軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第7話「王都の風」

「試作品は全て揃っているか」

レオンハルトの声が、馬車の中に響いた。

セシリアは膝の上に置いた木箱を確かめた。 燻製の肉と魚。 発酵食品の試作第一弾から取り分けた少量の品。 どちらも丁寧に布で包み、木箱に収めてある。

「はい。商談に必要な分は全て」

「なら良い」

レオンハルトは腕を組み、目を閉じた。

王都への道は七日かかる。 往路と同じ街道を、セシリアは今度は逆に辿っていた。

辺境を発つ朝、領民の何人かが門の前まで見送りに来た。 燻製を最初に口にした男が、照れくさそうに頭を掻きながら「良い商談を」と言った。 セシリアは微笑んで頭を下げた。

あの場所が、少しずつ自分の居場所になっていた。

馬車の窓から見える景色が、日を追うごとに変わっていく。 痩せた荒野が丘陵に変わり、やがて街道沿いに商家や宿場が増え始めた。

七日目の朝、王都の城壁が見えた。

セシリアの手が、無意識に膝の上で握りしめられた。

婚約破棄の後、初めての王都だった。

馬車が王都の貴族街に入ると、空気が変わった。

石畳の上を行き交う馬車。 華やかな装いの貴族たち。 香水と花の匂い。

辺境の乾いた風とは、何もかもが違った。

セシリアは深く息を吸い、背筋を伸ばした。

商談の場は、王都の商業区にある大きな商館だった。 レオンハルトが事前に書簡で取り付けていた面会で、相手は王都で交易を手広く扱う商人だった。

商館の応接間に通された。 セシリアが木箱を開き、試作品を卓上に並べる。

レオンハルトは卓の端に座り、腕を組んだ。 口は開かなかった。 ただ、そこにいた。

辺境公爵の威光が、無言のまま部屋を満たしていた。

商人が試作品を手に取り、匂いを嗅ぎ、一切れ口にした。

「これは……辺境で作られたもので?」

「はい。辺境公爵領で採れる素材のみを使用しています」

セシリアの声は落ち着いていた。

「燻製は寒冷地の気候を利用した長期保存が可能な手法で、食味の劣化が極めて少ないのが特徴です。発酵食品はまだ試作段階ですが、完成すれば調味料として幅広い用途が見込めます」

