軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

現実はH(ハード)モード、いやMモード。

ログアウトを告げる暗転がほどけた瞬間、意識は唐突に「重さ」という概念に叩き落とされた。

まぶたの裏に焼き付いていた眩いエフェクトの残光が、じわじわと現実の、ひどく味気ない薄暗い天井に上書きされていく。その過程で最初に突きつけられたのは、視覚情報なんて高尚なものじゃない。

布団の重み。まとわりつく空気の密度。そして、何より自分の身体そのものが持つ質量だ。

――ずっしり。

まるで、眠っている間に巨大な猫にでも居座られたかのような、逃げ場のない重力感。

「……ぶぇっ」

喉の奥から、自分でも引くような変な声が漏れる。

呼吸が妙に浅い。いや、吸おうとしても胸のあたりで何かが物理的に「引っかかる」のだ。肺を広げようとするのを邪魔するような、確かな圧迫感。

ごまかしようのない現実の「主張」が鎮座していた。

さっきまで画面の中で見慣れていたはずのそれが、今はパラメーターの補正もなく、現実の重力を味方につけて、容赦なく俺の身体を圧迫している。

(特大のスライムちゃん……)

脳内でそんな冷静な分析を飛ばす自分がいる。いや、冷静じゃない。これはただの現実逃避だ。

「……はぁ」

一度、深く息を吐き出す。

身体の奥底には、つい数分前まで味わっていた多幸感の残滓が、熱を帯びてこびりついていた。

他プレイヤーたちを吸収し、捕食したときの、魂まで震えるような感覚。経験値が濁流のように流れ込んでくる快楽。満たされ、内側から弾けそうになるあの熱。

――それと比べて、この「現実」はどうだ。

重い。だるい。何をするにもワンテンポ遅れるような、もどかしい不自由さ。ステータス補正という権利を剥ぎ取られた途端、俺はただの非力な女の子に成り下がる。

「これ……VRMMOとの乖離なんてレベル、とっくに超えてんな……」

自嘲気味に呟く。笑えない。いや、あまりの落差に一周回って笑えてくる。

凶悪な「悪魔シスター」として3人をまとめて貪り食っていた俺が、今はたかがベッドから起き上がるだけで、苦労を強いられているのだから。

腕に力を込め、指先をグッ、パッ、と握り直す。ようやく神経がこの肉体に馴染んできたのを確認し、気合を入れて上半身を起こした。

「ん……っ、ふんぬっ!」

喉を絞るような声が出る。

ようやく上体を起こしたときには、背中にじんわりと嫌な汗がにじんでいた。興奮しすぎたのか、あるいはそれだけあっちの世界――「エタファン」が見せる夢が、あまりに鮮烈だったのか。

「……とりあえず、水」

乾いた喉が、水分を求めている。

ベッドの端から、そっと足を下ろした。

フローリングに足裏が触れた瞬間、ひやりとした鋭い刺激が脳を叩く。立ち上がろうと膝に力を入れるが、視界がふらりと、大きく揺らいだ。

「おっと……!」

前のめりになり、慌てて壁に手を突く。

その瞬間――

わぷっ。

「ひゃんっ!?」

……変な声が出た。

頭をぶつけるのを嫌がって、反射的に身体を引いたのがいけなかった。バランスがさらに崩れ、体勢を立て直そうと腕を突っ張る。その反動で、胸が大きく揺れた。視界が一瞬、プラチナブロンドの髪と、パーカーの隙間から覗く肌色に埋まる。

(ひゃん、ひゃんって今のかわいい声なんだよ!?)

内心で全力のセルフツッコミ。

いや、仕方ない。事故だ。今の不意打ちは、反射的な防御反応にすぎない。そう、不可抗力だ。

……そうだよな?

