軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話「根を下ろす」

セシリアは作業場の帳面を閉じ、棚に戻した。

エレオノーラとクラウスが王都に発ってから、数日が経っていた。辺境には静かな日常が戻っていた。

発酵食品の量産は軌道に乗っていた。ヴィクトルとの定期取引が安定し、出荷の間隔も一定になりつつある。作業場では領民たちが手順書に従って仕込みを進め、セシリアが品質を確認し、帳面に記録する。繰り返しの中に確かさがあった。

国境情勢はレオンハルトの出陣により鎮静化していた。斥候の報告は穏やかなものが続き、当面の脅威は去ったとレオンハルトは判断していた。

作業場を出ると、初夏の陽が石畳を白く照らしていた。領民の一人がセシリアに手を上げた。

「セシリア様、今日の仕込み分、良い色になっとりますよ」

「ありがとうございます。午後にもう一度確認に参りますね」

日常だった。辺境に来てから積み上げてきた、自分の日常。

だが、その日常の中で、セシリアの胸に新しい問いが芽生えていた。

城館に戻り、帳面を机の上に置いた。窓から中庭が見える。その向こうに、レオンハルトの執務室がある。

婚約の宮内省認可は、あと半月ほどで届くはずだった。ヴィクトルからの書簡には「王都では公爵の婚約の認可が間近という話がもっぱらです」と記されていた。フリッツの辺境訪問も、具体的な日程が決まりつつあった。

全てが、一つの形に向かっている。

公爵夫人。

その言葉を、セシリアは初めて自分の肌の上に置いてみた。

交際の意思表明をした時、婚約の手続きが始まった時、審査を受けた時。制度としての段階は一つ一つ進んでいた。だが、「公爵夫人になる自分」を具体的に想像したことは、実はまだなかった。

公爵夫人には社交の義務がある。対外的な役割がある。王都の社交界に出席し、他の貴族家との関係を維持し、公爵家の顔として振る舞わなければならない。

今のように、作業場に立てるのだろうか。

帳面を手に取り、数字を見つめた。だが数字は頭に入らなかった。

エレオノーラの帳面が、脳裏に浮かんだ。途中で止まった記録。内政に関わろうとして、続けられなかった人の帳面。

あの人が辺境を去った理由は、一つではなかったはずだ。この土地を好きになれなかったこと。先代公爵を亡くしたこと。だがその中に、「公爵夫人としての役割と、自分自身の居場所の乖離」があったのではないか。

もし自分も、公爵夫人としての役割に追われて、作業場に立てなくなったら。

あの帳面のように、途中で止まったら。

セシリアの指先が、帳面の表紙を握りしめた。

違う。これは、以前の焦りとは違う。

「役に立たなければ」ではない。「相応しくなければ」でもない。

自分のまま生きていいのか。

その問いは、もっと根源的な場所から来ていた。

夕刻、セシリアは執務室を訪れた。

レオンハルトは机に向かっていた。国境の定期報告に目を通しているところだった。

セシリアは扉を叩き、中に入った。マルガレーテが隣室に控えた。

報告の用件を済ませた後、セシリアは帳面を膝の上に置いた。

「一つ、伺ってもよろしいですか」

「何だ」

「公爵夫人になったら、作業場に立つのはおかしいでしょうか」

声は穏やかだった。だがその奥に、小さな揺れがあった。

レオンハルトの手が止まった。書類から目を上げ、セシリアを見た。

「誰がそう言った」

眉が寄っていた。怒りではなかった。問いかけだった。

「誰も言っていません。ただ、一般的には……」

「俺は一般論で伴侶を選んだわけではない」

遮った。声は簡潔だった。いつもの短い言葉だった。

「お前がお前であるから選んだ。作業場に立ちたいなら立て。それで困る者がいるなら、俺が黙らせる」

セシリアの目が見開かれた。

そして、笑い出した。

堪えられなかった。口元が緩み、目が細くなり、声が漏れた。飾りのない、自然な笑いだった。

レオンハルトの眉がさらに寄った。

「何がおかしい」

「あなたらしくて」

セシリアは笑いながら答えた。

「褒めているのか」

「はい」

笑顔のまま、真っ直ぐに答えた。

レオンハルトの目が逸れた。視線が窓の外に向いた。だがその耳が、はっきりと赤くなっていた。

「……いちいち笑うな」

声が低かった。だが、その声に刺はなかった。柔らかかった。

沈黙が落ちた。執務室に、夕暮れの光が差し込んでいた。

セシリアの胸の中で、何かが静かに定まった。

自分のままでいていい。

あの庭園で、この人は言った。領地は回った、だが俺が回らなかった、と。能力ではなく存在を必要としている、と。

そしてマルガレーテは言った。役に立つから大切なのではない、と。

今、この人は言った。お前がお前であるから選んだ、と。

二つの言葉が繋がった。

「存在そのものが大切にされる」ことを信じられるようになったのは、あの庭園の日だった。だが「自分のまま生きていい」という許可は、まだ得ていなかった。

今、それが来た。

この人の不器用な断言が、誰よりも確かな許可になった。

作業場に立っていい。帳面をつけていい。領民と言葉を交わしていい。公爵夫人の型に自分を押し込む必要はない。自分の根を、このまま伸ばしていい。

セシリアの中で、それが揺るがない場所に根を下ろした。

「レオンハルト」

名前を呼んだ。敬称のない名前。二人きりの執務室で許された呼び方。

レオンハルトの耳がさらに赤くなった。

「何だ」

「何でもありません。呼びたかっただけです」

レオンハルトが黙った。

数秒の沈黙があった。

「好きにしろ」

あの日、屋上で聞いた言葉が蘇った。「好きなだけ呼べ」。同じ響きだった。同じ不器用さだった。だが今の方が、ほんの少しだけ柔らかかった。

セシリアは微笑んだ。

立ち上がり、一礼して執務室を辞した。

廊下に出ると、マルガレーテが立っていた。

セシリアの顔を見て、何も聞かなかった。ただ、口元がわずかに緩んでいた。

自室に戻り、窓辺に立った。

辺境の大地に、夏の陽が長く落ちている。畑の緑が濃くなり、作業場の煙突から薄い煙が上がっている。この土地は変わった。自分が来た時から、確実に。

そしてこの土地に、自分の根がある。

事業がある。仕事がある。領民との繋がりがある。それを、このまま続けていい。公爵夫人になっても、変わらなくていい。

あの人がそう言った。

セシリアは窓から目を離し、机の上の帳面を開いた。

次の出荷の数量を確認し、ヴィクトルへの書簡の下書きに取りかかった。ペンを走らせる手は安定していた。

フリッツの訪問が近づいている。父がこの土地を見に来る。娘が根を下ろした土地を。

その日が来た時、自分は胸を張っていられるだろう。

窓の外で、風が麦の穂先を揺らしていた。初夏の陽が、大地を金色に染めている。

セシリアはペンを置き、その光を見つめた。

胸の中に、不安はなかった。迷いもなかった。あるのはただ、この場所で、この人の隣で、自分の足で歩いていくという、静かな覚悟だけだった。