作品タイトル不明
打ち上げの夜
不意の音に反応して、俺は無意識のうちに視線を前方へと巡らせた。
疲労で少し重くなっていた頭を持ち上げ、音の主を探す。
人混みの向こう側に、見慣れた親しみやすい姿が佇んでいた。
こちらの帰還を確信していたかのように、満面の笑みを浮かべている。
猫の特性を色濃く残した、非常に愛らしいデザインのアバターだった。
街の灯りを反射して、その毛並みが綺麗に輝いている。
頭頂部にある大きな耳が、周囲の音を拾うように小刻みに動いていた。感情の起伏を示すかのように、今は楽しげに直立している。
彼女の機嫌の良さを雄弁に物語るように、尾が左右へと小刻みに揺れていた。ステップを踏むような足元に合わせて、しなやかな軌跡を描く。
誰からも好かれるような、人当たりの良い笑みを浮かべた少女がそこにいた。
ーー俺たちのよく知るトップストリーマー、天神ネネが熱い視線を向け俺たちを見つめていた。
「わ〜! リエラちゃん、ミーナちゃーん♡」
手をぶんぶん振っている。
完全に待ってた感じだった。
「ネネさん?」
「いやぁ〜!」
ネネが楽しそうに駆け寄ってくる。
その勢いのまま、ぐいっと俺の手を取った。
「配信を外で見てたんだけどさぁ!? いきなりネームド湧いたじゃん!?」
「え、見てたの?」
「見てた見てた! レベル80レイド推奨って出た瞬間、“うわマジか”ってなって、慌てて準備してたんだけど〜」
そこで、ネネが肩を竦める。
「ネネがこっち来たら、戦闘終わっちゃってたんだよねぇ」
『wwwww』『間に合わなかったw』『リエラちゃんねる、攻略速度がおかしい』
まだ配信をつけっぱなしだったコメント欄も盛り上がる。
ネネは、そのまま少し照れたように笑った。
「っていうかさぁ……あたし気が気じゃなかったんだからね〜、普通、挑まないっしょ……」
言葉に合わせて、頭の上の獣耳が愛らしく前後に動いた。彼女特有の癖のような仕草が、その場の空気を自然と和ませていく。
「報酬とか要らないから、危ないことするときはネネにも声かけてよ〜!」
「え?」
「レベルだけは高いからさぁ、少しくらい役に立てると思うしぃ……」
その言葉が含んでいた感情は裏表もなく心配だけだった、友達が危ないことをするのをただ見ていることだけはできないそんな思いからログインしたそうだ。
「し、心配かけてごめんね? 次からそうするわ……」
「うん、絶対だよぉ〜?」
俺は思わず苦笑する。
配信勢でありながら、普通に攻略最前線クラス。
しかも対人も強い。それがネネと言うプレイヤーなのだ……その人が心配だから声かけてよ、だの、少しは役に立てるって言うの、下手したら捕食以上にバグってる。
「……ネネさんのレベル、配信見る限り120越えですよね? 少しどころの戦力じゃないと思うんですけど……」
ミーナが冷静に突っ込む。
「あはは、まぁ、それはそれってことで……」
彼女は鈴を転がすような明るい声を上げてみせた。周囲の喧騒を払拭するような、屈屈のない笑い声だった。
その空気感は柔らかい。
初対面の時から変わらない、相手の懐に自然と入り込んでくる独特のスタンスだった。パーソナルスペースを軽々と飛び越えてくる。
普通なら警戒してしまうような強引さであるものの、不思議と不快な感情は湧いてこない。彼女の持つ天性の人徳が、こちらの警戒心を綺麗に溶かしていた。
嫌な感じはしなかった。
これほど自然に他者と繋がれる彼女の在り方に、どこか羨ましさすら覚えるほどだった。彼女の周囲には、いつも温かな輪ができている。
この人、本当に“人付き合いが上手い”んだろうなと思う。
「あ、そうだ、ネネさん!」
「ん?」
