軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

六女エリザベートとの交流

『山の緑が輝く季節となりました』

『風もさわやかな穀雨の候、お父さまはますますご清祥のことと存じます』

『さて、この度のお誘い、本当にありがとうございました。願ってもないことでしたので、あれがしたい、これがしたいと今から胸を高鳴らせております』

『当日は馬車でお迎えにあがりましょうか? それともどこかで待ち合わせをして、そのまま街に遊びに行くのでしょうか?』

『いずれにしても楽しみですね。その日が来るのが待ち遠しいです』

『詳細が決まりましたら当家の執事にお知らせください』

『それでは、またのご連絡をお待ちしております』

『あなたの娘 エリザベートより』

『わたくしたちの父 サヤマタカヒロさまへ』

この手紙は連休直前にうちの六女が送ってきたものだ。薔薇の香りがする高価な便箋、そこには丸くてかわいい文字がワルツを踊るようにして並んでいる。

文章こそ形式ばってはいるが、これはあの子、エリザベート本人が書いたものと見て間違いはないだろう。達筆な執事に代筆させることもできただろうが、筆まめなあいつはなるべくすべての手紙を自分の手で書こうとしていた。

俺自身、娘からの手紙をすでに百通近くは受け取っている。他の家族も季節の折々に受け取っているそうで、時にはそれに絶妙なプレゼントが添えられていることもあった。

それが単なるポーズなら、逆にウザがられもしただろうが――。

あいつは素の性格がいいんだろうな。ただの文章からも相手への思いやりが伝わってきて、それゆえにエリザベートの手紙はみんなが喜ぶ魔法のアイテムのようなものにもなっていた。

無論、喜ばれているのは手紙だけではなく、本人が顔を見せるとその場の一同が笑顔になるくらいには人気者である。総じてみれば、うちの六女、エリザベート=ド=フェルディナンは、まさに天使と言えるような少女――なのではあるんだが――。

残念なことに、そんなあの子にも唯一と言っていいほどの欠点があった。

欠点というより外見的な特徴だろうか? あの心優しい少女は、どうしたことか、なんといっていいのか、つまり、

『びっくりするほどの悪役令嬢顔』

なのであった。

それに気がついたのはあの子が5歳を迎えた日のことだった。

誕生日パーティーに招かれた俺は、そこで柔和に微笑む娘を見て、

(あれ? この子って悪人顔?)

と、不意に思ってしまったのだ。

もちろん顔立ちは整っている。母親のフランソワとは少し違うが、ブルーブラッド、高貴な血筋というものも感じさせた。

ただまあ、なんというか、目元が俺に似てしまったというか――。

にこりと微笑むと青い瞳がキュッと細くなり、にやり、あるいはにんまりというサディスティックな笑みのように見えてしまっていた。

(性格はいいんだけどなあ)

悪人顔のせいで、それも見せかけのものだと思われている。

もちろん家族はそう思っちゃいないが、付き合いの浅い人間はどうしても印象の方を信じてしまうらしい。おかげでうちの六女は「天使の仮面をかぶった悪魔」などと呼ばれ、少なくない苦労を日常の端々で味わっているのだった。

