作品タイトル不明
新しい朝
怒涛のような出来事が立て続けに起きた長い夜が明け、ついに運命の翌日の朝を迎えた。
いつものように日課となっている朝の雑談配信を無事に終え、俺はマイクのスイッチをオフにしながら、心の底から安堵したように大きく息を吐き出した。
「ふぅ〜……」
息を吐き出すことで、溜まっていた緊張を少しだけ外へ逃がす。
画面の向こうで未だに止まることなく盛り上がりを見せているコメント欄へ向けて軽く手を振り、そのまま配信ツールのウィンドウをパタンと閉じて接続を切った。
頭の奥にはまだ少しばかり重たい眠気が残っており、心地よい疲労感が全身の筋肉を薄く覆っているのを感じる。
けれど、そんな昨日の余韻や疲労感に浸って引きずっているような余裕は、今の俺たちには一切残されていない。
今日は今日で、昨日までのゲーム内での大騒動とは全く別方向のベクトルで、俺たちの今後の人生を左右するかもしれない非常に大事な試練の日が控えているからだ。
――それは、現実世界という逃げ場のないリアルで行われる大々的な記者会見である。
ミーナが立ち上げた新事務所の正式な設立発表の場であり、そこへ業界トップクラスのインフルエンサーである天神ネネが電撃加入するという、エンタメ業界を揺るがす特大ニュースを発表するための晴れ舞台だ。
そして、俺たちがこれから活動の拠点として掲げる名前《TALE-TELLER》。
表向きには“配信"という現代のエンターテインメントを通じつつ、エタファンの世界に隠された深い物語を語り明かすという、少しばかり壮大なコンセプトを掲げた新進気鋭の新事務所である。
その組織の構造として、流行の最先端を行き大衆の目を惹きつけるインフルエンサー部門の顔として圧倒的な知名度を持つネネが立ち、純粋なゲーム配信部門のトップとしてこの俺が立つという体制が組まれている。
もちろん、世間にはそういった綺麗な体裁を取り繕っているが、俺たち三人の間の気安い関係性や、裏で密かに進めているエタファンの謎に迫るという内部事情は今までと何一つ変わっていない、と言うより本格的に動きがでるこれからが、ずぶずぶの関係になっていくだろう。
実際のところネネの加入は大助かりで、自分を冷静に自己評価してみれば、俺は配信者としてはまだまだ“駆け出し”の素人に毛が生えた程度の存在でしかないのだと思い知らされる。
ネネみたいに、ただ街を歩いてカメラの前に立つだけで、何十万人という人間の視線を釘付けにし、その場の空気を全て自分の色に染め上げてしまうような圧倒的なカリスマ性は、今の俺にはまだ備わっていない。
無駄に存在感を主張する胸の圧という物理的な圧とフルタイム美少女という武器だけはあるのだけれど。
その武器だけでなんとかここまでやってこれたけど、リアルを動かしていく、これから先の途方もない未来への期待と、失敗できないという重圧が入り混じった思いを巡らせる。
「はぁ〜〜……」
故のため息である。
俺はゆっくりと立ち上がり、部屋に備え付けられた小さなキッチンへと足を向けコーヒーマシンのスイッチを入れる。
トポ……トポ……と、細く注がれたお湯がコーヒーの粉のマシーンを通り抜けていく心地よい音が、静かな部屋の中に小さく、しかし確かなリズムで響く。
サーバーの底へ濃い褐色の液体がゆっくりと落ちていくたびに、温かなドリップの湯気がゆらゆらと宙を舞い、朝の冷たく澄んだ空気を少しずつ溶かしていった。緊張を紛らわすためとはいえ、なんか、こういうゆったりとした朝の贅沢な時間というものを、俺は心の底から好きになってきた気がする。
ブラック企業で毎日理不尽に耐え、社畜として心身をすり減らしていた昔の自分なら、朝の五分すら惜しんで駅の自動販売機で買った冷たい缶コーヒーを無味乾燥に胃へ流し込んで、足早に満員電車へ向かって終わりだったというのに。
いきなり美少女になったり、会社辞めて配信者になったり。
人生何がどう転ぶか分からないものだと、過去の自分を思い返して小さく笑みをこぼす。
