作品タイトル不明
638 Side ゼロスリード
人が変わるきっかけなんて、些細なものなんだろう。
劇的な事件が起こるのではなく、ある日突然訪れる小さなきっかけ。気付かないうちに、それが人を変えてしまう。
ことの始まりは知人からの頼み事だった。
ミューレリア。邪神に精神を侵食された憐れな女。全ての興味がロミオにしかない女。そして、美しい女だった。
初めて見た時の衝撃は覚えている。女を見て美しいと思ったのは、あれが初めてだったからな。肉欲もわかない。ただ、その美しさに見とれた。
顔の造作ではない。その苛烈さ、歪さ、冷徹さ。愛などという幻想に振り回される脆弱さや、他者に対する傲慢さ。それらを全て抱えた存在に魅了された。
俺は戦場で産み落とされ、その戦場に捨てられ、そして育まれた。
戦場というと、毎日朝から晩まで24時間殺し合いをしていると思われがちだが、そんなことはない。移動に何日もかけるし、敵の見えなくなる夜には両陣営とも兵を退くことが多い。
そして、前線から少し下がれば、兵士たちは酒を飲んで博打をして日々を過ごしている。物を売りに来る商人もいれば、春を売る娼婦までやってくる。
わざわざ戦場などにくる娼婦たちだ。貴族相手の高級娼婦などとは違う。それどころか、町の娼館にさえいられないような、訳有りの女たちばかりだった。
俺の母親はそんな娼婦の一人であるらしい。まあ、会ったこともないので、状況的にそうであると考えられるだけだが。
どのような経緯でそうなったかは分からない。ただ、俺は戦場で生まれ、そのまま売り払われた。俺を買ったのは魔獣使いを揃えた傭兵部隊だったらしい。
傭兵部隊が俺を買った理由は簡単だ。魔獣の餌にするためである。魔獣にあえて人の味を教え込むことで、戦場での戦意を高める効果があるのだ。
しかし、俺が魔獣の胃袋に収まる前にその傭兵団は壊滅し、俺は生き延びた。その頃には2歳か3歳になっていたようだ。
ある程度育てられてから売られたのか、乳飲み子を傭兵団が少しの間育てたのかは分からない。
ただ、自力で動き回れるだけの体ができあがっていたおかげで、俺は打ち捨てられたまま衰弱死するという最悪の終わりを迎えることはなかった。
死体から衣服を剥ぎ取り、泥水を啜り、人や邪人の死肉を喰らい、戦場を生きる場として永らえたのである。幼かったせいで記憶は曖昧で、語ることは特にないが。
ある傭兵団に拾われるまで、俺はそんな獣のような生活をしていた。俺を拾う――捕獲したといった方がいいかもしれんが。ともかく、俺を拾った傭兵団には、俺を母親から買った傭兵団の生き残りが所属しており、そいつが俺に色々と教えてくれた。
その傭兵団は減った兵を、子供で補填するつもりだったらしい。奴隷を買うよりも、拾ってくれば安い。ただそんな理由で、俺は「ゼロスリード」という名前を与えられ、傭兵として育てられた。
傭兵に必要なことは一通り叩き込まれただろう。また、俺の出自や、前の傭兵団の話などもそいつに教わった情報である。結局、その団も数年後には戦に負けて、世話役も含めて全滅してしまったが。
その後は、傭兵として各地を転々としながら、戦場で生き続けた。町などで暮らしたこともあるが、息苦しいだけだったな。
少し暴れただけで衛兵は飛んでくるし、何をするにも金金金だ。全てのモノが生温く、苛々させられる場所だった。
その点、戦場は最高だ。人は殺し放題で、常に強くなり続けることができる。なにより、生きている実感があった。
それに、単純なところもいい。力がある者が正義。死んだ者が敗者。勝った者が奪い、負けた者が奪われる。これほど分かりやすい場所は、他にないだろう。
