軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

ネームドモンスター【トビートミー】

洞窟の中は、思っていたよりもずっと湿っていた。

入口をくぐった瞬間に感じたひんやりとした空気は、奥へ進むにつれてさらに濃くなり、肌にじっとりと貼りつくような湿気を帯びていく。壁は黒ずんだ岩でできていて、ところどころに地下水が染み出しているらしく、細い筋になって光を反射していた。

天井からは、ぽたり、ぽたりと一定の間隔で雫が落ちていて、その音が妙に耳につく。静かだからだ。いや、静かというのは正確じゃない。音がないわけではない。水音も、遠くで何かが擦れるような音もある。

ただ、“外の世界の音”が消えている。風も鳥も草の擦れる音もない。代わりにあるのは、閉ざされた土と石の匂いと、かすかに混じる獣臭、それにゴブリン特有の、なんとも言えない湿った雑巾みたいな臭いだ。

「……うわ、すごいなこれ」

思わず鼻をしかめる。

ゲームだから嗅覚再現も適度だろうと思っていたのに、こういう不快なところだけ妙に本気なの、やめてほしい。いや、没入感はある。あるけど。もっとこう、花畑とか焼きたてパンの匂いとかを優先してくれてよくないか?

足元は土と小石が混じった不安定な地面で、踏みしめるたびにじゃり、と小さな音が鳴る。その音が洞窟の壁に反射して、自分の存在を周囲に宣伝しているようで妙に落ち着かない。だが、今の俺にとってはそれでいい。むしろ隠れる必要がない。

だって――

「はい、一匹追加」

曲がり角の先でこちらに気づいたゴブリンの肩口へ、俺はポイズンニードルをぷすりと差し込んだ。

相変わらず、頼りない感触だ。刺さっていることは分かる。手のひらに、針先が肉を裂いたわずかな手応えも返ってくる。

ゴブリンは「ギャッ!?」と妙な声を上げて飛びのくが、俺はもう慣れている。こっちが刺すのは“倒すため”じゃない。“名刺交換”みたいなものだ。ひと刺しして、「はいあなた敵認定ね」と伝えるだけ。

するとちゃんと、ゴブリンは怒る。

怒って、棍棒を振り上げて、こっちへ向かってくる。

「はいはい、どうぞどうぞ」

営業スマイルならぬ、営業タンクである。

もう一匹、さらに一匹。通路の先や横穴の陰から出てきたゴブリンを見つけては、俺は片っ端から針を刺していく。

ぷすり。

ぷすっ。

ぷす。

「どうも、ポイズンニードルと言う者です……!」

思わず自分でボケるが、戦法は変わらない。刺す。ヘイトを集める。進む。ただそれだけ。

背中側では、すでに数匹のゴブリンが棍棒で好き放題に殴ってきていた。肩、背中、腰、ふともも。場所は違えど、返ってくる感触はどれもだいたい同じだ。

ぽよん。ぽすっ。ぽよよん。

「こちらスライムボディ(軟体)になります!」

謎にダンジョンのゴブリンに挨拶して回る。

ダメージ表示は相変わらず0だし、効果音は相変わらず気の抜ける感じだしで、緊張感の演出がだいぶ迷子になっている。洞窟の陰湿な雰囲気と、俺の身体から鳴る“ぽよん”が全然噛み合っていない。ホラー映画のBGMに、急に子ども向けのおもちゃの音が混ざったみたいな違和感だ。

だが、その違和感のおかげで、俺は前へ進める。

足を止めず、曲がりくねった通路をがしがし進んでいく。背後からは、数を増やしたゴブリンたちの足音がぞろぞろとついてくる。棍棒で殴る音、叫び声、足を引きずる音、爪で壁を掻くような耳障りな音。それらが全部ひとまとめになって背中に押し寄せてくる感覚は、正直ちょっと面白い。