なんてことを一人でぼんやりと考えていると、背後にある寝室の扉が、そっ……と全く音を立てずにゆっくりと開いた。
「…………」
俺は手を止めてそちらを振り返る。そこには、目をこすりながらフラフラとした足取りで歩いてくるミーナの姿があった。
だが、その様子は明らかにいつもの彼女とは違い、どこか様子がおかしい。
いや、おかしいという表現は少し不適切かもしれない。正確に言うならば、これは同居を始めてから俺も何度か目撃している“たまにあるやつ”のモードなのだ。
この子は普段、俺たちを裏から支える有能なプロデューサーとして、常にビシッとした隙のない完璧な態度を崩さない。
敏腕であり、何事も緻密な計算で完璧にこなし、複雑なスケジュール管理から突発的なイベント企画、さらには視聴者を惹きつける高度な配信導線の構築に至るまで、大学生とは思えない機敏さで、頭脳を高速回転させながら的確に処理しているのだ。
なのに、ごくたまにだけ、夜遅くまで働きすぎた翌日の朝に限って、バッテリーが完全に切れたおもちゃのようにこんな姿になってしまうのである。
「……おはようございますぅ……」
寝ぼけ眼で発せられた声は、普段の凜としたトーンとは似ても似つかない、語尾が溶けたようなふにゃふにゃの甘ったるいものだった。
綺麗に切り揃えられているはずの髪も少しばかり跳ねて乱れており、とろんとした目元はどう見てもまだ夢の世界を半分彷徨っているように眠そうだ。
足取りもおぼつかず、今にもその場にへたり込んでしまいそうなほど、歩き方がなんか危うい。
たぶん、彼女は俺が先にベッドへ入った後も、一人で夜遅くまで今日の会見に向けて詳細な資料を作ったり、各所への根回しを行っていたのだろう。
そういえば、昨日の夜も薄暗い部屋の向こうから、ぶつぶつとプレゼンのリハーサルをするような真剣な声が漏れ聞こえていたのを思い出す。
それもそのはずだ。リアルで行われる記者会見、新事務所の設立発表、そしてトップインフルエンサーであるネネの加入劇。
今日の発表は単なるイベントの枠を超え、普通にエンタメ業界のトップニュースとして扱われる規模のものなのだ。
だからこそ、責任感の強い彼女は誰よりも気合いが入っていて、自分の限界を超えるまで準備に没頭していたのだと思う。
「……はい、お疲れ様」
俺は呆れつつも愛おしさを隠せない苦笑を浮かべながら、淹れたばかりの温かいコーヒーカップを彼女へ差し出した。
「ありがとございますぅ、リエラさん……」
ミーナは両手で大切そうにマグカップを受け取る。そして、ふーふーと軽く息を吹きかけてから、熱い液体をゆっくりと一口飲んだ。
「んぅ……生き返るぅ……」
彼女は心底安堵したような深い息を吐き出す。
その様子を見ると、睡眠不足気味の身体はだいぶ限界に近づいていたことがよくわかる。
すると、一口飲んで人心地ついたのか、彼女はそのままカップをテーブルに置き、俺に向かって「ん……」そう、息を漏らすと無防備に両手を広げてきた。
「…………」
その無防備な行動に一瞬だけ沈黙する。
いや、もう。
なんだか最近、彼女のこの甘えてくるパターンがめちゃくちゃ多い気がするな?子供が親に甘える時のように、それは完全に“抱っこ待ち”みたいな隙だらけの姿勢だった。
「もう一歩も動けません……充電してください……」
ミーナがうるうるした瞳で完全降伏を宣言する。「はいはい、わかったから」
俺は仕方がないなという風に優しく苦笑しながら、その身体を抱き寄せた。
すると、ふにゃっ、と全身の力が抜けきったような感覚とともに、俺の胸元へ彼女の体重が完全に預けられる。
胸の中に収まったその身体は驚くほどに軽く、そして女の子特有のしなやかで柔らかい感触があった。
そして、頭が近づいたことで、彼女の髪からなんかとてもいい匂いがふわりと漂ってくることに気がつく。これは昨日一緒にドラッグストアで買った、少し甘い香りのするシャンプーの匂いだろうか。
いや待て。
なんで俺はこんな冷静に、年下の女の子の匂いを分析したりしているんだ?
