軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

VS嘆きの石窟

岩を削り出したような巨大な扉の前には、薄い水が絶えず流れ続けていて、靴底の半分ほどが冷たい水に沈むたびに、びちゃり、びちゃりと湿った音が洞窟の壁へ低く反響していく。

三層へ降りてからずっと続いている重苦しい空気は、この扉の前でさらに濃度を増しており、湿った石と苔の匂いの奥に、どこか海辺を思わせる塩気と、古い金属のような匂いまで混じっていた。

「ここから先はパーティ限定エリアですね」

ミーナが扉に浮かび上がったシステム表示を確認しながら静かに言い、左手のグローブを軽く握り直すと、そこに描かれた魔法陣が水面の青白い光を受けて、ほんの一瞬だけ不思議な存在感を放った。

後ろについてきてくれていた配信者たちは、その表示を見て少し残念そうにしながらも、すぐにそれぞれの配信ポットやウィンドウを操作し始める。

ここまで彼らはガードマンであり、拡散役であり、観客でもあったため、この先に直接入れないことを惜しみながらも、役割を切り替える判断は早かった。

「ここからは私たちの配信ポットの映像をミラーしてください。ボス部屋の中はこちらで撮ります」

ミーナが落ち着いた声でそう伝えると、周囲の配信者たちは頷きながら、まるでイベントスタッフのように手早く準備を進めていく。数人が「頑張ってください」「リエラ様、見てます」「ミーナさんも気をつけて」と声をかけてくるので、俺は少しだけ胸を張り、湿気で重くなったブロンドの髪を払う仕草でそれに応えた。

「ふふん、見てなさい。退屈させないって言ったでしょう?」

そう言うと、コメント欄はまた加速したが、俺はその流れを横目で追いながらも、今は別のウィンドウを確認していた。

ミーナのレベル……42になっていた。

「……レベル42?」

このダンジョンに入った時、ミーナはレベル35だったはずなので、道中の戦闘と、ファイアリザードや三層のモンスター処理を経て、7も上がっていることになる。いくら配信映え重視で派手に戦っていたとはいえ、彼女自身が選んだ詠唱速度特化のビルドと新装備の噛み合い方が、俺の想像を軽く超えていたのは間違いなかった。

対する俺は、レベル49。

捕食による成長と吸収ログは相変わらず自分にしか見えていないし、視聴者には数値の細部までは伝わっていないが、俺の中では確実に身体の奥の密度が増している感覚があった。手足の動きが以前より滑らかになり、尻尾の反応も鋭くなっていて、水に浸かった足元の感触すら、前より細かく感じ取れる気がする。

ミーナはスキルウィンドウを少しだけ開き、俺にだけ見える位置で新しいスキルを選んだ。

ミーナ Lv42

HP:348

MP:612

STR:20

VIT:31

INT:147

AGI:34

DEX:24

(基礎魔法学+15%込み実数値)

「中級ツリーのフレアランス、取りきっちゃいます。単体火力が必要そうなので」

「ボス戦向きね」

「はい。今の私だと、継続火力は出せますけど、硬い相手に一気に差し込む手段も欲しいので」

その判断は、かなり理にかなっていた。

俺は一瞬、自分のスキルツリーも開こうとして、すぐにやめる。ここで配信ポットにスキルツリーを見せるわけにはいかない。捕食、誘惑、吸収の詳細、パラメーターの伸び方、そのあたりはまだ秘匿しておきたい。

視聴者に見せた瞬間、考察勢が地獄みたいな速度で解析を始める未来が見える。怖い。掲示板の民は強い。

「私は……」

リエラ Lv49

HP:1931

MP:221

STR:53

VIT:589

AGI:228

DEX:62

INT:29

(体捌き補正込み)

思ったよりは伸びなかった。いや十分伸びすぎなんだけど、捕食による効率は単に吸収効率を上げただけで胃袋の容量が増えたわけではない。これからも引き続き新しいエリアで雑魚を乱獲し続けるのは確定した。

それにしても体術、棍棒術はSTR依存、投擲はDEX依存だから関節技以外の火力が限られ過ぎててなんだか寂しい。

「保留にするわ」

「わかりました」

ミーナは深く追及せず、ただ静かに頷いてくれたので、俺はその気遣いに少しだけ安心しつつ、準備の終わった配信者たちへ向き直った。

「ここまでついてきてくれてありがとう。ここから先は、私たちだけで行くわ」

その言葉に、少しだけ空気が変わった。からかい半分だった視線や興奮混じりの声が、ほんのわずかに真剣なものへ変わる。彼らも、ここからが本番だと分かっているのだ。

「リエラ様、勝ってください!」

「ミーナさん、火力期待してます!」

「ボス部屋の映像、こっちでも流します!」

それぞれの声を背に受けながら、俺とミーナは扉の前へ立った。

巨大な扉に手を触れると、冷たい石の感触が掌に伝わり、その奥でシステムが反応するように淡い光が走った。水音が一瞬だけ遠くなり、扉の向こうから、低い鼓動のような振動が足裏へ伝わってくる。

