

「ローガン様」

静かに声をかけると、ローガンは振り向く。

アメリアの姿を確認してから、小さく息を吐いた。

「こんなところにいらしてたんですね」

ローガンの隣までアメリアが言うと。

「……すまなかったな」

ぽつりと、ローガンは謝罪を口にした。

「えっと、何がでしょうか?」

「さっきの食事のことだ。あの通り、母は気難しい性格でな。不快な気持ちにさせて、申し訳ないと思う」

「いえ……お気になさらないでください。私の所作や振る舞いが至らなかったので……」

「いや……たとえアメリアが完璧な作法を披露したとしても、母は何かと理由をつけて小言を言っていたと思うな……俺の婚約者であるという一点の事実のみを、母は見ているから」

どこか申し訳なさそうに言うローガン。

アメリアは首を振ったあと、少し躊躇してから、口を開いた。

「あの……良かったら教えていただけませんか? どうしてお母様は、あんなにもローガン様に厳しいんですか?」

問いかけた直後、雲間から差し込んだ微かな光が、彼の横顔を照らした。

ローガンは視線を前に戻したまま、低い声で応えた。

「……俺は、両親に疎まれているからな」

事実を述べるような、乾いた口調だった。

「うちの家系は、代々武門だ。両親は、幼い頃から武に秀でた兄のクロードばかりを目にかけていた。俺には、ほとんど関心を持たなかった」

淡々とした言葉の裏に滲む、冷えた記憶。

「父は加齢と持病を理由に引退することになって、兄に家を継がせたかったらしいが……兄は戦場狂いで、政治の世界にまるで向いていなくてな。それに、戦争も終わって平和な時代だと、武よりも文に秀でたものの方が領地経営には向いている。周囲の側近たちの進言があって、俺に白羽の矢が立った」

アメリアは、言葉を飲み込んだまま聞き続ける。

「クロードはずっと、“戦場で生きる”と決めていて、家督などに未練はなかった。それは両親も薄々察していたはずだから、俺が選ばれたのを飲み込むしかなかった。決して喜んでくれたわけじゃない。形式上は任せても、内心では納得していないだろうな」

自嘲気味に言うローガンに、アメリアは納得したように言葉を口にする。

「それで……ご両親は、今は屋敷にいらっしゃらないんですね」

「ああ。領地の南に家を建てて、静養と称して隠居した。要は、俺と顔を合わせたくなかったんだろう。幼少期から目をかけていたクロードじゃなく、放置していた方の息子が領主になるのは、プライドの高い父からすると耐え難いものがあるだろうからな」

そう言った後、ローガンは曇天の空を見上げてぽつりと溢す。

「こちらから文を送っても、返事が来るのは気まぐれだ。今でも両親は、家督をクロードに譲っておくべきだったと思っているかもしれないな」

アメリアは、小さく唇を噛んだ。

この屋敷に住み、家臣や領民から慕われている彼の姿を見てきた。

けれど、そこに至るまでに、どれほどの孤独を背負ってきたのか。

想像するには、あまりに重い現実だった。

「……それでも、ローガン様は家を守ってこられたんですね」

そっと呟いたアメリアに、ローガンは初めて、ほんのわずかに微笑んだ。

「期待されなかったからこそ、成果を出すしかなかった。そうしなければ、俺の存在が意味を持たなかったから」

その言葉に、アメリアは胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。

(ローガン様……)

少し間違えれば憎悪の感情に駆られて歪んでしまってもおかしくないのに。

それでも、こんなにも穏やかで、誰かを思いやることのできる人になった彼が、今ここにいてくれる。それは奇跡のようなことだと、アメリアは思った。

──ふと、ぽつり、と冷たい感触がアメリアの頬を打った。

空を見上げれば、灰色にくすんだ雲が重く垂れ込め、どこか寂しげな光を滲ませている。

ぽつ、ぽつ、と落ちてくる雨粒は徐々に数を増し、やがて屋上の石畳を静かに濡らし始めた。

「……ローガン様、雨が……」

声をかけたが、彼は微動だにしなかった。

屋上の片隅、石造りの欄干にもたれた彼の背中は、空の色に溶け込むようにどこか遠く、孤独に見えた。

まるで過去の影に囚われたように、沈黙の中でその場に立ち尽くしている。

「このままでいい」

低く、けれどどこか掠れた声だった。

その言葉に、アメリアの胸が締めつけられる。

(この人はずっと、こうしてひとりで……)