商人が目を細めた。

「ほう。保存期間は」

「燻製であれば、適切な管理の下で数ヶ月。発酵食品は完成後、年単位での保存が可能と見込んでいます」

商人は燻製をもう一切れ口にし、顎に手を当てた。

「辺境からの輸送に耐えうる保存性。しかもこの味。……面白い」

商人の目が変わった。 値踏みの目から、商機を見出した目に。

交渉が始まった。 価格、数量、輸送の頻度。 セシリアは帳面を広げ、辺境での生産可能量と輸送にかかる日数を説明した。

レオンハルトは一言も口を挟まなかった。 だが商人がセシリアの提示した条件に渋い顔を見せた瞬間、わずかに身じろぎした。 椅子の軋む音が、静かな応接間に響いた。

それだけで、商人の表情が変わった。

交渉はまとまった。 継続取引の契約が、その場で書面にされた。

商館を出た時、午後の陽が石畳を白く照らしていた。

セシリアは木箱を抱えたまま、深く息を吐いた。 手が震えていた。 緊張が、今になって押し寄せてきた。

「見事だった」

レオンハルトの声が、隣から聞こえた。

セシリアは顔を上げた。

レオンハルトは前を向いて歩いていた。 こちらを見ていなかった。

だがその一言は、確かにセシリアに向けられていた。

「……ありがとうございます、レオンハルト様」

セシリアは微笑んだ。

商談を成功させた達成感と、この人が隣にいてくれた安堵と。 その両方が混ざった、自然な笑顔だった。

レオンハルトの歩調が、一瞬乱れた。

右足が、半拍遅れた。 すぐに立て直したが、その間に半歩分の距離が開いた。

セシリアは気づかなかった。 木箱を抱え直しながら、商談の内容を頭の中で整理していた。

だがマルガレーテは気づいた。

セシリアの後ろを歩いていた侍女は、レオンハルトの歩調の乱れを見て、小さく目を見開いた。

レオンハルトは半歩遅れた距離を、すぐには詰めなかった。 セシリアの背中を見つめたまま、そのまま歩いた。

マルガレーテは口元に手を当て、視線を前に戻した。

その日の夕刻、セシリアはレオンハルトと共に社交の場に顔を出した。

王都の侯爵家が開いた小規模な夜会だった。 商談の成功を受けて、レオンハルトが「顔を出す」と短く告げ、セシリアも同行した。

会場に足を踏み入れた瞬間、視線が集まった。

辺境公爵レオンハルト。 社交界にほとんど姿を見せないその人物が、一人の女性を伴っている。

囁きが波のように広がった。

「あれは……ヴァイスフェルト侯爵家の」 「婚約破棄された令嬢でしょう」 「辺境公爵の隣に、なぜ」

セシリアの背筋が、一瞬だけ強張った。

好奇の視線。 品定めの目。 かつて舞踏会で一人立ち尽くした時と同じ種類の視線だった。

だが、あの時とは違うものが一つあった。

隣に、人がいた。

レオンハルトが自然に半歩前に出た。 その広い背が、視線の幾つかを遮った。

何も言わなかった。 振り返りもしなかった。 ただ、半歩前にいた。

セシリアは小さく息を吸い、背筋を伸ばした。

隣に立つ人がいる。 それだけで、足が前に出た。

会場の中を歩き、レオンハルトが数人の貴族と短い挨拶を交わした。 セシリアはその傍らで礼を取り、聞かれたことに簡潔に答えた。

「辺境の内政をお手伝いしていると聞きましたが」

中年の伯爵夫人が扇の陰から尋ねた。

「はい。公爵様のお力添えのもと、領地の特産品開発に携わっております」

「まあ。お若いのに大したものね」

社交辞令かもしれなかった。 だが、その言葉には嘲りの色はなかった。

辺境公爵の傍らに立つ女性。 婚約破棄された令嬢ではなく、公爵の片腕としての姿が、ここでは見えていた。

夜会を辞した後、馬車に乗り込む前のことだった。

王都の大通りに面した馬車寄せで、セシリアは足を止めた。

向かいから歩いてくる人影があった。

柔らかな栗色の髪。 困ったように眉を下げた顔。

ギルベルトだった。

ギルベルトもセシリアに気づいた。 足が止まった。

数秒の間、二人は通りを挟んで向かい合った。

ギルベルトの視線が、セシリアの隣に移った。 レオンハルトがそこに立っていた。 腕を組み、無表情のまま。

ギルベルトの顔が強張った。

唇が動いた。 何か言いかけたように見えた。 だが声は出なかった。

セシリアはギルベルトを見つめた。

かつて、あの人の隣に立つはずだった。 あの柔らかい笑顔の隣で、舞踏会を踊るはずだった。

今、セシリアの隣にいるのは別の人だった。

胸が痛まなかったと言えば、嘘になる。 かすかな痛みはあった。 だがそれは、傷の痛みではなく、古い傷跡が冷たい風に触れた時のような、遠い感覚だった。

セシリアは小さく一礼した。 それ以上は何もせず、馬車に乗り込んだ。

レオンハルトが後に続いた。 馬車の扉が閉まった。

通りに残されたギルベルトは、馬車が去るまで動けなかった。

傍らに立っていた従者が、主人の顔を窺い見た。

ギルベルトの頬は白かった。 握りしめた右手が、かすかに震えていた。

セシリアの隣に立っていた男の姿が、目の奥に焼きついていた。 辺境公爵レオンハルト。 あの無表情の男の隣で、セシリアは笑っていた。

あんな顔を、自分に向けられたことがあっただろうか。

ギルベルトは答えを知っていた。

ない。

三年間、一度もなかった。

従者が「旦那様」と声をかけた。 ギルベルトは我に返り、無言で歩き始めた。

その足取りは重く、背中は丸まっていた。