「その……お前にも苦労をかけるな」

「ええ? いきなりどうされたのです?」

「いや、ほら。その……噂のこととか」

「うわさ、ですか? 一体なんのことでしょう?」

そう言って小首を傾げる可憐な少女。ピンクのドレスに金髪縦ロールがよく似合うこの子こそが、うちの六女であるエリザベートだった。

「くろうについても、とくに心当たりはないのですが……?」

娘は困ったように頬に手を当てていた。本当に知らないのか、知らないふりをしているのか、それは判別がつきかねるところだったが――。

せっかくの機会を逃すこともできず、俺は例の件について恐る恐る問いかけてみるのだった。

「あのさ。この春、エリザは二年生になっただろ?」

「ええ、はい。ぶじに進級いたしましたわ」

「それで、ほら。クラス替えとかあったって聞いてさ」

「はい」

「そこで、その……フェルディナン家を敵視してる、めちゃくちゃ意地悪な子と同じクラスになったって聞いて……」

「まあ!」

エリザベートは心底驚いたように大声を上げた。

両手で口元を隠し、目はこれ以上ないほどに大きく開かれて――。

かと思えばぷんぷんと腹を立て、娘は俺に抗議のようなことをしてくるのだった。

「それはごかいですわ! たしかに多少のいざこざはありましたが、わたくしたち、今ではすっかり仲良しですもの」

「は?」

「お父さまもごらんになったはずです。体育の時間、わたくしとペアを組んでいた方が件のベリーチェさんなのですよ?」

「あれがそうなの!?」

「ええ」

「うわあ……!」

驚嘆の声を漏らしながら四月上旬のことを思い出してみる。そこにはエリザベートにべったりな少女の姿があって、その子はしきりに「わたくしたちは一番のお友だちなのですよ!」みたいなことを言っていた。

(あれが噂の……ガチの悪役令嬢だったのか!?)

どこからどう見ても無二の親友のようにしか見えなかった。あるいはエリザに心酔したファンのようなもので、そこには悪意だとか、侮蔑のような感情は一切含まれてはいなかった。

進級数日ですっかり心が通じ合ったのだろう。どうやったのかは分からないが、娘はまたしても敵を味方に変えてしまったわけだ。エリザベートとはそれが自然にできる類の人間であり、言ってしまえば「人たらし」、それが六女のもうひとつの特徴とも言える要素だった。

(そういや、祖父のオデュロンさんなんか骨抜きにされてたな)

あれは孫バカみたいなもので少し違うか。ともあれ、表情のせいで何かと誤解を受けるエリザベートは、その人当たりの良さでかえって人気者になっているのだった。

「ま、まあ、楽しくやってるようならそれでいいや」

「はい」

花のように微笑む娘は、相変わらず悪人のような顔だったが――。

そこに陰りはないようで、親としてはほっと一安心する俺だった。

『お嬢様。そろそろ目的地に到着します』

「ええ」

『少し揺れますのでお気をつけください』

「わかりましたわ」

短いやり取りの直後に座席がゴトンと緩やかに揺れた。いま、俺とエリザは馬車に乗って中級区の通りを進んでいる。

手紙にあった通りに娘は迎えをよこしてくれたんだ。朝と言うには少し遅めの午前十時、俺たちは時間を潰すようにあれこれ話をしていたわけだ。

(俺が家に行っても良かったけど)

王貴区への訪問はあれこれ手続きが面倒臭い。そういった煩雑さを避けるためにも、エリザベートがこちらに来るのがもっぱらのパターンだった。

「そういや、今日はどこに行くんだ?」

何とはなしに問いかける俺。馬車が来てからというもの、挨拶、最近の出来事、家族の話と続き、肝心の今日の予定を後回しにしてしまっていた。

(まあ、変なことにはならないだろうけど)

コミュ強のエリザベートは気遣いと接待の達人でもある。こちらが「何がしたい?」と聞く前にすでに予定を決めている場合が多い。それがあまりに楽すぎるため、俺は逆に頼り過ぎないように気をつけてはいるんだが、