アメリアはそっと歩を進めた。

雨に濡れることなど、どうでもよかった。

ただ、ローガンに、少しでも寄り添いたかった。

「なんだ……?」

至近距離まで近づいたアメリアに困惑の瞳を向けるローガン。

構わずアメリアは、ローガンへとゆっくりと腕を回す。

濡れた肩に触れると、わずかに震えるような気配があった。

それでも、ローガンは拒まなかった。

アメリアは、迷わずその体を抱きしめた。

「……今まで、よく頑張りましたね」

耳元で、小さく呟いた。

それは慰めでも、哀れみでもない。

ただ、心から湧き上がった言葉だった。

ローガンの髪が濡れて、額に張りついている。

肩越しに伝わる体温はいつもより低いけど、奥にしっかりとした温もりがある。

それは彼がただの人間である証明でもあった。

ほんの僅かに、ローガンの身体が動く。

けれどそれは、アメリアを振りほどくためではない。

ほんの少し、自分の体重を彼女に預けるような……そんな、ごく控えめな反応だった。

「風邪をひくぞ」

掠れた声が、雨音に紛れて空気に溶けた。

「いいんです。私は……あなたのそばにいたいんです」

胸の奥から自然にこぼれたその言葉に、ローガンは微かに目を伏せた。

この背中は、今までどれほどの言葉を呑み込み、どれほどの感情を押し殺してきたのだろう。

武の家系に生まれながら武に秀でなかったこと、家督を“仕方なく”任されたという周囲の視線。

そして何より、家族からの冷淡な扱い――それらすべてが、今の彼を形作ってきた。

どれほど成果を出しても、褒められなかった子供時代。

期待されないことに慣れ、それでも裏切らないようにと黙々と努力を積み重ねてきたのだ。

そんな彼の人生は、幼少期から虐げられ疎まれてきた自分のそれと重なるものがある。

(ひとりぼっちは、寂しい……)

それはアメリアは痛いほど良くわかっている。

彼が、どれだけ“ひとり”を耐えてきたのか。

その事実が明確にわかった今だからこそ、せめて自分だけはローガンのそばにいたい。

アメリアは両腕にさらに力を込め、ローガンの背をしっかりと抱きしめた。

彼の腕が、ゆっくりと動く。

今度は、ローガンの方からアメリアの体を引き寄せる。

その動きはどこまでも優しく、頼りない。

まるで母親に縋るような手つき。

そして、アメリアの肩に額を預けるように身を傾けて――。

「……ありがとう」

その言葉は、小さな震えを含んでいたが、確かに彼の本心だった。

雨は降り続けている。

けれど、ふたりの間に流れる空気は、ほんの少しだけ温かくなっていた。

冷えた心の奥に、ようやく火が灯り始めるように。

◇◇◇

湯気が、天井へ向かってふわりと立ちのぼっている。

へルンベルク家が誇る大浴場。

石造りの浴室には湯の音だけが静かに響き、外の雨音も遠くに聞こえるだけだった。

「はふう……気持ち良い……」

深く湛えられた湯船の中で、アメリアは肩まで湯に浸かり、静かに目を閉じていた。

へルンベルク邸に嫁いでからというもの、入浴はアメリアの日課になっている。

豪華な食事、ふかふかなベッド。

ハグルの実家では考えられない数々の待遇の中で、アメリアが最も気に入っているのが入浴だった。

「少しは、元気になってくれたかな……」

ちゃぽん……とお湯で音を立たせてからアメリアは呟く。

温かい湯船に浸かっているはずなのに、ローガンを抱き締めた時に感じた冷たさがまだ残っているように思えた。

──風邪を引く前に、温まっておけ。

屋上での一幕のあと、ローガンはそう言って、アメリアを風呂場に送り出してくれた。

あのときの声は、過去を淡々と話していた時に比べると、少しだけ柔らかくなった気がする。

アメリアは静かに目を開けた。

視界を曇らせる湯気の向こうで、淡く灯るランプの光が、タイルに滲んで揺れている。

ぽちゃん、と一滴、水面に雫が落ちる。

指先がふやけてきたことに気づきながらも、アメリアはそのまま湯の中でぼんやりと考えていた。

(お義母様……)

