軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

祈りと熱望

ヒーラーは常に戦場の全てを視界へ入れる。

戦局を変えうる病巣をトリアージしながら、どこの何を優先すべきかを考えなければならない。とはいえ、あらゆる事象を同時に把握するのは、神業に近い領域と言える。

エルーサにそんな神業は可能かと言えば、ほぼ不可能だ。

彼女の認識能力には、どうしても回避できない限界が存在する。

混戦ともなれば、その難易度は跳ね上がる。到底一人で管理できる範疇ではない。

味方が多ければ多いほど。把握すべきステータスは幾何級数的に膨れ上がっていく。

守るべき対象が増えれば増えるほど。守護者の重圧は増し、一瞬の隙も許されなくなる。

視線は裂かれる。あちこちで上がる悲鳴に、どうしても意識を分散させられてしまう。

判断は遅れる。情報の飽和は、確実な一手を選ぶための思考を鈍らせる。

重なるノイズが臨界点を超えた時、致命的な隙が生まれる。その一瞬の空白こそが勝敗を分かつ。

ほんの一瞬の迷いが、“穴”になる。どれほど強固な陣形も、内側から崩れるのは一瞬だ。

今のエルーサがまさにそうだった。彼女の献身的な祈りは、過密なタスクに押し潰されようとしている。

炎、仲間の悲鳴、這い出るゴブリン、傷つくオーク。騎士への投擲。誘惑やその他の状態異常。

あらゆる要素が渾然一体となり、戦場を地獄絵図へと変えていた。

戦場の至るところで“助けを必要とする味方”が生まれ続けている。聖女は慈悲の心ゆえに、その全てを救おうと躍起になっていた。

こちらのゴブリンは違う。彼らにとって死は消滅ではなく、ただの再配置に過ぎない。

やられても、吹き飛ばされても、燃やされても、何度でもその身を盾にして立ち上がる。

死は単に再配置でしかない。《コールゴブリン》でまた出てくる。影から這い出すその姿は、まるで終わりのない悪夢そのものだった。

もちろんMPは使う、無限ではない。

けれども、妙に硬いゴブリンは節約の塊だ。

今この瞬間にリソースが尽きるような事態にはならない。

オーク軍“有限であること”、ゴブリン軍“枯渇すること”は別問題だ。

ネームドのトビーが連続で落とされるようなことがない限りはまだ余裕がある。

故にゴブリンたちは、“死んでもいい動き”ができる。保身を捨てた捨て身の特攻は、正攻法の騎士道を容易く蹂躙する。

恐怖を知らぬ軍勢ほど、戦場において厄介な存在はない。

「ギィィィッ!!」

一体のゴブリンが、ベルナデッタの脚へ飛びつく。

右脚、古傷側。そこを徹底的に狙う、ブンッとベルナデッタの剣が振るわれる。

ゴシャッ!!

ゴブリンが吹き飛ぶ。

一体の犠牲程度で嫌がらせが終わるなどと思ったら大間違いだ。むしろここからが、トビーと俺の「本業」の始まりと言ってもいい。

次々と犠牲を惜しまぬ新たな影が、絶え間なく獲物へと襲いかかる。

また別の一体、一体を退けたところで、その倍の数が闇から牙を剥く。

さらに別の一体、終わりの見えぬ波状攻撃が、誇り高き騎士の精神を確実に削り取っていった。

死角、意識の外、鎧の隙間、古傷、嫌らしく執拗にまとわりつく。

最早これこそが、敵を絶望へ誘うための冷徹な儀式と言えた。

『うわぁ』『ゴブリン軍団きっしょい』『理にかなってる』『リエラ様、敵側思考が強すぎるだろ……』

混乱をあざ笑うかのように、俺は赤く染まった戦場のど真ん中を堂々と突き進む。悲鳴と怒号が入り混じる地獄絵図の中にこそ、今の俺には最高の居場所があった。

《ファイアーウォール》

俺は、その中央を歩いていた、ミーナの炎が戦場を赤く染めている。

サウナ、高温のサウナくらいの温度。オークたちが絶叫する炎もVRのセービング機能と今の俺のステータスにとっては心地よいサウナそのものだ。

1、1、2、0、0、1、1、断続的に入るミーナの炎ダメージが苦にならない程度には俺のVITは常識を置き去りにしていた。

俺は平然と、その中を歩く。業火に焼かれることなど、既に日常の風景に過ぎない。

《誘惑》

クールタイムが終わるごとに誘惑でヘイトを集める。

炎がシスター服の裾を舐める。揺らめく火の粉が、白と黒の対比を鮮やかに際立たせていた。熱風が髪を揺らす。熱気を含んだ旋風が、プラチナブロンドの長い髪を激しく踊らせていた。プラチナブロンドが赤く照らされ、尻尾の影が断崖へ長く伸びる。

