軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

理性ある"魔物"

蚊の鳴くような、今にも消え入りそうな細い響きが、静寂に包まれた店内に染み渡っていく。

しかし、その掠れた響きには、無視できないほどの重みがあった。

「勇者様は、とても優しい方なのです……」

彼女の口から最初の単語が放たれた刹那、室内の空気が物理的な重圧を伴って一変した。

「……優しい?」

思わず聞き返していた。彼女の口から飛び出した意外な単語に、俺は自分の耳を疑わざるを得なかった。

信じがたい言葉を前にして、思考が一瞬だけフリーズする。

暖炉の火がぱちり、と小さく爆ぜる。薪の爆ぜる微かな音が、静まり返った室内に奇妙なほど鮮明に響き渡る。赤黒い火花が虚空に舞い、すぐに闇へと溶けて消えた。

その音がやけに大きく聞こえるほど、バーの個室は静まり返っていた。

エルーサは俯いたまま、小さな両手をぎゅっと握っている。彼女は視線を床に落としたまま、膝の上できつく拳を作っていた。指先が白くなるほどの強い力が、彼女の心の葛藤を物語っている。

その姿を見ながら、俺はどうしても違和感を拭えなかった。目の前で怯える少女の態度と、その言葉の内容がどうしても頭の中で結びつかない。胸の奥に生じた奇妙なズレが、じわじわと不快感を広げていく。

ーー優しい?

あの冷酷極まりない男を指して、そんな温和な言葉が使われるなど到底信じられなかった。

脳裏に浮かぶのは、ただただ冷徹に他者を切り捨てる姿だけだ。

俺の知るエルーサの記憶とはあまりにもかけ離れており、疑問符だけが虚空に浮かぶ。

俺の見た記憶の中の勇者。

あいつは冷たかった。相手の言葉に耳を傾ける度量など微塵もなく、その眼差しは凍てつく氷のように冷徹だった。命を命とも思わぬその振る舞いは、恐怖を通り越して不気味ですらあった。