冷たい黒曜石のような目。

まるで感情の温度を拒むような姿勢。その言葉はすべてが合理的で無駄がなく、まるで人を突き放すためだけにあるような刃のようだった。

(そして、ローガン様……)

彼の語った過去が、脳裏によぎる。幼いころから家に求められた“武”の才能。

それを持たぬ息子としての失望。兄クロードにばかり注がれた視線と期待。

彼はその中で、誰にも求められないまま、ただ一人、政治や知略の道を選び、それでも決して反抗することなく、黙々と責務を果たしてきた。

家を継ぐことすら“代替”でしかなかった。

あの両親にとって、ローガン様は必要だから仕方なく選んだ存在だったのかもし

れない――。

「そんなの、あんまりよ……」

胸の奥で、静かな怒りのような感情が芽吹いた。

あれほど真摯で、誠実で、誰よりも家族や民のことを考えている人が、ずさんに扱われていたなんて。

自分がどれほど愛されていなかったとしても、なお家のために立ち続けてきた。

その背中を、アメリアは間近で見てきた。

ゆっくりと、湯船の中で膝を抱え込む。

額が、膝頭にそっと触れた。

「私には、何ができるんだろう……」

問いかけるように、目を閉じる。

ローガンの婚約者としてただ隣に突っ立っているだけなのは我慢できない。

何か、ローガンの役に立ちたいと思った。

もちろん、すぐに答えは出ない。

けれど――このままではいけない、という明確な想いだけはあった。

(何もしないで、ただローガン様が責められているのを見ているなんて……そんなの、いや)

強く、そう思った。

自分にできることは、まだ少ないかもしれない。

貴族の作法も、社交の振る舞いも、まだまだ未熟だ。

けれど。

「妻になるのは、ただ名前を並べるだけじゃないわ。私は、ちゃんと胸を張って、“彼の妻です”って言えるようになりたい……」

自分を突き放すようなセリーヌの言葉も、冷たい視線も、すべて正面から受け止める覚悟はある。

どれほど細かく咎められてもいい。

誰かのために、頑張る。

そう思える相手に出会えた今、アメリアの胸にあるのは迷いよりも、強く、揺るぎない意志だった。かつて自分が誰にも必要とされず、オンボロ離れの片隅で黙っていた少女だったときとは、もう違う。

彼のために、自分にできることを――精一杯やりたい。

ぼんやりと漂っていた湯気の向こうで、ランプの灯りが、少しだけ力強く揺れたように見えた。

◇◇◇

湯から上がったアメリアは、まだ熱の残る頬にタオルを当てながら、廊下をゆっくりと歩いていた。湯気が肌の表面に残り、髪の先から雫が落ちる。

身体はすっかり温まっていたけれど、その胸の奥は、妙にそわそわして落ち着かなかった。

「私に何ができるんだろう……」

浴場で繰り返した問いを再び口にする。

頭の中はローガンのことでいっぱいだった。

母からの無関心。兄だけを見ていた家族の視線。

選ばれなかった息子としての疎外感。

何も語らず、ただ“支える側”としてふるまってきた彼の静かな哀しみが、まるで自分事のように胸を締めつける。

(私は、ローガン様の心に寄り添えるのかな……)

そんな、自室のドアノブに手をかけた、その瞬間。

角を曲がった先から、しずしずと近づいてくる足音が聞こえた。

「――っ」

その足音の主が誰かを察する前に、アメリアは反射的に顔を上げた。

そして、凍りついた。そこにいたのは、上半身裸のローガンだった。

濡れた銀髪が額に張りつき、肩には白いタオルが無造作にかけられている。

湯上がりの蒸気をまとい、滴る水滴が鋭利な筋肉のラインをつたって胸元から腹部へと滑り落ちていく。

(…………っ……!?)

脳内に警鐘が鳴った。

広い胸板、浮き彫りになった腹斜筋、割れた腹筋。

以前、リオとの訓練中、シャツの隙間から一瞬だけ見えた腹筋の記憶がフラッシュバックする。

あの時ですら頬が熱くなったというのに、今や全身フルオープンで、真正面から視界を独占しているのだ。

「……すまない、驚かせてしまったな。服を脱衣所に忘れてしまって取りに行こうとしていた」

ローガンが、まるで何事もないような落ち着いた口調で言う。

広大な屋敷の中の浴場は一つではない。

アメリアと同じように雨に濡れたローガンも、他の浴場を使っていたのであろう。

「すぐに服を……」

言いかけた彼が、アメリアの背後の部屋を目指して一歩踏み出した。

それだけの動きで、アメリアの脳内に何かが弾けた。

(ちょ、ちょっと待って……!?)

