軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話「約束を守る人」

馬車の窓から、見慣れた荒野が広がっていた。

痩せた土地。灰色の空。風に傾く木々。 王都から七日の道のりを経て、その景色が戻ってきた。

セシリアは窓の外を見つめ、小さく息を吐いた。

帰ってきた。

その言葉が、自然に浮かんだ。

王都を発つ時、この景色を初めて見た日のことを思い出した。 あの時は不安ばかりだった。 何もない土地に、何もできない自分が来て、どうなるのだろうと。

今は違った。

窓の向こうの荒野が、ただの荒野ではないことを知っている。 あの村には燻製を作る領民がいる。 あの畑の脇には、発酵食品の原料になる豆が自生している。 あの城館には、約束を守る人がいる。

向かいの席で、レオンハルトが腕を組んだまま目を閉じていた。 眠っているのか起きているのかわからない。 だが馬車が石を噛んで揺れるたびに、わずかに眉が動くので、おそらく起きている。

マルガレーテがセシリアの隣で、小さく微笑んでいた。

「お嬢様、お顔の色が良くなりましたね」

「そうかしら」

「王都に着いた時より、今の方がずっと」

セシリアは窓の外に目を戻した。

確かに、胸の中は軽かった。 王都で背負っていた重荷を、全て置いてきた。

城館の正門が見えた。

馬車が速度を落とし、門の前で停まった。

扉が開かれ、セシリアが地面に降り立った。

冷たい風が頬を打った。 辺境の風だった。 乾いて、硬くて、嘘のない風。

門の前に、人が集まっていた。

使用人だけではなかった。 村の領民が何人も来ていた。

最初に声を上げたのは、燻製を最初に口にした男だった。

「お帰りなさい、セシリア様。商談はどうでした」

セシリアは一瞬、足を止めた。

お帰りなさい。

その言葉が、胸の奥に沁みた。

「おかげさまで、うまくいきました。辺境の燻製が、王都で認められましたよ」

歓声が上がった。 小さな歓声だったが、温かかった。

古参の使用人エルマーが、門の脇に立っていた。 腕を組んでいたが、セシリアと目が合うと、ぎこちなく頷いた。

「……よく、戻られました」

それだけだった。 だが以前の「よそ者」と呟いた男の顔ではなかった。

セシリアは微笑んで頷き返した。

レオンハルトが馬車から降り、領民たちの前を通り過ぎた。 短く「戻った」とだけ言い、城館に入っていく。 いつもと変わらない背中だった。

だが、領民たちの顔を見れば、この人がどれほど待たれていたかがわかった。

城館に入ると、使用人の一人が駆け寄ってきた。

「セシリア様、作業場をご覧ください。発酵食品の樽に動きがございまして」

セシリアはマルガレーテと共に作業場に向かった。

留守の間、セシリアが書き残した手順書に従い、使用人たちが樽の管理を続けてくれていた。

蓋を開けた。

深い褐色だったものが、さらに色を増していた。 匂いが変わっていた。 出発前の酸味の強い匂いではなく、濃く、丸みのある香りが立ち上った。

セシリアは小さな匙で少量をすくい、口に含んだ。

塩気の奥に、深い旨味があった。

まだ完成ではない。 だが、これは間違いなく、セシリアの記憶にあるものに近づいていた。

「お嬢様……」

マルガレーテが横から覗き込んだ。

セシリアは匙を置き、静かに笑った。

「順調です。あと数ヶ月で、完成品になる」

この場所で始めたことが、確かに実を結びつつあった。

夕刻、セシリアはレオンハルトに呼ばれ、執務室を訪ねた。

レオンハルトは机の向こうに座っていた。 書類の束が脇に積まれている。 旅の疲れを感じさせない姿勢だった。

マルガレーテが扉の外に控え、近衛が廊下の奥に立っている。

「座れ」

レオンハルトが向かいの椅子を示した。

セシリアは一礼して腰を下ろした。

しばらく、沈黙があった。

レオンハルトが書類に目を落としたまま、口を開いた。

「王都での商談は成功した。継続取引の見込みも立った。発酵食品が完成すれば、領地の財政は大きく改善する」

「はい」

「お前の働きだ」

セシリアは小さく首を振った。

「レオンハルト様が素材を揃えてくださり、領民の方々が協力してくださったからです」

レオンハルトは書類から目を上げた。

セシリアを見た。

「正式に申し出る」

声の調子が変わった。 いつもの簡潔さは同じだったが、その奥に、普段とは違う硬さがあった。

「領地経営の助力者として、今後も傍にいてほしい」

セシリアの心臓が跳ねた。

だが、すぐにその言葉の意味を整理した。

公的な役割の提示だった。 内政助力者としての正式な要請。 合理的な判断に基づく、公爵としての申し出。

それだけだ。

セシリアは頷こうとした。

「喜んでお受け――」

「合理的な判断だ」

レオンハルトが遮るように言った。

声がわずかに早かった。

「お前がいなければ領地は回らない。それは事実だ」

セシリアは口を閉じた。

レオンハルトの目が、机の上の書類に落ちた。 また上がった。 セシリアを見て、また逸れた。

沈黙が落ちた。

長い沈黙だった。

やがて、レオンハルトの唇が開いた。

「……だが」

声が低くなった。 いつもより、さらに低く。

「それだけが理由ではないことは、いずれ証明する」

セシリアの呼吸が止まった。

指先が冷えた。 次の瞬間、胸の奥から熱が駆け上がった。

レオンハルトの耳の先が、赤かった。

書類に目を落としたままのその横顔。 切れ長の目。冬の湖面のように冷たいと思っていた瞳。 その耳だけが、はっきりと赤い。

セシリアはその赤さを見た。

鼓動が跳ねた。 一度ではなく、二度、三度と。

胸の中に広がったものに、今度は名前をつけられる気がした。

だが、今はつけなかった。

代わりに、笑った。

自然に、柔らかく。 社交の場で作る笑顔ではなかった。 誰かに見せるための笑顔でもなかった。

ただ嬉しくて、笑った。

「楽しみにしています、レオンハルト様」

声は震えなかった。 澄んでいて、温かかった。

レオンハルトの肩がわずかに揺れた。 顔は書類に向けたまま、片手で口元を覆った。

セシリアはそれ以上何も言わなかった。 レオンハルトも何も言わなかった。

沈黙が、温かかった。

自室に戻ったセシリアは、窓を開けた。

夕暮れの光が、荒野を金色に染めていた。

辺境の空は、今日も灰色だった。 だが雲の切れ間から差し込む光が、どこまでも広がっていた。

春の気配が、かすかにあった。 冷たい風の中に、土の匂いが混じっている。 長い冬が終わろうとしていた。

セシリアは窓枠に両手を置いた。

初めてこの窓から外を見た夜のことを思い出した。 何もない土地だと思った。 自分に何ができるのかもわからなかった。

今、この窓から見える景色は同じだった。 荒野と山並みと、広い空。

でも、見え方が変わっていた。

この場所に、自分の仕事がある。 自分を必要としてくれる人たちがいる。 約束を一度も破らない人がいる。

約束を守る人がいるなんて、知らなかった。

その言葉が、胸の中で静かに響いた。

マルガレーテが背後で毛布を整えている気配がした。

「お嬢様。お顔が赤いです」

「今度は暖炉のせいにはしないわ」

セシリアは窓の外を見たまま、笑った。

マルガレーテが小さく息を呑み、次いで、嬉しそうに笑った。

窓の外に、春の陽光が差し込んでいた。

(完)