『本日はわたくしにまかせてくださいね?』

嬉しそうにそう言われると、今日ばかりはそれに従うしかなかった。

「うふふ。とてもすばらしい場所に案内しますわ」

「素晴らしい場所? そんなのあったかな?」

「着いてみてのお楽しみです。もうしばらくお待ちくださいませ」

「この辺りは仕事でちょくちょく通るんだけど」

「あっ、あっ、いけません。外はあまり見ないでください」

ぱたぱたと手を振って俺の視界を塞ごうとするエリザベート。そんな娘に思わず苦笑すると、エリザは少し頬を膨らませて、しかしすぐにもふふっと顔をほころばせるのだった。

『間もなく停車いたします』

伝声管を通じて御者の報告がこちらに届く。そのすぐあとに揺れが収まり、やがて前後の馬車から人が集まってくる気配が感じられた。

護衛兼世話役の従者たちが駆け寄ってきたんだろう。うやうやしく開かれたドア、その先にはずらりと執事、メイド、御者などが並んでいた。

「お待たせしました、お嬢様」

「予定通りに目的地に到着しました」

「ええ、ありがとう、あなたたち」

「ささっ、私の手をお取りください」

「いえいえ、ここはわたくしの手を」

「足元にお気をつけて……ささっ!」

開幕早々、いきなりファンの集まりみたいになってしまったな。女性比率高めの従者軍団はそのほとんどが頬を上気させてしまっている。

大貴族の跡取りとして愛されているというのもあるが、これも人たらしの一端みたいなものだな。「自分たちだけはお嬢様の良さを分かっている」と顔に書いていそうな集団は、しかし、意外にもすんなりと控えの馬車に戻っていくのだった。

「さあ、お父さま。まいりましょう?」

「あ、ああ」

呆けていたところを娘に手を引かれて通りへと出た。そこは慣れ親しんだ中級区の一角、近くには大きな市場があるはずの場所だった。

(……ん? でも、あれ?)

そんなところをわざわざ馬車で見に来たのか? いぶかしむ俺に対し、エリザはにこにこと実に楽しげな表情を浮かべていた。

「ふふっ、わかりませんか? お父さま?」

「わからないって言っても……んんん?」

「ヒントは週に一度のイベントです」

「週一、市場……ああ! もしかしてあれか?」

「そのもしかしてだと思いますわ」

「蚤の市か!」

ぽんと手を打つ俺にエリザは嬉しそうにうなずいている。どうやら答えは合っていたようで、それを証明するかのように、俺たちの前には雑然とした景色が広がるのだった。

「さー、いらっしゃい! いらっしゃい!」

「掘り出し物があるよ~。迷宮から出た品だよ~」

「熟練職人が作った小物、置いてまーす!」

「似顔絵などいかがでしょうかー?」

目抜き通りを曲がった先、そこには路地のような、広場のような、どうにも中途半端な空間が広がっていた。見通しは悪く、無駄に複雑で、露店や屋台はごちゃごちゃと品物を並べていて――。

それでも活気があるのはやはり人出があるからだろう。週に一度の蚤の市、いわゆるフリーマーケットには多くの市民が集まってきていた。

「そういやここにもあったんだよな」

「お父さまは別の市場が馴染みですものね?」

「あっちの方が近いしなあ」

仕事で店番を任されるのも近所の市場が断然多い。新年祭で駆り出されたこともあったが、あれもこことは正反対の港の方、対極に位置する場所だった。

「ふーん。ここは工芸品が多いんだな?」

じろじろと辺りを見ながら市場を進む。蚤の市と言えば食事や飲み物が付き物だが、ここではそういったものはあまり売られていないようだった。

代わりにあるのがアクセサリ、ナイフ、時計、魔道具。そこに絵画や食器が適度に交ざり、一帯は雑貨店のような景色にもなっていた。

「エリザはこういうとこ好きそうだよな?」

「ええ、そうなんです。見ているだけでも楽しくって」

「なんか分かるわ。そういう気持ち」

顔を見合わせて微笑み合う俺とエリザベート。心が弾むような幸先のいいスタートに、俺たちは足取りも軽く蚤の市の中を散策するのだった。

「あら、お父さま。あれなどいかがでしょう?」

「あれ? ってこれか。宝石付きのアクセ」

「なかなか良いもののように思えるのですが?」

「まあ、結構良品かもな。遺跡の出土品かも」

「ああっ、あちらにも気が引かれるものが」

「あれは最近の品だな。売り出し中の職人のものだと思う」

「うーん、ですが、やはりこちらも捨てがたく……」

「それは珍品の部類だろ! ってか、なんだそれ!?」

スライムに呑まれたクマが断末魔の悲鳴を上げている。そんな置物にツッコミを入れながら、俺はまた目移りを始めた娘のあとを追いかけていった。

「お父さま、お父さま。このティーポットはどうでしょうか?」

「多分、真作だろうけど……え? まさか買うのか?」

「そのようにしたいと考えておりますが……?」

「ちょっと高額のように思うんだけど……?」

「何か問題がありまして?」

「ぐっ……!?」

ここで思わずうめき声が漏れた。

まさかこれはあれか。親としての愛を試されているのか? それとも金銭感覚がぶっ壊れていて、これくらいは些細な買い物に過ぎないとでも?