混乱の極みにあったアメリアは、慌てて後ずさり……そのまま、足元の敷物に足を取られた。

「きゃっ――!」

バランスを崩し、背中から倒れかけてしまう。

「危ない!」

タオルが廊下を舞う。

反射的に飛び込んできたローガンの腕が、彼女の身体をしっかりと支える。

「──!?!?」

柔らかい布越しに感じる熱。

密着する肌と肌。驚くほど力強く、けれど傷一つつけない優しい抱擁。

「大丈夫か?」

ローガンの低い声が、まるで心臓の内側を優しく撫でられるように頭の中をこだまする。

痺れて、そのまま溶けてしまいそうになる。

(あ、あ……だめ……)

目の前には、先ほどまで目に焼きついていた筋肉の彫刻。

そのまま顔が彼の胸に埋まるような形になってしまい、アメリアの脳内は白く飛んだ。

(近い近い近い! 息が! むり! ろーがんさまがっ! ……ぴすぴす……)

ぷしゅううう……。

全身から湯気が立ち上る錯覚すら覚えるほどに、アメリアの顔は真っ赤に染まっていた。

「アメリア!?」

心配そうに名前を呼ぶ声も、彼女の耳には届いていなかった。

ぐるぐると頭が回り、思考は完全にフリーズ。

全身の力がふっと抜けると、アメリアはそのままローガンの腕の中でぐったりと脱力してしまった。

◇◇◇

「……すまなかった」

「いえ……」

応接間近くのサロンにふたり並んで腰掛けると、さすがのローガンも微妙に居心地が悪そうに視線を逸らしていた。

服はすでに羽織っているものの、さっきまでの無防備な状態がまだ記憶の端に残っているのか、アメリアはうつむいたまま頬を紅潮させていた。

「本当にすまなかった。驚かせたうえに、抱き留める形になってしまって」

低い声で告げられた謝罪に、アメリアはびくんと肩を跳ねさせた。

「い、いえっ! とんでもございません……! こちらこそ、取り乱してしまい……!」

顔を真っ赤にしながら、ぎこちない口調で応じる。

(うぅ……また、またこんなはしたない姿を……)

頭を抱えたくなる思いだった。

あんなに間近で、あんなにしっかりと、あの鍛え抜かれた体のあちこちを――いや、思い出してはいけない。

ごしごしと頬をこすりながら、自分の顔がふにゃんと溶けそうになるのを必死に食い止めていると、不意に思考の奥から現実が引き戻された。

(って、こんなことしてる場合じゃない……!)