「せっかく来ていただいたので、このあと時間あります?」
「あるよ〜?」
「私たち、配信後いつも路地裏のバーで打ち上げしてるんですけど」
ミーナがにこっと笑う。
「よかったら来ませんか?」
「あ、行きたーい!」
こちらの提案が終わるか終わらないかのうちに、快い返事が返ってきた。迷う素振りなど微塵も見せず、彼女は嬉しそうに胸を張る。
嬉しさを隠しきれないといった様子で、頭上のパーツが激しく上下に動いていた。そのコミカルな動きが、彼女の興奮度を如実に物語っている。
まるで放課後に友達と買い食いにでも行くような、気軽な空気感を纏っていた。トッププレイヤーとしての重圧など、微塵も感じさせない。
「いいの〜?」
「もちろんです!」
そんなやり取りを見ながら、俺は少しだけ考える。
元々、ミーナには記憶の事を話そうと思っていた。
ネネの飛び入りは、これからミーナと共有しようとしている話において、最適な触媒になる予感がした。客観的な視点を持つ彼女の存在は、大いに助けになるはずだ。
あの熾烈な戦いの果てに、俺がその手で終わらせた二人のネームド。彼女たちの散り際に見た光景が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
捕食スキルを通じて俺の精神へと直接流れ込んできた、あまりにも生々しい過去の断片。あの地獄のような体験を、ただのゲームの演出として片付けることはできなかった。
さらに俺の思考を深く沈み込ませる、もう一つの重大な事実が存在していた。単なるデータの掠奪に留まらない、不気味な現象が起きている。
戦いの最中からずっと、俺の理性の片隅に鋭い棘のように引っかかり続けている違和感があった。確認しなければならない、決定的な謎がそこにある。
戦闘中、ずっと頭の片隅へ引っかかってたこと。
俺の召喚に応じて、あの戦場に再び姿を現した名前付きのゴブリン、トビー。やけに人間臭いやつだった。ことここに関してあいつは俺に尚もヒントを残している。
かつて戦い、捕食したはずの存在を、なぜ今このタイミングで完全に再現できたのか。システムの枠組みを超えたその現象に、背筋が寒くなるのを覚えた。
【ゴブリンマスター】単に俺のスキルが、低級モンスターの召喚に特化しているからという理由なのだろうか。あいつがゴブリンだったから呼べたのだろうか、そんな単純な仕様だけで片付けるには、あまりにも違和感が大きすぎる。
どれほど合理的な理由を探そうとしても、直感がそれを強く否定していた。
目の前で起きた事象には、もっと別の、禍々しい意味が隠されている。
表面的なスキルの効果などではなく、世界の根幹に関わる不具合が働いているとしか思えない。
確信に近い予感が、胸の奥で静かに脈動していた。
ゲームのシステムという生ぬるいルールではなく、魂の領域にまで踏み込んだ超常的な力が作用している。
そんな恐るべき可能性が、脳裏をよぎった。
重要なのは、
“記憶と人格を持った存在を呼び戻している”感覚。
もしも俺の仮説が正しく、あの捕食が死者の魂をこの世界に繋ぎ止める行為なのだとしたら。
すべての前提がひっくり返ることになる。
あり得ないと笑い飛ばすべき空想が、現実味を帯びて俺の思考を支配し始める。ひとつの恐ろしい、しかし魅力的な考えが頭をもたげた。
あの戦場で無残に散っていった、哀れな聖女の魂さえも、この手で呼び戻すことができるのではないか。
その可能性に思い至った瞬間、ステータスウィンドウを開く右手が震えた。
俺たちは配信を終え、そのまま三人で路地裏のバーへ向かった。
レアルタ中心街から少し外れた、薄暗い石畳の通路。
湿った夜気。酒と煙草の匂い。NPCたちの笑い声。