人間至上主義者、人間以外の存在をすべて悪と断じる、歪んだ選民思想が彼を支配しているように思えた。

それ以外の命は、ただ排除されるべきノイズに過ぎないという傲慢さだ。

ほぼ人間と見た目の変わらないエルーサにさえ、“魔物”と言い切った男。

エルーサが人間と違うと言えば、その少し尖った耳と、小さく少し丸い身体だけだろう。耳はエルフより人間的で、獣人よりは人。身体に関しては人間にもいる範疇の特徴だ。

それなのにあの時、話を聞こうともしなかった。

対話の可能性を最初から放棄し、彼女が何を訴えようともその耳を貸すことはなかった。問答無用で刃を向けるその姿には、一切の迷いが見当たらなかった。

自分たちの世界とそれ以外を、明確な線引きをもって隔絶してしまったのだ。

彼女の存在そのものを不要と断じ切り捨てた。

おそらくエルーサやベルナデッタの出自が関係しているのかもしれないが……。

一抹の容赦もなくその未来を刈り取っていった。彼女たちの歩んできた歴史さえも、一瞬の判断で無に帰したのだ。

どれほど好意的に解釈しようとも、あの残虐な行為のどこに優しさが潜んでいるというのか。

勇者による理不尽な蹂躙を目撃した俺には、到底納得のできない話だった。

そう思ってしまう。自分の胸に渦巻く強い拒絶感を、俺は押さえつけることができずにいた。彼女の言葉を受け入れるには、俺が見た記憶の傷痕が深すぎる。

「……魔物と人間は、昔から相入れず」

声が弱い。消え入りそうなほどに細い響きは、今にも夜の静寂に溶けてしまいそうだった。

「争いも少なくありませんでした……」

エルーサがぽつぽつと語り始める。

重い鎖を解きほぐすように、彼女は自らの過去を少しずつ言葉に変えていく。静まり返った室内に、彼女の記憶の破片が一つずつ落とされていった。

暖炉の火が、その横顔を淡く照らしていた。

「その日も、争いがありました」

ネネは真剣な眼差しで少女を見つめていた。

普段の賑やかさを完全に封印したトップ配信者は、頭上の獣耳さえも微動だにせず、その言葉の一言一言に集中している。

隣に座る相棒もまた、驚きと戸惑いの入り混じった表情のまま微動だにしない。彼女の純粋な瞳が、語られる歴史の重みを受け止めていた。

俺も、言葉を挟まなかった。彼女の語る言葉の先にある真実を見極めるため、俺はただ沈黙を守り続けた。不用意な一言で、その貴重な証言を遮りたくはなかったのだ。

「私達オークには、理性あるオークと……そうでないオーク……そのどちらも、存在するのが事実です」

その瞬間、彼女の言葉がトリガーとなり、俺の意識は瞬時にあの血臭漂う戦場へと引き戻された。網膜の裏側に、かつて剣を交えた者たちの姿が鮮明に蘇る。

俺の脳裏へ『断崖の牙』……オークダンジョンで見たオークたちの姿が浮かぶ。

統率、連携、騎士や聖女。あれは確かに、“理性ある軍”だった。

その一方で、俺の記憶にはもう一つ、街道や森などで暴れている低級オークも思い出す。

何の統率もなく、ただ本能のままに周囲を蹂躙していた野良の怪物たち。

彼らの目に宿っていたのは、知性とは程遠い剥き出しの凶暴性だけだった。

「理性なきオークは、街や村を襲うことに躊躇いがなく、雄が生まれやすいという種族の性質、またその繁殖欲から人間の女性を攫い、数を増やしていました」

見際なく襲い、破壊し、欲望のまま動く存在。

エルーサは続ける。

俺の脳内の葛藤を察してか、彼女は遮ることなく次の事実を口にした。その声は、一族が背負ってきた過酷な宿命を淡々と告げている。

「そして……悲しいことに、理性あるオークは少数派でした」

小さな声だった。呟かれたその言葉は、あまりにも儚く、風が吹けば消えてしまいそうなほどだった。自らの血族の限界を認める、悲痛な響きがそこにはあった。

俺は言葉が詰まる。

「いくら訴えても、理性なきオークに言葉は届かず、人間には私達と彼らの区別がつかなかったみたいです。一部はなるべく争いをせず、という私の教義を守り、無抵抗に殺されたオーク達も……」

諦めたみたいな響き。

変えられない歴史に対する、深い絶望がその声の輪郭を形作っている。彼女はただ、冷酷な世界のルールに押し潰されてきたのだ。

「それに、なぜ私達の数が増えなかったのかというと、その……」

エルーサの頬が、少しだけ赤くなる。

純潔な聖女としての恥じらいなのか、彼女の白い肌が薄い紅潮に染まっていく。

「こ、こう……えっと、は…………は、繁……」

普段の毅然とした態度とのギャップに、室内の緊張がわずかに緩んだ。

「は……ん?」

俺が聞き返すと、視線が泳ぐ。気まずさを隠しきれないといった様子で、彼女の澄んだ瞳があちこちへと彷徨う。

言葉を選ぶように、彼女は何度も小さな唇を動かしていた。

「は、繁殖行為に……理性を求め、重きを、尊さを、教義を敷いていたのです」

「…………」

一瞬。時間が完全に凍りついたかのような、奇妙な静寂がその場を支配した。

誰もが言葉を失い、ただ目の前の少女の発言の真意を測りかねている。

ネネの耳がぴくっ、と動く。

情報の重要性を察知したのか、トップ配信者のアバターパーツが敏感に反応を示した。彼女の鋭い直感が、その言葉の裏にある重大な意味を捉えたのだ。

ミーナが「あっ」って顔をする。純真な彼女は、その言葉が持つ生物学的な、そして社会的な意味を瞬時に理解したようだった。驚きと納得が入り混じった複雑な表情を浮かべている。

俺も、俺自身の思考回路も、その想定外の告白を前にして一瞬だけフリーズしてしまった。

あまりにも現実的な生存戦略の話に、言葉を失う。

理解するまで数秒かかった。彼女の言わんとする本質的な意味が脳に到達するまでに、奇妙な空白の時間が存在した。パズルのピースが噛み合った瞬間、目から鱗が落ちるような衝撃を覚える。

「……そうか……」

彼女たちが選んだ生存戦略の全貌が、これでようやく一本の線となって繋がった。

それはあまりにも合理的で、同時に悲劇的な決断だったと言える。

理性があるからこそ。ただ本能に身を任せるのではなく、種族の未来を見据えて「愛」や「合意」を必要としたのだ。故に聖女、故に教義。

知性を持つがゆえの、苦悩がそこにはあった。

無闇に戦わない、群れを維持する、文化を守る、愛を持って子を残す。

その上で、生き延びる。そういう方向へ進化した、ということか。

対して。彼らとは異なる道を歩み、本能の奴隷となった同族たちの姿が対比として浮かび上がる。

知性を捨て、ただ破壊の衝動に身を任せた者たちの末路だ。

理性の薄いオークたちは。人間たちにとっての脅威となり、魔物というレッテルを決定づけた張本人たちのことだ。彼らの暴挙が、結果として一族全体の運命を狂わせた。

「だからと言うわけではありませんが、人間たちから見れば……数が多いオークは皆、恐ろしい魔物でした」

本能的。暴力的。破壊的。結果として、人間から見える“オーク像”の大半がそちらになった。

エルーサが俯いたまま呟く。自らの言葉がもたらす重みを理解しているからこそ、彼女の視線は頑なに上がらない。一族が背負う悪評の根深さを、彼女自身が誰よりも知っているのだ。