荒くなった呼吸を整えるために、深く、深く息を吸い込む。

落ち着け。ここは現実だ。

(ロールプレイの必要は……ないんだぞ……)

震える手で冷蔵庫の取っ手を掴み、引き開ける。

溢れ出してきた冷気が顔をなで、少しだけ火照った頭が冷えていく。ペットボトルを取り蓋を開ける。キャップをひねる力すら、今の自分には重労働に感じる。

「んくっんくっ……ぷはぁ〜……生き返る」

さらに棚から掴み取ったのは、安売りのゼリー飲料。

ちゅー、とパウチに吸い付いた。

人工的な甘み。突き抜けるような冷たさ。

そして――

「……普通、だな」

思わず、独り言ちた。普通だ。当たり前だ。

あの、経験値を直接喉に流し込むような、脳を焼く多幸感なんてどこにもない。ただの、冷たくて甘いだけの液体。

(……いや、普通が一番だって。わかってるけどさ)

心のどこかで、あの「満たされる感覚」を求めてしまっている自分がいる。

危ない。これは、依存症のそれだ。感覚が、ゲームの基準にバグらされている。

「……やば」

自分自身に呆れ、苦笑が漏れる。

冷蔵庫に背中を預け、ずるずると滑り落ちるようにしてゼリーを飲み進める。

少しずつ、栄養が身体に行き渡り、呼吸が平熱を取り戻していく。頭の中の異様な熱も、静かに引いていった。

「……ふぅ」

空になったパウチをギュッと握りつぶす。

ふと、キッチンのガラス窓に自分の姿が映り込む。

月光のようなプラチナブロンドの長い髪。

ぶかぶかのオーバーサイズパーカー。

そして、そのだらしないシルエットの下で、明らかに隠しきれていない凄まじい膨らみ。

「……」

まじまじと、自分の輪郭を観察する。

(我ながら……というか、客観的に見ても美少女だな、これ)

認めざるを得ない。

肌は陶器のように白く、顔立ちは整いすぎていて非現実的だ。髪の毛一本一本にいたるまで、「俺(元)」とは、もはや種族レベルで別人だった。

そして――。

「……やっぱり、でかい」

視線は、どうしてもパーカーの下の「質量」に吸い寄せられる。

生地を押し上げ、先端に作るかすかな突起。

(いや、やらしい意味じゃなくてな!?服どうしようとかそう言う話で……っ)

虚空に向かって、誰にともなく必死に言い訳を並べる。

けれど、これは最早エロだの何だのと言っている場合じゃない。

服のサイズ。周囲の目。これからの生活。

そのすべてにおいて、この身体の「問題」に向き合わなければならない。

「……そうだな」

俺は小さく、自分に言い聞かせるように頷いた。

もう七日。

女の子になってから、一週間が過ぎた。

最初はただ混乱し、その恐怖から逃げるようにゲームの中に引きこもっていた。

でも。

「……そろそろ、だよなぁ……」

ぽつり、と。決意とも諦めともつかない言葉がこぼれる。

ちょうどいい、と言えばいいのだろうか。

ミーナとの会話で、勢いに任せて「現役JD」なんて設定まで作ってしまった。

(あんなハッタリ、これからどうすんだよ本当に……)

けれど、見方を変えれば。

その設定を「建前」として使えば、案外上手く立ち回れるかもしれない。

「……まずは」

自分の格好を見下ろす。

だぼだぼのパーカー。楽ではある。

だが、さすがにこれ一丁で外の世界に挑むのは、あまりに無謀というものだ。

「服……だな。まともなやつ」

直面する、現実的なハードル。

サイズ選び。デザイン。そして何より、この姿で店に行くという地獄のようなハードル。

そこで、ふと閃くものがあった。

「……あ」

そうだ。VR技術って元々はメタバース、つまり普通のユーザーが多いじゃんか、ならば――。

「通販だ」

バラバラだったパズルのピースが、頭の中で一つに繋がる。

VR試着が可能な通販サイト。自宅にいながら、実際に着用した際の感覚やシルエットを精密にシミュレートできるサービス。

(あれなら……!)