リンフォードのジジイの誘いに乗ったのも、力を得られると聞いたからである。邪神だとか指名手配だとか知ったことか。戦いがあれば、それでいい。
賭け事や遊戯盤にのめり込む傭兵たちを見たことがあるが、俺にとってはそれが戦いだったというだけだ。
極上と言われる酒を口にしたところで、敵の流す血以上に俺の渇きを癒すことはなかった。戯れに女を抱いてみたこともあるが、強敵との斬り合い以上の興奮は得られなかった。
そんな俺が、初めて戦い以外で感動を覚えた相手が、ミューレリアだ。惚れた腫れたと、青臭いことを言うつもりはない。
だが、強者を前にして戦いたいという欲望よりも、話をしてみたいという気持ちが先に湧き上がったのは、後にも先にもあの時だけだ。
実際に会話をしてみると、そのイカレ具合は突き抜けていた。そんな女を美しいと感じる俺もイカレているのだろう。
そんな相手の最期の願いだ。叶えてやってもいいだろう。そう考え、ロミオを連れ出したんだが……。
「おじちゃん。誰?」
「おじちゃん、あれはなーに?」
「おじちゃん、もっと速く走って!」
「おじちゃん。だいじょうぶ?」
「おじちゃん――」
ガキの世話なんざしたこともない。面倒で面倒で仕方なかった。すぐに疲れたと言って座り込むし、ちょっとしたことで痛いとか言い出す。俺を前にして泣きださないのは助かったが、妙に懐かれたのにはほとほと困った。
どういうことなんだ? そりゃあ、俺にしてはお上品に接したことは確かだ。ミューレリアの忘れ形見だし、ガキを無事に運ぶことも依頼の内だからな。
だが、俺のどこに、懐かれる要素がある? このガキもイカレているんだろうか?
それでも、なんとか旅を続け、バルボラの孤児院にまで連れていったんだが……。まさか、俺と別れたくないと、喚き出すとは思わなかった。意味が分からん。
だが、もっと意味が分からないのは、そんなロミオを引き取ってしまった俺自身である。何をしているんだ? 馬鹿なのか?
しかし、どうしてもロミオを置いてくることができなかった。ガキが笑う顔を見て、苦笑いをしている自分がいる。
そんな時に思い出すのは、何故かミューレリア。そして、その直前に殺し合った、黒猫族のババアだった。
あの2人の目。全く似ていないはずなのに、俺に向かってきたババアの目と、ロミオのことを頼んできたミューレリアの目が、脳裏に浮かんでは消える。あの、必死でありながら、澄み切った水面のような目。
訳が分からん。
「おじちゃん。どうしたの?」
「なんでもない。もう寝ろ」
「うん……」
熱を出して寝込んだロミオの姿を見て、なんで俺が焦らなくてはいけないんだ? あの化け物みたいなハイエルフに目を付けられた。お荷物のロミオを置いて逃げれば、俺だけでも逃げられるかもしれない。
しかし、それはできなかった。どうしても。
俺は、いったい、どうしてしまったんだ?
たかがガキ1人に、どうしてここまで振り回される?
「うぐおおおぉぉぉぉぉぉぉ?」
一瞬、意識が飛んでいたらしい。昔のことを思い出していた気がするが、よく覚えてはいない。走馬燈ってやつだったのか?
今は、シエラ――ロミオが大きくなった姿であるそうだ。信じ難い話だが、その気配はロミオにそっくりだった。そのシエラを、守らねばならない。
ロミオの持つ、特殊な能力は邪人に影響をもたらし、支配できるそうだが……。
「関係、ないな……!」
俺がロミオを気にする理由なんざ、語ろうと思えばいくらでも語れるだろう。だが、全てがどうでもいい。
今はただ、シエラを守る。守るための力がある、それ以外のことは、全て些事であった。
「おぁあああああ! デカブツゥゥ! 俺はまだ、死んでねーぞ! もっと来いよ! があああああああああああああ!」
「しいいいぃぃたあああがあああえぇぇ!」