その地獄の最奥、俺の視界が一点へと収束する。

そこには必死に運命へ抗う一人の少女がいた。

「どうしたの? 聖女様、少しずつ仲間が削れているわよ」

その炎の向こう側で、燃え盛る火の壁に遮られた向こう側には、まだ救いを求める者が残されている。

エルーサが、忙しなく祈りを飛ばしていた。彼女の清らかな声は、戦場の喧騒にかき消されそうになりながらも響き渡る。

「傷ついた者へ癒やしを……」右、回復。左、状態異常解除。前衛、誘惑、火傷、回復。槍兵、毒。炎に身を武装したゴブリンが纏わりつき、悲鳴。

あらゆる異常が一度に発生し、彼女の処理能力は臨界をとうに超えている。

――忙しい。

彼女の処理能力は、とっくに限界を突破していた。

もはや目の前の事象を追うのが精一杯で、周囲の状況を把握する余裕など微塵もない。

処理が追いついていない。

救済の光が追いつかぬほどの早さで、俺とミーナは敵の陣形を内側から腐らせていく。

一秒一秒、聖女の精神が摩耗していくのが、その震えから見て取れた。

崩壊の足音が、静かに近づいてくる。俺は確信を持って、最後の一手を指す準備を整えた。

来た……全てのパズルのピースが、あるべき場所へとカチリと嵌まった感覚がある。

この角度、ベルナデッタの位置、エルーサの視線。

炎の揺らぎ、全部が噛み合う。

俺は、小さく口元を吊り上げた。

勝利の予感が、冷たい確信となって全身を駆け巡る。

「……念には念を入れましょうか」

トビーに向かって手に持ったメイスをーー投げつける。

ビュンッッ! ゴッッ、投擲の補正が乗った棘メイスがトビーの頬を掠る。

「うを、あっぶね……あぁ、合図ですかい……へへっ、了解でさぁ……!」

まぁ、当たってもVIT高くなってるだろうし痛い程度だろう。

合図と知るなり、トビーがにやりと笑った。

その刹那、次の瞬間ーー

真紅の騎士ベルナデッタへ向かって。

――クソ変な顔をした。

『!?』『やめろwww』

さらに、バンバンッ!!

自分の尻を叩く、続けざまに、地面へ寝転がる。

脚をばたばた、両足をパンパン、完全にベルナデッタを煽り散らかし始めた。

「うわ、そこまでやれなんて言ってない……」

俺ですら引いた。

しかし、そのあまりの不愉快さが盤面をひっくり返す決定打となったのも事実だ。

騎士としての誇りを正面から踏みにじるような卑俗な動きに、ついに敵の理性が決壊する。

効果は、絶大だった。

ベルナデッタのこめかみが、ぴくりと動く。

抑えきれぬ怒りが、端正な顔立ちをわずかに歪ませていた。

赤い瞳が、ついに……彼女の冷静さは、卑劣な挑発の前に無惨にも崩れ去った。

これまでの嫌がらせの数々、その蓄積ととどめの挑発に完全にキレた。

ベルナデッタの視線には、目の前の醜悪なゴブリンを屠るという殺意しか宿っていない。

エルーサから外れた、守るべき対象から目を離した瞬間、彼女の敗北は決定したのだ。

――今、俺の身体が、反射的に動く、正確に、確実に当てるため、左手を胸の下に、半身になり、右手に魔ダーツを2本握る。

《連射》《速射姿勢》《不意打ちの極意》《状態異常強化》

考えうるパッシブがすべて体の中で絡み合う。

ヒュンッ!

一射、さらに。

ヒュンッ!!