「小遣いに余裕はあったかなあ」

泣く泣く財布の中身を確認する俺を、エリザベートは何とも不思議そうな表情で見つめるのだった。

「あ、ああ! いえ! ちがうのです!」

「違う? 違うって何が?」

「これはわたくしが買おうとしたもので、お父さまに買っていただこうなどとは考えてもいなかったもので……!」

珍しくあたふたとしながらエリザベートが弁明をする。どうやらこの7歳児は自分のポケットマネーで物品を購入するつもりのようだ。

「いや、でも、そんなに小遣いをもらってたっけ?」

「えっ?」

「フランソワはそういうところ、かなり厳しいと思うんだけど……」

フェルディナン家には莫大な財産があるそうだが、だからといって子どもの散財を許すようにはとても思えない。そうしたイメージが目の前の出来事と重ならず、俺が腕を組んで深く考え込んでいると、

ガシャーン!

「ん?」

近くで誰かが重たい荷物を落とす音がした。振り返ると、通路の真ん中には青い顔をした男が立っているのが見える。

「なんだ? どうした?」

問いかけてみても答えらしい答えは返ってこない。代わりにあわあわと口を震わせ、恐らくは画商と思しき男はエリザベートを指差しながらこう言ってきた。

「あ、悪魔だ……! 金色の悪魔……!」

「はあ?」

いきなりの無礼にさすがの俺も怒りが顔に出た。すぐにも相手に詰め寄ろうとしたが、当の本人はどうしたことか、俺など視界にも入れていないようだった。

男は一心にエリザのことを凝視している。次第に呼吸も荒くなり、青かった顔が赤くなったり白くなったりを繰り返し、そして、

「悪魔だ! 悪魔が出たぞーーーーー!」

「あっ、おい!」

結局、落とした額縁も放ったままで行ってしまった。何もかもが分からないまま、俺は呆然とその場に立ち尽くしてしまっている。

「……いや、は?」

マジであれはなんだったのだろうか? 悪魔と呼ばれたエリザベートならあるいは何か知っているのだろうか? そばにいる娘に聞こうとしたが、それより早く蚤の市全体にざわりと動揺が広がっていった。

「今度はなんだ!?」

半数近くの店主がこちらを怯えるように、あるいは期待するように見つめている。彼らの口からは悪魔、あるいは天使という単語が伝わってきて、その両極端な要素が俺をますます混迷の極みへと誘っていた。