「行くわよ、ミーナ」

「はい、リエラ様」

その声を合図に、扉が重々しく開いた。

期待していなかったと言えば、嘘になる。

ここまで甲殻類モンスターが豊富で、デカエビ、デカカニまで出てきたダンジョンなのだから、ボスに何が出るかを想像しない方が無理だった。むしろ、ここまで頑張った自分へのご褒美として、最後にとんでもないものが待っているのではないかと、俺の尻尾も内心もかなり期待していた。

そして、扉の奥に広がっていたのは、巨大な水没空洞だった。

天井は高く、岩壁には青白く光る苔が帯のように走り、床一面には膝下ほどの浅い水が広がっている。水面には淡い光がゆらゆらと反射し、足を踏み入れるたびに波紋が広がり、遠くで水が滴る音が幾重にも反響していた。空気は冷たく湿っていて、塩気と金属臭と、甲殻類特有の生っぽい匂いが混ざっている。

その中央に、いた、あまりに、あまりに巨大な蟹が。

「かァァにィィィッッッ♡♡♡」

今日イチの美声だったと思う。

今日イチの甘えた声だったとも思う。

配信ポットが完璧な角度で俺の表情を抜いていたことに、少し遅れて気づいた。俺は目を輝かせ、両手を胸の前で組み、完全にご馳走を前にした悪魔シスターになっていた。

目の前のボスは、ただ大きいだけの蟹ではなかった。

甲羅は洞窟の岩盤そのものを背負っているようにごつごつとしていて、表面には青白い苔と鋭い水晶のような突起が点在している。巨大なハサミは左右で形が違い、片方は盾のように分厚く、もう片方は槍のように長く鋭い。さらに、脚が多い。蟹なのに、数えたくないくらい脚がある。ぱっと見ただけで二十本近くあり、一本一本が岩柱のように太く、水面を踏みしめるたびに重い波が広がった。

表示名が浮かび上がる。

《嘆きの石窟》

ダンジョンの名を冠したボス。

コメント欄が爆発する。

《出たああああ》《嘆きの石窟ボス!》

《こいつめちゃくちゃ硬いやつ》《何度挑戦して苦戦したことか》

《名ボスだぞ》《リエラ様、すでに食材扱いしてない?》《蟹にだけ声が甘すぎる》

どうやら相当な強さらしい。

硬いくて味が染みてて長期戦、出汁が良くて……美味しいダンジョンの名前そのままの名ボス。

「その名前に相応しいか、確かめさせてもらうんだから」

俺は水を蹴って前へ出た。

やること、やれることはいつもと一緒だ。

タゲを取る。関節を狙う。

ミーナが焼く。俺が食べる。

……のはずだったのだが。

「あれ、関節多くない?」

目の前の巨大蟹を見上げながら、思わず素の疑問が漏れる。

蟹なのに、足が多すぎる。二十本近い脚が水面から突き出し、複雑に配置されているため、どこから手をつければいいか一瞬迷う。しかもハサミは巨大すぎて、組み付くには距離感がおかしい。

その迷いを見透かしたように、ボスが動いた。

巨大なハサミが持ち上がる。

空気が押し潰されるような圧が来る。

「っ!」

次の瞬間、ハサミが叩きつけられた。

ドッバシャーーン!!

俺は回避ではなく、真正面から身体で受け止める選択をした。水面が爆ぜ、衝撃が身体を通り抜け、胸元から腹へ、脚へと重い振動が伝わる。痛みはない。ダメージ表示もゼロに近い。だが、物理的な質量の差だけはどうにもならない。

「うわっ――!」

俺の身体が吹き飛んだ。

水面を跳ねるように転がり、浅い水を盛大に跳ね上げながら数メートル後方へ滑っていく。ダメージはゼロ。ダメージはゼロなのだが、絵面が完全に蟹に弾き飛ばされた小動物である。

コメント欄が荒れる。

《吹っ飛んだ!!》《あの吹き飛び方でダメージ出てないの!?》《ぽよんぽよよんした》《さすがに質量負けしてる》

「なるほど……いきなりハサミには組み付けない、と」

俺は水から立ち上がり、濡れたシスター服の裾を軽く払う仕草をしながら、視界の端でミーナの位置を捉えた。

まずは状態異常。

俺は魔ダーツを二本、指の間に挟む。

麻痺。毒。

ヒュン、ヒュン。

手首を払うと水面を切るようにダーツが飛び、巨大蟹の甲羅へ当たった。

カン!コン!