危ない危ない、思考が変な方向へ向かいそうになるのを必死で軌道修正する。
深い意味なんてものは一切ない。
ほんとに、神に誓ってやましい邪念はないのだ。 ただ、俺たちが同じ屋根の下で一緒に住むようになってから、こういった距離感の近いナチュラルなスキンシップが劇的に増えてきたのは事実だった。
いや、だからほんとに深い意味はないぞ!?お互いに過酷な日々を乗り越える戦友であり、信頼し合っているパートナーだからこその行動であって、多分、恋愛感情とかそういうのではないはずだ!と、心の中で誰にともなく言い訳を重ねる。
抱きしめられているミーナの方も完全に警戒心を解いた安心しきった顔で、俺の胸にぴったりと体重を預けているのだ。
なんだろうなこれ。手のかかる妹をあやしているような気もするし、甘えん坊の小動物を保護しているような気もしてくる。
普段はあんなに隙がなくて仕事ができる有能なプロデューサーなのに、気を許した相手の前でたまにこうして限界化するギャップが本当にずるいと思う。こんなの、誰だって守ってあげたくなるに決まっているじゃないか。
「……リエラさん」
俺の胸の中で目を閉じていたミーナが、くぐもった声でぽつりと呟いた。
「ん?」
俺が優しく相槌を打つと、
「今日、緊張してます?」
彼女は俺の胸元へ額をぐりぐりと押し当てたまま、小さな声で核心を突くように聞いてきた。
その問いかけに、俺は少しだけ言葉に詰まり、頭の中で自分の素直な感情を整理して考えてみる。
「……まぁ」
誤魔化すように弱々しい苦笑を一つこぼした。
「正直に言うと、ちょっとだけね」
見栄を張るのも馬鹿らしくなって素直に本音を吐露する。いつもの自室から気楽に発信するゲーム配信とは、根底から全てが違うのだ。今回は仮想空間ではなく、逃げ場のない“リアル”な現実世界が舞台となる。
きらびやかな新事務所の立ち上げ、無数のフラッシュが焚かれるであろう記者会見、そして世間を駆け巡るエンタメのニュース。
それは、俺がこれまで生きてきた中で全く縁のなかった、華やかな業界のど真ん中での出来事だ。そういう煌びやかでシビアな世界に飛び込むには、俺はまだ覚悟が足りず、そっち側の人間になりきれていないという焦りがどうしても胸の奥に渦巻いていた。
俺のそんな情けない不安を感じ取ったのか、すると、胸に顔を埋めていたミーナが、ふふっと小さく声を出して笑った。
「大丈夫ですよ」
彼女はゆっくりと顔を上げて俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。
その凜とした澄んだ声には、さっきまでの限界を迎えたふにゃふにゃ感が少しだけ消えており、確固たる自信を持つプロデューサーとしての響きが宿っていた。
「リエラさんは気づいていないかもしれませんけど、もう十分すぎるほどのスターですから」
彼女は力強い言葉で俺の不安を払拭するように肯定してくれる。
「いやいや、流石にそれは身内贔屓の言いすぎでしょ」
俺が照れを隠して謙遜すると、彼女は首を横に振った。
「決して言いすぎじゃないです。リエラさんが持つ力と魅力は、私が一番よくわかっていますから」
と、譲らない姿勢を見せる。
そして、一拍の静寂を置いてから、彼女は花が咲くようなとびきりの笑顔を見せた。
「だから、リエラさんのためなら限界を超えてでも私、頑張れるんです」
「…………」
俺はその言葉の真っ直ぐさに撃ち抜かれ、再び言葉を失ってしまった。こんな無防備な朝のタイミングで、そんな殺し文句みたいなセリフを不意打ちで言うなんて、本当にこの子は計算高いのか天然なのかわからないけれどズルいと思う。顔が熱くなるのを感じて、俺はまともに彼女の顔を見られなくなってしまった。
動揺を悟られまいと、俺は少しだけ視線を明後日の方向へと逸らしながら、冷めかけていた自分のカップのコーヒーを静かに啜った。舌の上に広がるブラック特有の深い苦味が、火照った頭を少しだけ冷ましてくれる。
苦い。
でも、彼女の温もりが残る胸の奥深くへと染み渡るその一杯は、今日の大きな試練を前にした俺の心を、妙に静かに落ち着かせてくれる優しい味だった。