「エリザ、お前……?」

視線を向ける俺に娘は涼しい顔で微笑んでいる。どこかいたずらっ子のように見える表情は、やはり何らかの秘密を持っているかのように感じられた。

「えっへっへっへっ……お嬢様」

「どうもどうも。ご機嫌うるわしゅう」

「っ!?」

いつの間にやら何人かの画商、あるいは古美術商が近づいてきていた。年季の入ったおっさんたちは、しかし、7歳の幼女に媚びたような愛想笑いを向けている。

「早速ですが、どうですかね、これ」

「あっしはいいものだと思うんですがね?」

そう言いながら絵画や壺を差し出してくる店主たち。それをじっくりと見たエリザベートは、落ち着いた調子でひとつ、ふたつと指差していった。

「こちらとこちらは良いものだと思いますわ」

「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」」

「ですが、残りのものは贋作、あるいは普及品だと思います」

「「「うおあああああああああああああああああ!?!?!?」」」

天国と地獄とはまさにこのような光景なのだろう。両手を大きく突き上げるふたりに対し、残りの全員は地に這いつくばって野太い声を上げていた。

「こ、こ、この指輪が、偽物だって言うのか……!?」

「残念ながら。アンティークに見せかけた模造品でしょう」

「あ、あ、あああああああ……!」

へなへなと腰を抜かしている男もいる。総じて異様な光景を生み出した店主たちに、周りの客たちはおっかなびっくり、大きく避けるように通り過ぎていった。

もちろん俺も訳が分からず棒立ちになったままだ。そのままぽかんと口を開け、ただただ事の推移を見守るばかりで――。

「説明しましょう」

「セ、セバス」

どこからともなく執事服の女が姿を見せた。二十歳になったばかりの知的な女性、彼女はエリザベート専属のお付きのような存在だった。

「実は最近、お嬢様は類稀なる素質に目覚めまして」

「はあ」

「お父様から受け継いだ【鑑定眼】、そしてフェルディナン家が誇る感性、歴史、美の知識が合わさった結果」

「ふんふん」

「なんと、お嬢様は『見ただけで物の良し悪しが分かる』ようになったのです!」

「な、なんだってー!?」

思わずベタな反応で驚いてしまった。い、いや、しかし、まさかエリザベートがそんな力を身につけていたとは。

「商品購入のための資金もご自分で稼がれたものです」

「それって……せどり、とか、そんな感じでものを売って?」

「ええ。正確には謝礼という形になるでしょうか。お嬢様は掘り出し物を見つけては、それを必要としている方へと惜しみなく贈られているのです」

「あー……それで向こうは感謝感激でお礼をくれると」

「はい。多くの場合、購入代金を大きく上回る額ですね」

「おお……」

つまりエリザは古美術商のようなことをやっているわけだ。誰も気づかない貴重な品を見つけ出し、その価値を知る者へと送り届けるような真似をしていると。

周りの反応を見る限り、その審美眼は早くも評判になっているみたいだ。店主たちがわざわざ会いに来るのもうなずける話で、彼らはエリザのお墨付き、あるいは商品の価値の裏付けのようなものが欲しかったのだろう。

ひょっとするとそのまま売りつけるのが目当てのやつもいたのかもしれない。今回は見当たらなかったが、当てが外れて魂が抜けているやつら、そのうちの何人かはそういった輩のようにも感じられた。

「奥様は魔法の勉強に力を入れてもらいたいようですが」

「こればっかりは素質だよなあ。魔法も得意とは聞いてるけど、これなら古美術商になった方がよっぽど大成できそうだ」

「ですが、お嬢様はフェルディナン家のご息女でありますれば」

「色々放り出して趣味に走ることもできないか」

大きくため息をつく俺の前で、エリザベートの元には更なる商品が並べられていくのだった。

「はーーー……大満足です♪」

その日の夕方、俺はエリザの実家を訪れていた。すなわち大公爵家の大邸宅は、相も変わらず威厳と威容のようなものを放っている。

その中で自然に過ごせるのが貴族の貴族である証なんだろう。正確には貴族の卵みたいなものだが、エリザベートはフェルディナン家の一粒種、いずれ立派な淑女になるのは決められているようなものだった。

「お父さまがついていてくださって本当に良かったですわ」

「そうか? むしろ足手まといじゃなかったか?」

「とんでもありません! わたくしだけでは『物の良し悪し』しか分かりませんもの。芸術品以外の知識はありませんし、それに」

「それに?」

「お父さまといっしょというだけでもうれしいものです。今日は長く過ごせて本当に楽しかったですわ」

「そ、そっか」

照れ隠しのようにバリバリと後ろ頭をかく俺。そんな父親に対し、ソファの隣に座るエリザは柔らかい微笑みを浮かべている。

「できればいつもいっしょにいたいのですが」

「そればっかりは難しいよな。お互い難しい立場だし」

「ですね。少しわがままを言いました」

困ったように笑ってエリザはギュッと抱きついてきた。それを俺は静かに受け止め、そのまま娘の頭をゆっくり、優しく撫でていって、

「そういえば……」

「はい?」

「まだ時間に余裕はあるけどさ」

「はい」

「他に何か、したいこととかないのか?」

少し重たい空気を払うかのようにそう告げた。

いまは夕方とはいえ、まだ夜には遠いといった時間帯だ。遊ぼうと思えばまだまだ遊べるし、やりたいことがあるならそれをするだけの猶予はあった。

(映像水晶でいっしょに劇を見るのもいいかもしれないな)

いや、観劇なんかはかえって飽き飽きしているかもしれない。そんな調子で俺がプランを組み立てようとしていると、

「したいこと、ですか」

(おっ?)

