軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

08 隣国の王族④

なんとも言えない沈黙が、靴音とともに長く伸びていく。

夜会の喧騒が遠ざかるにつれ、呼吸が少しずつ落ち着いてきた。

キース様は一言も発さず、ただ歩幅を合わせてくれる。

わたしはどう声をかけていいのかわからず、視線を足元へ落としたままになった。

やがて離宮へと続く小径に入ると、外の空気がはっきりと冷たい。

月が天高く昇り、青白い光を石畳に滑らせていた。

「こちらへ」

離宮の前に着いたところで、キース様が小さく囁いた。

わたしの右手を取ると、そのまま丁寧に――しかしどこか必死に、ハンカチでこすり始める。

「き、キース様……?」

「すみません。消毒用の薬液が手元にありません」

彼の指先にわずかに力が込められるたび、触れられた箇所がそこだけ熱を帯びていく。

無表情のはずなのに、わたしの手を拭いてくれている。

(そうだわ……!)

「待ってくださいね。手洗い用の水魔法なら得意ですから」

わたしはそっとキース様の手を離し、空中に小さな魔法陣を描いた。

澄んだ水の球がふわりと浮かび上がり、月の光を受けてゆらゆらと輝く。そこへ指先を差し込み、丁寧に洗い流した。

手はよく汚れるので、この魔法ならお手のものだ。

「はい。これで綺麗になりました!」

満足げにそう告げると、キース様は一歩近づいてきて、手を差し出すよう促した。

「手を貸してください」

「あ、でも……まだ濡れていて……」

「問題ありません」

言うが早いか、濡れた手をそっと包み込まれた。

ふわりと温もりが伝わった直後、指先に黒い霧のような魔力が絡む。

すると――水滴は音もなく、すうっと吸い込まれていった。

数秒もしないうちに、手は元どおりさらさらの状態になる。

「わ……すごい……。便利すぎます」

思わず声が弾んだ。タオル要らずだなんて、どう考えても最強だ。

キース様は表情を変えないまま、小さく息を吐いた。

「これくらいしかできませんから」

「とても助かります。本当に、ありがとうございます!」

月明かりに照らされたキース様はとても綺麗だった。

少し長くなった前髪が影を落とし、真剣な眼差しだけが光を宿している。

喉の奥に言葉が詰まる。なにかを言いたいのに、言えない。

「あ……そういえば、アーデルハイド王女殿下に感染症のこと……聞いてみたらよかったかも。隣国でも流行しているのかとか」

思うままに口に出してしまった。

案の定、キース様は少しだけ動きを止める。

そして何も言わない。沈黙が再び落ちる。今度はさっきよりずっと重い。

(大丈夫。普通にできているはず)

『婚約』のこと。隣国の王女とのこと。あれから会えなかった理由。

本当は気になるけれど。

「ここで大丈夫です。キース様は夜会に戻ってください。アーデルハイド殿下がお待ちになっているはずですもの」

わたしは笑顔でそう言った。

ヴィンターハルター侯爵は抜け目のない人物のように思える。王族に近づいたのも計算づくだ。かつてそう言っていた。

(わたしは役に立たないと判断されたのでしょう)

だから、わたしと親しくするよりも良い方向に舵を切ったのだ。元からそういう話だったのだから、傷つく必要はない。

「……しかし」

「わたしはもう大丈夫ですから。ね!」

「……」

月が彼の表情を淡く照らす。

何か言いたげな彼の背中をぐいぐいと押して、わたしは離宮へと戻ることにした。

●●●

暗い部屋に、ひとりきり。

高くそびえる天蓋付きの寝台。調度品のひとつもない質素な部屋。

侍女の視線も冷たく、ひとつとして温かさはない。

ベッドの隅に膝を抱えた桃色の髪の王女は、細い指で胸元のペンダントを握りしめる。

銀の鎖。小さな飾り。触れると少しひんやりして、涙の熱を吸い込んだ。

「キース様……」

震える唇が、名前だけを掠めるように紡ぐ。

彼は優しい。誰よりも。

助けてくれた。笑ってくれた。

夜会のたび、そっと声をかけてくれた。

だから、好きになってしまった。

だって、わたしには彼しかいなかった。

『キース様の婚約者候補は、隣国の王女殿下らしいわよ』

昼間、侍女たちが囁いていた声が、耳に焼き付いて離れない。

(そんなはず……ないわ)

否定したい。

でも現実は、彼の隣に立つにふさわしいのは自分ではないと、痛いほど理解している。

自分は、忘れられ放置された王女。

父にも疎まれ、目を逸らされる。エマの言葉から、血筋を疑われているせいで生まれた時から祝福されなかったのだと知った。

(でも……)

ペンダントを握る手に、ぎゅっと力がこもる。

彼からのこの贈り物だけは、嘘ではないと信じたい。

信じていたい。

「……キース様。どうか……どうか、わたしを嫌いにならないで……」

声は涙に濡れて低く掠れた。

「他の方を……見ないで。わたしを、選んでください……」

本当は、こんな願いを口にする資格などない。

そんなこと、百も承知している。

それでも王女は祈るしかなかった。

自分を救うのは、彼しかいないのだと。

彼に手を伸ばすことができるなら、その先にどんな絶望が待っていようと構わないと。

「助けて……キース様……」

涙が、ペンダントへと落ちる。

視界が大きく滲み、すべてが闇に溶けていった。