薄暗い小路を突き当たった先に、目的の場所がひっそりと佇んでいた。周囲の喧騒から完全に隔絶された、隠れ家のような空間だ。
俺たちが配信の後に必ず立ち寄る、馴染みの深い店舗の入り口が見えてくる。見慣れた木製の看板が、夜風に揺れて静かに迎えてくれた。
木製の扉を開けると、暖炉の熱気がふわっと肌へ触れた。
「いらっしゃいませ」
多くを語らないNPC店員がバーの奥の席に案内する。
俺たちは奥の半個室席へ座り、そのままプライベートモードを起動した。
室内の安全を確保するため、システムメニューから厳重なプロテクトを設定した。これで許可のないプレイヤーがこの空間に立ち入ることはできなくなる。
誰の目も気にする必要のない、俺たちだけの秘匿された領域が完成した。重苦しい秘密を共有するには、これ以上ない舞台と言える。
すべての遮断が完了したことを確認し、全身の緊張がふっと解けるのを感じた。張り詰めていた空気が、密室の静寂へと溶けていく。
俺は静かに息を吐く。
ネネが机へ頬杖をつきながら、こちらを見た。
「……で?」
獣耳がぴこっと動く。
「なんか、ただの打ち上げって感じじゃないよねぇ?」
俺の些細な表情の変化から、ただならぬ気配を瞬時に察知してみせた。普段の軽いノリからは想像もつかない、鋭い洞察力だ。
数多くの人間と接し、観察し続けてきた経験が、彼女の直感を研ぎ澄ませているのだろう。誤魔化しが通用しない相手だと、改めて思い知らされる。
この異様な体験をそのまま口にして良いものか、理性が一瞬だけブレーキをかけた。荒唐無稽な話として、一蹴されるリスクが頭をよぎる。
隠し通せる段階はとうに過ぎており、彼女たちの協力を得るためにも全てを打ち明けるべきだと決意した。覚悟を決め、俺は言葉を紡ぐ準備を始める。
結局、正直に話すことにした。
「……あのネームド」
あの圧倒的な武勇で俺たちを追い詰めた、真紅の鎧を纏った誇り高き騎士。彼女の最期の咆哮が、今も耳の奥で生々しく残響している。
言葉を奪われ、世界の理不尽に泣きながら消えていった、泥濘の聖女。彼女の哀しい瞳が、俺の心の底に深い傷痕を残していた。
「私、捕食した時に記憶を見たの」
空気が静かになる。
ミーナが真剣な顔になる。
ネネも、笑みを引っ込めた。
「記憶?」
「うん」
彼女たちの視線を受け止めながら、俺は一切の嘘を排除して首を縦に振った。これから語る言葉が、すべて真実であると示すために。
ーー世界を救う英雄として称えられながら、その裏で悍ましい蹂躙を繰り返していた存在。
光の影に隠された、あまりにも冷酷な支配者の名前だ。
正義という免罪符を掲げ、他者の故郷を無慈悲に踏みにじっていった凄惨な歴史。美化された戦いの裏にある、剥き出しの強欲そのものと言える。
ただ排除すべき悪として定義され、声を聞くことさえ拒絶された悲しき存在たち。彼らの流した血が、あの戦場を真っ赤に染めていた。
互いを理解するための言葉さえも、刃によって無残に切り裂かれた絶望的な拒絶の瞬間。対話の可能性が潰された、あの冷徹なやり取りのことだ。
どれほど理想を掲げても、力なき者はただ消費されるだけという世界の残酷な構造。抗う術を持たない弱者に押し付けられた、絶対的な不条理だーー
全部を話した。
物語の結末を締めくくる、最も重要な結論へと俺の思考は至っていた。これまでの事実をすべて繋ぎ合わせた、その先にある可能性を提示する。
「……それで」
俺は、小さく息を吸う。
「たぶん、行ける気がするのよね」
「……?」
ミーナとネネが首を傾げる。
俺は、静かに手を前へ出した。
自分の足元から染み出すようにして、不気味な暗黒の領域が床一面に広がっていった。光を吸い込むようなその黒は、異界への門のようだった。