否定できない。人間側の視点に立てば、彼らを一括りにして排除しようとするのは当然の防衛本能だ。実際に流された血の量を見れば、その恐怖を責めることはできない。

実際、被害は出ていたのだろう。奪われた命や、灰に帰した営みの記憶は、決して捏造されたものではないはずだ。被害者たちの怨嗟の声が、歴史の裏側で今も渦巻いている。

攫われた人間。壊された村。その記憶もまた、本物だったはずだ。

だからといって、その事実だけを理由にすべての対話を拒絶して良いはずがない。その思考の放棄こそが、次なる悲劇を生む元凶なのだから。

だからって。一括りにされたレッテルによって、無辜の命までが奪われる不条理を、俺は容認できない。個々の意志を見ようともしない世界の在り方に、強い憤りを覚える。

全部を同じ“魔物”で括るのか。その安易な線引きが、どれほど多くの残酷な決断を正当化してきたことだろう。思考を止めた正義の危うさが、俺の胸を不快に逆撫でしていく。

その問いが、まだ俺の胸に残っていた。割り切れない感情が澱のように澱み、俺の心の中でくすぶり続けている。彼女たちの無念を晴らすための答えを、俺はまだ見つけられずにいた。

「勇者様はそんな私達の前に偶然ではありますが現れました」

すると、重苦しい沈黙を破るように再び彼女の小さな唇から新たな言葉が紡ぎ出された。その響きは、これまでの絶望とは異なる微かな色彩を帯びている。

エルーサが、小さく続けた。消え入りそうな足取りで、彼女は物語の核心である「あの男」との出会いへと話を勧めていく。その一歩が、すべての運命を狂わせる始まりだった。

「勇者様は……」

その言葉に、俺は少し身構える。次に出てくるであろう最刻の男の名前を前に、俺の全身の神経が自然と緊張に強張った。警戒を促す本能が、胸の奥で静かに警報を鳴らし始める。

「私を助けてくれました」

「……助けた?」

俺が聞き返す。耳を疑うようなそのフレーズに、俺の声は自然と不審の念を隠せないものになっていた。俺が見たあの男の姿からは、およそ逆の行動だったからだ。

暖炉の火が揺れる。薪が爆ぜる赤い光が、彼女の静かな瞳の奥に小さな揺らめきを映し出していた。室内の熱気が、彼女の語る過去の温度と同調していくかのようだ。

エルーサの目が、少しだけ遠くを見る。

「はい」

エルーサは頷く。俺の困惑をすべて受け止めるように、彼女は静かに、しかし確信を込めて首を縦に振った。その揺るぎない態度が、彼女にとっての真実であることを示している。

「理性のないオーク達に襲われていた人間の子供を、私が庇って」

そこで、一瞬呼吸が震える。当時の恐怖を思い出したのか、彼女の小さな胸が不規則に上下を繰り返した。息を詰まらせるようなその仕草が、その場の緊張感を一気に引き上げる。

「その時、勇者様が人間の村を襲うオーク達の討伐に来たのです」

ネネはプロの観察者としての鋭い目を少女に向けていた。

一言も聞き漏らすまいとする強い意志が伝わってくる。

「私は、その時、オーク達に愚かな行為をやめるよう説得に来ていました、そして襲われる人間の子を守ろうとしたのです。でも、人間から見れば……ハーフオークが子供を抱えているようにしか見えなかったのでしょう」

俺たちには人間とあまり変わりがなく見えるエルーサだが、確かに微妙な差異があり、女性のオークは珍しいがいないわけではない……。当然攫われた人間から繁殖をしたオークの中にも人間側の特徴を残す個体だっていたはずだ、エルーサやベルナデッタのように。

「そこにやってきた勇者様は、私を切ろうとしました」

静かな声。取り乱すこともなく、ただ淡々と過去の事実を告げる彼女の声は、かえって冷徹なまでの現実味を帯びていた。過去を受け入れた者だけの、透明な響きだ。

「でも……」

エルーサが、ほんの少し笑う。絶望の記憶の中で、その一瞬の救いだけが彼女の心を今も支えているのだろう。その微かな微笑みが、あまりにも儚く、そして美しかった。

「子供が、“違う”って……泣きながら言ってくれたんです」

「…………」

その情景が、頭へ浮かぶ。彼女の言葉をガイドにして、俺の脳内にその生々しい一幕が映画のワンシーンのように映し出された。鮮明な映像が、俺の意識を強引に過去へと引っ張っていく。

血、剣、泣いている子供。品定めをするようにエルーサを見下ろす勇者。

「人間もオークも誰もが応じてくれなかった私の話を……」

エルーサは小さく目を伏せた。愛おしい宝物を壊さないよう、彼女はそっとその長い睫毛を伏せて見せた。過去

の光をその瞳の奥に閉じ込めるような、静かな仕草だった。

「勇者様は、聞いてくれました」

暖炉の火が、静かに揺れていた。