意外にもエリザの食いつきはかなり良かった。口元に手を当て、何やら真剣な表情で沈思黙考にふけっている。

「それはどのようなことでもいいのでしょうか?」

「お、おう。いいぞ。俺にできることならな」

綺麗な悪人顔でグッと迫られるとちょっと怖い。気圧される俺に気づいているのかいないのか、エリザはなおもググっと身を乗り出してきて、

「そういうことでしたら……♪」

そして数分後、俺は娘のやりたいようにされてしまうのだった。

「ふふふ、よしよし。いい子いい子」

「日々のお仕事、おつかれさまです」

「いまだけはわたくしのひざでいやされてくださいね?」

「なんなら子守唄も歌いますが……?」

「い、いや、それはいい」

怒涛の展開にちょっと頭が追いつかなかった。俺は娘にひざまくらをされて、大貴族の邸宅の応接間の中、豪奢なソファで無防備な姿勢で寝転がっている。

これは何らかの意地悪か何かの一環なのだろうか? それとも娘はサディスティックな嗜好の持ち主で、俺を恥ずかしがらせて楽しんでいるのだとか?

どちらもあり得ないような話だったが、だとすればこの状況をどのように説明すればいいのだろう。分かりかねた俺は当の本人に直接聞いて、その真意を問い質すことを決めた。

「あ、あのさ」

「はい、なんでしょうか?」

「これって、その……なんなの?」

「なにと申されましても、見ての通りのことなのですが」

「見ての通りだと……甘やかしってことになるが」

「ええ、そうです。わたくし、お父さまを甘やかしていますの」

「えええ……?」

困惑する俺に向けて、エリザベートは悪役令嬢のような顔でにっこり、いや、にんまりと微笑むのだった。

「実はわたくし、お世話をするのが好きな性質らしく」

「はい」

「前々からお父さまをいやしてさしあげたいと考えていましたの」

「はい」

「なかなかその機会が訪れませんでしたが……」

そこでエリザは言葉を区切り、言った。

「今日がその機会でしたのね♪」

「ううっ……!」

面倒見がいい子だとは思っていたが、まさかそのような性質の人間だったとは。いや、そういう子も普通に存在するとは思うんだけど、父親としては恥ずかしいというか、誰かに見られたらキツイというか、

「あら」

「っ!!」

絶妙なタイミングでフランソワが応接間へとやってきた。縦ロールがボリュームアップし、美しい女性へと成長した元生徒は、俺の痴態に気を留めることもなく、

「ふふっ。どうぞ続けてください」

そんなことを言って俺たちの向かいに座る始末。

「良かったわね、エリザベート。お父さまに甘えられて」

「はい♪ このことも含め、とても素敵な一日となりました♪」

母子は和やかに会話を続けているが――。

いや、やっぱこれはおかしいだろう!? 恥ずかしくて死ぬぞ!

「ああ、ダメですお父さま」

「タカヒロさん。どうかそのままでいてください」

起こしかけた身体はそっと元の姿勢へと戻される。そしてなでなでが再開され、俺は赤ちゃんのように娘の甘やかしを受けるばかり。

「次はわたくしもしようかしら?」

「少しだけですよ? 今日はわたくしのお父さまですもの」

「まあ。ふふっ、そうね、その通りね」

和やかに交わされる会話。これも家族団らんの姿なのだろうか?

俺には分からない。何もかもが分からない。そんな奇妙な空間には、やがて祖父のオデュロンさんもニュッと姿を見せるのだった。