大事なことを、今の騒動でうっかり流してしまいそうになっていた。

「あのっ、ローガン様!」

勢いよく顔を上げて声をかける。ローガンがこちらに目を向けた。

「お義母様……セリーヌ様ですが、夕食の時、何度か手首を押さえる仕草をされていました。もしかして、お怪我でも?」

その問いに、ローガンの瞳がふっと揺れる。

予想外だったのか、一瞬だけ驚いたような表情を見せた後、すぐに目を伏せて口を開いた。

「……昔、乗馬中に落馬してな。手首の骨を粉砕した。癒着はしているが、寒くなると今でも疼くらしい」

「そうだったんですね……」

アメリアは静かに頷き、それきり何も言わずに立ち上がった。

「アメリア?」

「ちょっと、楽園に行ってきますね」

そう言ってアメリアは軽やかに歩き出した。

楽園──それは、アメリアが植物をコレクションしたり、調合をしたりするために作られた部屋。

屋敷の一角、薬草調合室に入ると、アメリアは即座に棚に手を伸ばす。

迷いは一切ない。戸棚を開けた瞬間、草木と土の匂いが柔らかく鼻をくすぐった。

「関節の疼きなら……まずはセドレナの葉」

赤みがかった細長い葉を数枚摘み取り、すぐ隣の瓶に入った乾燥クレスミルの粉末をひとさじ加える。

クレスミルは血流促進と温感作用に優れた香草で、セドレナと合わせることで鎮痛効果が高まる。

「あとは……肌への刺激を避けるために、ルヴァンの樹液」

透明でとろみのある樹液を、小さな練り皿に垂らし、慎重に乳鉢で潰した乾燥薬草を混ぜていく。

指先の動きは淡々としていながら、どこかしら優しい。

まるでその手が触れる相手の痛みに、心ごと寄り添おうとしているような仕草だった。

匙で丁寧に混ぜ合わせていくうちに、薬膏はしっとりとした緑褐色のペースト状に変わる。

アメリアはほんの少し指先に取り、香りと感触を確かめるようにそっとなぞった。

冷たくも、鋭くもない。

柔らかくて、じんわりと温かさが広がる、そんな塗布感。

「……よし」

小さな蓋付きの瓶に練り上げた薬を詰め、布で包んだ。

アメリアの中にあった戸惑いは、もうなかった。

今、彼女の瞳には何をすべきかが、はっきりと映っていた。

◇◇◇

トルーア王国から遠く離れた乾いた大地──ラスハル自治区。

そこでは火薬と血のにおいが濃く立ち込めていた。

戦況はすでに数ヶ月にわたって膠着していた。 宗教的対立を表向きに掲げてはいるが、実情は希少資源と領地、そして宿敵ゼルヴァ帝国との睨み合い。

シルベルト派の旗のもとに、トルーア王国の精鋭が数千投入され、日々、ゲリラや市街戦に消耗している。

「泥濘に足を取られ続けているな……」

前線のひとつ、トルーア第3師団の仮設本営。 灰色の幕が風に揺れる簡素な軍用テントの中、クロード・ヘルンベルクは地図を睨みつけたまま、机に肘をついていた。

クロードは粗末な木製の机に広げた地図を睨みつけながら、微かに額に滲む汗を拭おうともせず思考に沈んでいた。

身体の芯がじんわりと熱を帯びており、皮膚の奥にこもる微熱が、集中力をじわじわと奪っていく。

「……風邪か。いや、この程度で体調を崩すなど」

吐息が熱く、肺の奥に残る空気すら重たく感じられる。

そんなときだった。

「ふいー。お疲れ、お疲れ」

テントの布をめくって現れたのは、ブルーグレイの髪をラフに撫でつけ、耳に揺れるピアスが戦場の空気から浮いている男――ドミニクだった。

「まだ生きていたか」

クロードは視線を地図から動かさぬまま、無造作に呟いた。

「だからやめてくれよ、その物騒な挨拶」

ドミニクは肩をすくめながら中に入ると、当然のように空いている椅子を引いて腰掛ける。

気心の知れた旧友とはいえ、戦場では一応、上官と部下の関係である。

「戦況報告か?」

「うん。結論から言うと、芳しくない。市街地の一角を取り戻したけど、またすぐに押し返された。こっちの兵も消耗が激しいし……はっきり言って、ジリ貧だね」

「つまり……戦況はいつも通り、変わってないと?」

「うん、ばっちり泥試合だね」

クロードは黙ってドミニクの言葉に耳を傾けながら、地図上の印を一つ指先でなぞる。

「長引くのはわかっていた。だが、この体たらくでは先が思いやられるな」

「ねえ、クロード」

唐突に、ドミニクが声の調子を変える。

「正直、この戦争の意味がわからなくなってきたよ」

その声は、いつもの軽口とは違い、どこか疲れと本音が滲んでいた。

クロードは目を閉じ、一拍置いてから答える。

「正義をかけた宗教戦争……表向きはそう取り繕っているけど、実態はセルヴァ帝国との、利権と国威を賭けた代理戦争だ」

淡々とした口調だったが、その奥にあるのは決して冷めた諦観ではなかった。

ドミニクの言葉に対し、クロードは熱を持った声で返す。