自分の正確なスリーサイズもわかるし、今の自分に何が似合うかも判別できる。

何より、一歩も外に出なくていい。

この「歩くリハビリ状態」の身体でも、なんとかなるはずだ。

「……よし」

俺は小さく、けれど確かな意志を込めて拳を握った。

現実という名のハードモードと向き合う、最初の一歩。

まずは、この身体を包む「武装」を整えることから始めよう。

「いくか……通販戦争」

少しだけ大げさなセリフを吐いて、俺は枕元に転がっていたネクサス・ギアへと、震える手を伸ばした。

指先に触れるひんやりとした金属と樹脂の質感。持ち上げた時に感じるずしりとした重みは、現実の倦怠感とは違う、精密機械だけが持つ確かな「安心感」を伴っていた。

「ふー……」

戦いとは別の緊張感、というかこっちの方がある意味で緊張する……。

俺はゆっくりとベッドに腰を下ろし、再びそれを頭に被る。

視界がふっと遮られ、暗闇が落ちてきた。

「……えーっと、あったあった、ショッピングモード」

その言葉をトリガーに、俺の意識は泥のように、現実の肉体から切り離されていった。

重力を感じさせない無音の白い空間。その空間にシンプルなUIが静かに浮かび上がる。

――VRショッピングモールへようこそ。

次の瞬間、視界を塞いでいた白が、爆発するように色彩の洪水へと変わった。

「おお……」

思わず感嘆の声が漏れた。

目の前に広がるのは、天を突くような巨大なショッピングモール。

見上げるほど高いガラス張りの天井からは、柔らかな仮想の光が降り注ぎ、大理石の床は鏡のように周囲を映し出している。左右には、現実にはありえないほど洗練されたデザインの店舗が地平線の彼方まで並び、頭上では浮遊型の移動ポッドやエスカレーターが複雑な幾何学模様を描いて行き交っていた。

そして、人。

いや、そこにいるのは「誰か」の形をした、アバターたちだ。

現実の制約を脱ぎ捨てた、あまりにも自由な外見。

優雅に歩く長身のエルフ、機械仕掛けの義肢を剥き出しにした男、ぬいぐるみのような愛らしさを振りまく獣の少女。それらがまるで当たり前の景色として、この空間に同居している。

「……なんだこれ、テーマパークかよ」

呆気にとられ、周囲を見回す。

遠くから聞こえてくる軽やかな環境音楽、賑やかな話し声、大理石を叩く乾いた靴音。

匂いこそないが、視覚と聴覚の圧倒的な情報量が、ここを確かな「場所」として成立させていた。

「すげぇ……」

その光景に圧倒されていると、目の前に新しいウィンドウが割り込んできた。

《アバター登録を行いますか?》

「あ、はい」

思わず素のトーンで返事をしてしまう。

直後、俺の身体が柔らかな光の粒子に包まれる。

自分の輪郭が、見えない筆でなぞられるように再構築されていく。例のくすぐったいやつだ。

そして。

目の前に、もう一人の「私」が鏡合わせのように現れた。

輝くプラチナブロンド。

指通りが良さそうなロングヘア。

子供のように小さな、140センチそこそこの身長。

そして――。

「……うん、やっぱりでかいな」

現実そのままの、不釣り合いな「質量」。

わかっていた。わかっていたけれど、改めて客観的な視点で見せつけられると、そのアンバランスさに頭がくらくらする。

「……まあ、いい。今はそれどころじゃない」

軽く首を振り、意識を切り替える。

すると、まるで思考を読み取ったかのように、新しいウィンドウが静かに開いた。

《専用AIコンシェルジュを起動しますか?》

「はい、お願いします」

これは迷わず即答。

目の前で光が集束し、一人の女性の姿を形作った。

隙のないスーツを着こなし、非のうちどころのない整った顔立ちで、穏やかな笑みを湛えている。

「ようこそ。本日はどのようなご用件でしょうか」

落ち着いた、透明感のある声。

一分の無駄もない。まさにプロフェッショナルの佇まいだ。

「えっと……服を。一通り買いたくて」

「かしこまりました。用途やご希望、イメージなどはございますか?」

少しだけ言葉に詰まる。けれど、勇気を出して言い放った。

「……女子大生の一年生、って感じで、普段使いとなんかこう出かける時の服とかもあったら嬉しい……です」

言ったそばから、心臓の奥がむず痒くなる。

(女子大生……背徳感がヤバい。設定盛りすぎたか……)