禍々しい文様が複雑に絡み合い、怪しい光を放ちながら回転を始める。空間を歪めるほどの魔力が、その中心へと集束していくのが分かった。
「《コールゴブリン》」
すべての術式が完成し、俺の意志が深淵の底へと直接届けられた。世界の法則を強引に書き換える、最後の一言を紡ぎ出す。
「……《聖女エルーサ》」
空気が、ぴたりと止まった。
物質的な質量を持った暗黒がうねりを上げ、ゆっくりと上方へとせり上がってきた。まるで底なしの沼から、何かが這い出してくるかのようだ。
空間の抵抗を押し切るように、極めて慎ましい足取りでその存在は姿を現し始める。時の流れが引き延ばされたかのような、奇妙な錯覚を覚えた。
小さな身体が現れる。
戦火に晒され、泥濘に薄汚れた修道服、かつての悲劇を再現していた。引き裂かれた裾が、彼女の過酷な運命を物語っている。
恐怖なのか、それとも行き場のない悲しみなのか、その小さな肢体は小刻みに波打っていた。今にも崩れ落ちそうなほどの脆さが、見る者の胸を締め付ける。
白皙の頬には、乾ききらない雫の光が一筋の線となって残されていた。言葉を奪われた彼女が流した、最期の抗議の証がそこにある。
俺がその手で終わらせ、確かにこの世界から消滅させたはずの聖女が、今、目の前に立っていた。奇跡という言葉では片付けられない、不条理な現実がそこにある。
「うわ、うわわわわ!?」
ネネが素で引いていた、耳が完全に逆立ってる。
ミーナも目を見開いている。
「えっ、えっ!? ゴブリンじゃないですけど!? エルーサを召喚!?」
周囲の混乱をよそに、俺の意識は目の前に具現化した奇跡の存在へと完全に集中していた。他人の反応を気にしている余裕など、今の俺には微塵もない。
俺はエルーサを見る。
エルーサは俯いたままだった。
大人の胸元にも届かないほどの小柄な体躯は、あまりにも無防備で頼りなく見えた。戦場という過酷な舞台には、およそ似つかわしくない。
俺はゆっくりその頭を撫でる。
「リエラ……さま……?」
ごめんね……怖かったよね。
少し強く触れれば、そのまま光の粒子となって霧散してしまいそうな危うさを孕んでいた。この世界に取り残された、一縷の祈りのような存在だ。
あまりにも、戦場の聖女そのままだった。
「……ねぇ、エルーサ」
俺はできるだけ静かに声を掛ける。
「辛いかもしれないけど」
エルーサの肩が、びくっ、と震える。
「勇者について、話を聞かせて……?」
暖炉の薪が爆ぜる音さえも遠のき、部屋全体が深い静寂の底へと沈み込んでいく。誰もが息を呑み、次に何が起きるのかを固唾を呑んで見守っていた。
暖炉の音だけが響く。
エルーサは震えていた。
忌まわしい過去の記憶を呼び起こされることは、彼女の魂にとって耐え難い苦痛に違いない。拒絶を示すかのように、彼女の身体が微かに強張る。
その瞳の奥には、底知れぬ怯えの色が宿っていた。
どれほど彼女が拒もうとも、過酷な現実がその自由を冷酷に縛り付けていた。略奪者である俺と彼女の間には、絶対的な上下関係が存在している。
俺の命令には逆らえない。
召喚された存在として。
凝固した空気を切り裂くように、彼女の唇が微かな震えを伴いながら動き始めた。重い鎖を引きずるかのような、痛々しいまでの遅さだった。
本当にゆっくり。
言葉の一つひとつを、血を吐き出すような覚悟で紡ぎ出していく。静まり返った室内で、その微小な変化を俺たちは全神経を集中させて見つめていた。
エルーサが口を開いた。
「勇者様は……」
蚊の鳴くような、今にも消え入りそうな細い響きが、静寂に包まれた店内に染み渡っていく。
しかし、その掠れた響きには、無視できないほどの重みがあった。