硬い音がした。

ダメージが入らない。

「やばっ」

ダメージが入らないと、状態異常も入らない。

トビートミーの時に感じた仕様を、ここで思い出す。状態異常はヒットして初めて乗る。甲羅に弾かれている限り、麻痺も毒も意味がない。

ならば、甲羅ではない場所へ行けばいい。

俺は水を蹴って走った。最短で脚へ向かう。

巨大蟹の多脚の一本、その付け根へ向けて体を滑り込ませる。水の抵抗が足に絡み、湿った空気が肌を撫でるが、体捌きがそれを補正してくれる。脚が振り下ろされる瞬間、俺はその内側へ潜り込み、ニュルリと絡みついた。

「とりあえず、一本!」

支点を取り体重をグンッとかける。

力の向きをずらすと蟹の脚が、ぎしりと軋んだ。

へし折る、と言っても、実際にはシステム上の部位破壊に近い。だが手応えは確かにあった。脚一本の動きが止まり、巨大蟹の身体がわずかに傾く。

その瞬間、ヘイトがこちらを向いた。

俺は水面に片足をつき、両手を広げて微笑む。

「釘付けにしてあげる、ーーテンプテーション」

ピンク色のエフェクトが、水気を含んだ空気にふわりと溶けるように広がった。花の蜜を思わせる甘い気配が、塩気と甲殻類の匂いが混じったボス部屋の空気を一瞬だけ塗り替え、水面に映ったハートの光が細かく揺れる。

巨大蟹の複数の目が、ぎゅん、とこちらを向いた。

よしよし。

「ミーナ!」

「はい!」

ミーナは即座に動いた。

「インフェルノリング!」

巨大蟹の足元に赤金の円環が浮かび上がり、炎が水面を割るように噴き上がる。続けて、ミーナは杖を振り、ファイアーウォールを重ねた。炎が壁となってボスの脚周りを焼くが、嘆きの石窟の甲羅と水場のせいか、スリップダメージは思ったより薄い。

火耐性が高い。

だが、ミーナにはまだ切り札がある。

パチン。

指を鳴らす音が、水音と炎音の中で妙に澄んで響いた。

「フレア・オーバーライド!」

ミーナの背中から炎のオーラが噴き上がる。

深紅の儀礼服が光を受け、左手の魔法陣が赤く輝く。空気が一瞬だけ乾き、次の魔法の輪郭が濃くなった。

「フレアランス!」

新たに取得した中級魔法が放たれる。

それは火球ではなく、槍だった。

ブンッとも、ゴォともつかない音をまといながら、赤い火槍が一直線に飛び、巨大蟹の甲羅の隙間へ突き刺さる。耐性を貫いた炎が内部へ走り、HPバーが目に見えて削れた。

「効いてる!」

俺が叫ぶ間にも、ミーナの追撃が始まる。

ほとんど詠唱のないファイアーボールとファイアーアローが連続して浴びせられ、二重詠唱が発動したのか、時折火球が重なるように二発同時に飛んでいく。炎の弾幕は美しく、そして洒落にならないほど速かった。

やばい。

ヘイトが、めちゃくちゃミーナを向いている。

巨大蟹の目がわずかに逸れた。

「ほらほら、こっち、誘惑――《テンプテーション》」

俺は再び誘惑を発動し、蟹の視線を強制的に自分へ引き戻す。

巨大なハサミがこちらへ向き、威圧するように水面を叩いた。波が胸元まで跳ね、冷たい水しぶきが顔にかかる。だが、ヘイトは戻った。

「すみません! 削りきれませんでした! 一分ください!」

ミーナの叫びが聞こえる。

彼女は悔しそうではあるが、焦ってはいない。ファイアーウォールとインフェルノリングを再設置し、じわじわとHPを削る方向に切り替えている。フレア・オーバーライドの時間内に一気に倒し切るには、さすがに相手が硬すぎたのだ。

名ボスっていうか、三層の難易度調整ミスってない?

いや、違う。

これはバランスのいいパーティが長時間戦闘する設計で作られているのだ。

タンクが受け、アタッカーが削り、ヒーラーが支え、状態異常や部位破壊を積み重ねながら勝つ。運営様の匙加減は、きっと上手い。上手いのだが、俺たちはそのバランスをかなり変な方向から壊しに来ている。

「オッケー!」

俺は笑いながら、蟹の脚へ向かって再び走り出した。

「その間、足、折ったりしちゃいますか!」

水しぶきを上げ、炎の熱を背中に感じながら、俺は巨大蟹の多脚へ滑り込む。

まだ足は、たくさんある。

なら、一分間、退屈しなくて済みそうだった。