二射。麻痺ダーツ。

炎の揺らぎへ紛れ。

ベルナデッタの死角を抜け。

ちょうど、前線オークへ癒やしを掛けようとしていたエルーサの胸元へ突き刺さった。

「あ――」

一瞬、時間が止まる、次の瞬間。

紫電、バチバチバチッ!!

エルーサの身体が跳ねる、杖が落ちる。

小さな身体が、びくん、と震えた。

「かっ……!?」

状態異常強化込み、不意打ち補正も乗った麻痺。

聖女の身体から自由が奪われる。

救済の要を奪い去った瞬間、俺たちの勝利へのカウントダウンが静かに、しかし確実に始まった。

光を失った戦場に、俺の邪悪な笑みが溶け込んでいく。

『うおぉぉぉぉ!?!?』『ついに入ったぞ!!!』『聖女に麻痺が通った!?』『聖女止まった!!』

コメント欄が爆発する。画面の向こう側の狂騒が、物理的な熱量となって伝わってくるかのようだ。

それに呼応するように。俺の目の前には、未だ闘志を失わぬ一人の騎士が立ち塞がっていた。

ベルナデッタがゆっくりとこちらを向いた。

その静かな動きの中にこそ、底知れぬ怒りが凝縮されている。

その顔、普段の美しさは影を潜め、剥き出しの殺意だけがそこに刻まれていた。

怒り、殺意、向けられた視線は、もはや言葉を介さぬ明確な暴力となって肌を刺す。

完全に“守るべきものを傷つけられた騎士”の顔だった。

彼女の誇りは、今や復讐心という名の炎に変わっている。

「貴ィィィィ様ァァァァァッ!!」

轟音みたいな怒号、次の瞬間。

ベルナデッタが突っ込んでくる、炎のダメージなどお構いなしだ。

速い、大剣が、真紅の軌跡を描く。

逃れ得ぬ死神の刃が目前に迫るが、俺の胸に去来するのは恐怖ではなく、冷徹な勝利への確信だ。

この一撃を受け止めきることこそが、俺というタンクの存在意義そのものなのだから。

しかし、そんな絶望的な咆哮を前にしても、俺の心は驚くほどに凪いでいた。

この美しき騎士の全力を真正面から受け止める準備は、とっくに整っている。

俺は笑っていた。極限の状況において、俺の口角は自然と吊り上がる。

なぜなら、もう全てを理解しているからだ。この勝負、結末は既に決まっている。

あなたは強い。でも、その足をかばった結果、トビーの嫌がらせを見逃した、その小さなほころびが今のこの広域の地獄絵図を生み出した。

それに、どんな一撃が強くても、俺の不条理なまでの防御力を前にしては何度か攻撃する必要がある。

無常な現実を告げる。どれほど磨かれた技も、届かなければ意味をなさない。

「回復のないあなたじゃ――時間稼ぎにもならないかもね?」

俺は両腕を広げる。

一切の防御を捨てたその構えこそが、最大級の挑発だった。

炎の中、ゴブリンたちが笑う。尻尾の影が長く不吉にゆらゆらと揺れる。

地獄のような風景の中で、俺たちの凱歌が静かに鳴り響く。

ベルナデッタの大剣が、俺の身体へ叩き込まれた。

ゴォンッッ!!衝撃で周囲の石が浮く、足元が蜘蛛の巣状にひび割れ、視界が震える。

全身を揺らすような激しい衝撃が全身を駆け巡るが、俺の脚は一歩も後ろへは下がらない。

むしろ、その圧倒的な重みが、自分が今「リエラ」として生きている実感を強く刻みつける。

そんな破滅的な一撃を喰らってもなお、俺のHPバーは微動だにしなかった。

レベル80のネームドの前衛、その圧倒的な差をもってしても、一ミリも、あ、いやなんならミーナの炎のほうがHPにダメージを与え続けている。

騎士が絶望に染まっていくのを、俺は至近距離で冷ややかに見つめていた。止まらない、俺の歩みは、何者にも阻むことはできない。

俺は悠然と立っている。嵐が去った後の大樹のように、揺るぎない確信と共に。

「ざぁんねん、次はこちらの番かしら、ね♪」

ベルナデッタの瞳が初めて揺れた。

その奥底に底知れぬ絶望の色が滲み始めている。