だが、今の俺が平穏に生きるためには、この「皮」が絶対に必要なのだ。

「承知いたしました」

AIは一切の疑問を差し挟まず、流れるように頷いた。

その瞬間。

俺の身体を、無数の微細な光の粒子が、生き物のように這い回り始めた。

「っ……!? な、に……」

ぞわり、とした、あの例の伝説の風呂の時のような感覚に思わず肩をすくめる。

くすぐったい。皮膚の表面を、何万もの見えない指先で優しく撫でまわされているような、奇妙な感覚。

「現在、正確なフィッティングのため、ボディスキャンを行っております」

「あ、はい、これねこれ、これ……ひゃう、あははっ、ちょっ……!めちゃくちゃくすぐったいんだけど!?」

「感覚のフィードバックには個人差がございます」

AIは眉一つ動かさず、冷静に告げる。

くすぐったさは一気に全身を駆け巡り、最後に胸のあたりを執拗に走ってから、一瞬で収束した。

次の瞬間。

目の前に、無慈悲なまでの「事実」が記されたステータス画面が開く。

「……え?」

そこに並んでいた数字は、俺の想像を遥かに超えていた。

身長:142cm

体重:41kg

「ちっさ……」

驚きで声が漏れる。

いや、小さすぎる。これではまるで小学生か何かだ。

だが、問題は、そのすぐ下の項目。

バスト:102cm

ウエスト:56cm

ヒップ:84cm

「…………は?」

一瞬、脳の演算がストップした。

バスト、102……?

身長142センチに対して、その数字は物理的におかしい。

「ちょっと待て、おい。さらに下が……」

震える指先でスクロールする。

カップサイズ:M

「えむ、エム、M!?」

声が裏返り、辺りに響き渡った。

(いやいやいや、ジー、エイチ、アイ、ジェー、ケー、エル……エム!?!? M!?)

脳内が大パニックを起こす。

アルファベットの中盤戦すぎる。普通はCとかDとか、せいぜい頑張ってもEとかFとか、そういう領域の話じゃないのか。なんでよりによって「M」なんて未知の領域に足を踏み入れているんだ。

「測定結果に基づき、現時点での最適なサイズを提示しております」

AIは、嵐のような俺の動揺を一切意に介さず、微動だにしない。

プロすぎて怖い。

「いや、でも……これ、は……」

恐る恐る、自分の胸元に視線を落とす。

確かに「ある」。

あるどころの騒ぎではない。視界の下半分を占拠しているのは、他ならぬ自分の一部だ。

「……Mって……そんなん、どうすればいいんだよ……」

あまりの事態に語彙力が霧散する。

「問題ございません。構造的に適切なサポート機能を備えた製品をご提案いたします」

「問題ないんかい……頼もしすぎるだろ、オイ」

完全にペースを握られ、敗北感を覚える。

けれど、ここで尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。俺は一つ、大きく深呼吸をして覚悟を決めた。

「……じゃあ、その……。普段着と、あと……下着も。一通り……」

ごにょごにょと後半は口籠る。

口にした瞬間、首のあたりまで熱くなるのがわかった。

(必要経費だ! これは生きるための装備品なんだよ……!)

AIは淡々と頷く。

「かしこまりました。該当カテゴリのラインナップを表示いたします」

次の瞬間、視界の光景が劇的に塗り替えられた。

無数のショップへのポータル、空中に浮かび上がるように整列した商品のディスプレイ。

「……すご」

圧倒的な情報の密度に、思わず呟いた。

「すべて仮想試着が可能です。お気兼ねなくお試しください」

「これ……」

思わず、乾いた笑みが漏れる。

「めちゃくちゃ便利じゃん」

現実で重い足を引きずり、店員のお世辞に愛想笑いを浮かべ、何度も狭い試着室を往復する――そんな苦行が、ここではすべて省略されている。

しかも、身体データは正確な計測に基づいている。サイズの失敗なんて、起こりようがない。

俺は少しの躊躇いを覚えながらも目の前に並ぶ「女子大生装備」へと手を伸ばした。