「我々がここで負けるということは、帝国に屈するということだ。それだけは、避けねばならん」

「……ま、それはそうなんだけどさ。こっちの現場はもうボロボロなんだよ」

ドミニクは椅子にもたれかかり、天幕を見上げる。

「空気は乾燥してるし、飯は硬いし、兵はどんどん倒れていく。昨日だって、僕の部下の一人が紅死病で逝った」

その言葉に、クロードの眉がわずかに動いた。

「紅死病……ザザユリを使わない新薬の流通はまだなのか?」

「心待ちにしてるんだけどね。学会の最終認可が下りたら、ようやくこの戦地にも順次配布される予定だって」

「認可、か。最も信頼の置けない言葉だな」

「上の連中が判子を押す前に、俺たちが全滅しちゃうよ」

テーブルに肘をついたまま、ドミニクがぽつりと呟いた。 その声は軽やかでありながら、根底にはどうしようもない現実の重みが沈んでいる。

クロードはわずかに目を細めた。

「裏ルートで仕入れていた紅死病の特効薬に充てていた資金がある。そこから武器調達の輸送費に回せ。薬の流通が始まれば、あの金は不要になる」

「王都の倉庫で埃をかぶってる分が、ようやく日の目を見そうだなあ」

冗談めかして言いつつも、ドミニクの声には微かな安堵が混じっていた。 彼もまた、この戦場に長くいる。

気の抜けた口調の裏に、現場を見続けてきた男としての実感が滲む。

「ま、それでも配る先が増えれば物資は不足するし、僕の部下みたいに、僕を待つ間に燃え尽きる奴も出るだろうけどね」

クロードは黙して応えなかった。この戦場において、死は避けがたい日常だ。

それでも、一人でも多くを救う選択が可能になったということ。

それは、この数ヶ月の地獄のような戦況の中で、わずかに射し込んだ光だった。

「ねえ、クロード」

不意に声を低く落としたドミニクが、地図の向こうから覗き込んでくる。

「……なんだ?」

「これは、ただの偶然なんだろうかって思うんだけどさ」

言いながら、彼は小さく肩をすくめてみせる。

「紅死病の発祥地がラスハルで、特効薬の原料、ザザユリも同じくラスハルにしか自生しない。それって……ちょっと出来すぎてない?」

「……あらかじめ仕組まれてた、と?」

「そうとも考えれるかな、って」

テント内に、かすかな沈黙が落ちる。

クロードは黙っていたが、やがて立ち上がり、机から離れる。

革のブーツが地面を踏みしめる音だけが、テントの布越しに風と混じって響いた。

「……数年前、この近くの村で小競り合いがあったときの話を知ってるか?」

唐突な問いかけに、ドミニクは首を横に振る。

「ある日突然、敵兵が全員逃げ出した。理由は、『森の中に光の女がいたから』だそうだ。白装束に長い髪、目が合った者が次々と倒れていくとか、気が狂ったとか、言いたい放題だったらしい」

「それ、随分と……荒唐無稽だね」

「だろうな。戦場には、そんな話がいくらでも転がってる」

クロードは天幕の柱にもたれかかり、腕を組んだ。

「祈祷師が呪いをかけたとか、影から空飛ぶ魔獣が現れたとか――それらしい尾ひれをつけて、あっという間に兵の間に広がる。大抵は疲労と恐怖と偶然が混ざっただけの話だ」

そこでひとつ、短く息をついた。

「確かに、お前の言う通り、紅死病とザザユリの因果関係は妙だ。だが、そのような陰謀論を気にかけている暇があるなら――」

クロードは再びドミニクに視線を戻す。その眼差しは、曇りひとつなく鋭い。

「明日どうやって生き延びるかを考える方が先決だ」

言い終えたその声には、淡々とした口調の奥に、戦地に生きる者の厳しさが潜んでいた。

ドミニクはしばし無言でクロードを見つめ、それからわずかに唇を歪める。

「……了解。いつもの君らしい答えだ」

その声音には、呆れと理解と、ほんの少しの安心が混じっていた。

この場所で長く戦ってきた者同士にだけ通じる、苦い信頼のようなものが、そこにはあった。

そのときだった。

「失礼します!」

テントの外から、慌ただしく伝令の声が飛び込んできた。

布の幕が揺れ、砂埃を伴って若い兵士が姿を見せる。

「団長宛の急報です!」

差し出された封筒を無言で受け取ったクロードは、その場で封を破る。

一読するや否や、椅子をきしませて立ち上がった。

「……あの腰抜けめ」

「ん? どうしたの?」

椅子にだらりと背を預けたまま、ドミニクが問い返す。

クロードは懐から軍服の外套を取り出しながら、端的に告げた。

「数日、戦線を空ける。指揮はお前に任せる」

「へいへい。で、隊長はどこへ?」

「日和った弟の尻を引っ叩いて、前線に連れてくる」

クロードの足取りは、すでにテントの外へ向かっていた。

その背に、ドミニクは片眉を上げてつぶやく。

「……やれやれ、兄貴ってのは、つくづく因果な役回りだな」

そして、ふっと笑った。

戦況は依然として厳しく、空は灰色のままだった。