軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話「値踏みの目」

「辺境で特産品を手がけていらっしゃるとか。まあ、お手ずから?」

侯爵夫人の声は柔らかかった。だがその柔らかさの中に、好奇の刃が光っていた。

挨拶回りの初日。セシリアはレオンハルトと共に、王都の主要貴族を訪問していた。

最初の訪問先は、かつてギルベルトとの婚約時代に面識のある侯爵夫人の屋敷だった。あの頃のセシリアを知っている人。壁際で微笑みを作っていた、あの頃の自分を。

侯爵夫人はセシリアの顔を見た時、一瞬だけ目を見開いた。すぐに社交的な笑みに戻ったが、その一瞬の中に、記憶の照合があった。あの令嬢が、今は辺境公爵の隣にいる。

「ええ。発酵食品の製法を確立し、量産体制を整えました。王都の市場でもお取り扱いいただいております」

セシリアの声は落ち着いていた。事業の話をする時、自分の声に力が入ることを知っていた。

「まあ、ご自分で。公爵夫人になられるのに、作業場に立っていらっしゃるの?」

悪意ではなかった。だが無遠慮だった。

セシリアは微笑んだ。

「辺境は人手が限られておりますので。できることは自分の手で」

侯爵夫人は頷いた。だがその目は、セシリアの装いと手元を交互に見ていた。侯爵令嬢の衣装と、作業場に立つ人の手。そのどちらが本当のこの人なのかを、測っている目だった。

レオンハルトはセシリアの隣に座り、ほとんど口を開かなかった。社交の場での会話は、セシリアに任せていた。だがその寡黙さが、公爵としての重さを自然に示していた。

二軒目。三軒目。

訪問先ごとに、言葉は丁寧だった。だが質問の方向は似ていた。

「辺境の暮らしは大変でしょう」

「公爵夫人として、社交の場にもお出になるのでしょうね」

「作業場のことは、お嫁入りの後はどなたかに任せるのかしら」

一つ一つは些細な問いだった。敵意はない。だが「公爵夫人としての型」が前提にあった。社交の顔。領地の内政は裏方の仕事。作業場に立つ公爵夫人は前例がない。

セシリアは丁寧に答え続けた。作法は完璧にこなせた。会話も破綻しなかった。

だが、気づいていた。

事業の話をする時だけ、自分の声が変わることに。出荷の数字、品質管理の工夫、領民との作業の話。その時だけ、声に芯が通った。

それ以外の社交的な会話——天候の話、衣装の話、今季の流行——では、声が薄くなった。型通りの言葉が口から出ていた。正しい言葉だった。だが自分の声ではなかった。

この場では、「作業場に立つ自分」は求められていない。

求められているのは、公爵夫人としての社交の型。

辺境で「自分のままでいていい」と確信した。レオンハルトが「お前がお前であるから選んだ」と言ってくれた。それは揺るがない。揺るがないはずだった。

だが社交界という場が、その確信を別の角度から照らしていた。

辺境では、実績が自分を証明してくれた。ここでは、実績だけでは足りない。型に収まることも求められている。

自分のままでいることと、型に収まること。その二つの間に、隙間があった。

夕刻、侯爵邸に戻った。

一日の挨拶回りを終えた体は、疲労よりも別のものを抱えていた。

自室で衣装を解く間、マルガレーテが襟元の留め具を外しながら口を開いた。

「お嬢様、今日は少しお疲れのご様子でした」

声は穏やかだった。いつもの観察だった。

セシリアは鏡の中の自分を見た。社交用の衣装を脱ぎかけた姿。侯爵令嬢でも、辺境の作業場の人でもない、中途半端な自分。

「疲れたのではなくて……少し、窮屈だったの」

本音だった。

マルガレーテの手が止まった。

「窮屈、でございますか」

「辺境では感じなかったの。何を言っても、何をしても、それが私だと受け止めてもらえた。でもここでは……型がある。公爵夫人としてこうあるべきだという、見えない枠が」

声が小さくなった。

マルガレーテは衣装を畳みながら、少し黙っていた。

やがて、静かに言った。

「お嬢様はお嬢様のままでいらっしゃいます。どこにいても」

声に力みはなかった。断言でもなかった。ただ、十年間傍にいた人が、見てきたことをそのまま言葉にしただけだった。

セシリアの胸に、その言葉が沁みた。

完全には揺れが収まらなかった。だがマルガレーテの声が、揺れの中に一本の糸を通してくれた。

「ありがとう、マルガレーテ」

「何を仰います。当たり前のことですよ」

マルガレーテは衣装を丁寧に棚に仕舞い、寝巻きを用意した。いつもの手順。いつもの所作。その変わらなさが、今は何よりの支えだった。

夜。

セシリアは侯爵邸の庭園に出た。

夜風に当たりたかった。社交用の衣装を脱ぎ、質素な夜着に羽織を重ねただけの姿だった。マルガレーテには「少しだけ庭に」と告げてきた。

庭園の石畳を歩いていると、暗がりの中に長身の影があった。

レオンハルトだった。

庭園の奥、低い石壁の傍に立っていた。上着を脱ぎ、袖を捲った姿。社交の装いから解放された、辺境にいる時に近い姿だった。

セシリアが近づくと、レオンハルトが気づいた。何も言わなかった。ただ、隣に場所を空けるように半歩ずれた。

セシリアはその隣に立った。

しばらく、二人で黙っていた。

庭園の木立の間を、夜風が抜けていく。王都の夜は辺境より生温かった。虫の声も、風の匂いも違う。だが、隣に立つ人の気配は同じだった。

「社交界は苦手です」

セシリアが呟いた。

声は小さかった。一日分の窮屈さが、その一言に込められていた。

レオンハルトが答えた。

「俺の方が苦手だ」

真顔だった。

セシリアは笑った。小さく、力が抜けた笑いだった。

そのまま、セシリアの額がレオンハルトの腕に預けられた。

上着越しではなかった。袖を捲った腕に、直接額が触れた。この人の肌の温度が、額を通して伝わってきた。

レオンハルトは動かなかった。拒まなかった。腕を引くこともなく、そのままの姿勢で立っていた。

拒まないのだと、セシリアはわかっていた。この人は、自分が触れることを拒まない。

「明日、一緒にいてくれますか」

声は小さかった。祝宴の夜。社交界の目の中心に立つ夜。

「当たり前だ」

短かった。だがその声は、庭園の夜の中で、どんな言葉よりも確かだった。

セシリアは目を閉じた。

額に伝わるこの人の温もりが、窮屈さを少しずつ溶かしていた。

明日は祝宴。王都の主要貴族が集まる場。辺境公爵の婚約者として、注目の中心に立つ。

だが今は、この庭園の暗がりで、この人の腕に額を預けていた。

それだけで十分だった。