「……これ、普通のプレイヤーなら絶対やらないな」

普通は一匹ずつ釣るんだろう。あるいはパーティで役割分担して、前衛が受け、後衛が削る。だが今の俺は、その常識の斜め上を行っている。受けるのは俺だけ、削るのも俺だけ、最後に吸うのも俺だけ。なんだこの自己完結型キモビルド。

そんなことを思っていたときだった。

遠くから、声が聞こえた。

女の子の声だ。

高くて、切羽詰まっていて、でもただ悲鳴を上げているだけじゃない。詠唱している。

「――イアーボール! ファイアーボール!」

「……あ、いた」

思わず小さく呟く。

取り残された誰か。たぶん、その子だ。

声のした方向へと、俺はさらに足を速めた。AGIが上がっているおかげで、こういうときの踏み込みは以前よりずっと軽い。完全に華麗、とはまだ言えないが、少なくとも「よたよたした爆乳美少女」から「ちょっとバランスの悪い爆乳美少女」くらいには進化している。何の進化だよ。

通路をひとつ曲がり、狭い裂け目みたいな場所を抜けた先で、視界が開けた。

そこは少し広めの空洞になっていた。

天井は高く、ところどころに青白い鉱石が埋まっていて、薄暗いながらも全体の様子が見える。地面には大小の岩が転がり、奥の壁際には朽ちた木箱や骨のようなものも見えた。鼻につく臭いもここだけ濃い。獣臭と汗と、血の匂いが混じっている。

そして――いた。

女の子は、まだ無事だった。

無事、とは言ってもギリギリだ。壁を背にして立ち、杖を両手で握りしめている。ローブ姿。淡い茶色の髪が汗で頬に張りつき、肩で息をしている。顔色は青い。目は大きく見開かれ、その視線は目の前のゴブリンたちに釘付けになっている。

その前に立ち塞がるのは、複数のゴブリン。

そして、そのさらに奥。

「……お前が、ネームドか」

ひときわ異質な一体がいた。

小柄な体躯そのものは、他のゴブリンと大差ない。だが、顔が違う。凶悪というより、狡猾。唇の端がいやらしく持ち上がり、目は細く、どこか人間の悪意に近いものを湛えている。手足の動きも落ち着いていて、ただ暴れる雑魚とは明らかに違った。

頭上に表示されている名は――トビートミー。

「……なんだその名前」

思わず眉をひそめる。いや、ネーミングに文句言ってる場合じゃないのは分かってる。でも気になるだろ。なんだよトビートミーって。由来どこだよ。怖そうな顔して名前の響きだけちょっと軽いのやめてくれ。

だが、その妙な名前で油断しそうになった直後、俺はそいつの手にあるものを見て、表情を引き締めた。

ダーツ。

細くて短い、投擲用の針だ。先端にはどす黒い染みがある。毒か何かだろう。

そして、足元には何本もそれが転がっている。

女の子のローブの袖や肩口にも、何本か刺さっていた。HPを一気に削るほどではない。だが、じわじわと、確実に痛めつけるための量だ。

「……うわ」

思わず声が漏れる。

タチが悪い。

周囲のゴブリンに一斉攻撃させれば、それで終わるはずだ。にもかかわらず、そうしていない。少しずつ削っている。抵抗させて、追い込んで、悲鳴を聞いて楽しんでいる。

「トビートミー……お前、最低だな」

ぽつりと呟いたあとで、少しだけ自分で引っかかった。

最低。

ゴブリン視点からしたら、俺も大概では?

集団に突っ込んできて、ぽよんぽよん殴られながら針を刺して、毒で弱らせて、最後に体液を啜る爆乳ツインテール悪魔尻尾女。うん、敵視点だと完全にホラーだな。たぶんトビートミーの方も「うわ、最低だな」って思ってるかもしれない。

だが、まあ、そこはそれだ。

今はこっちが正義側ということにしておこう。

俺は背後から追いついてきた大量のゴブリンに、変わらずぼこぼこと殴られながら、空洞の中央まで進み出た。肩でぽよん。背中でぽすっ。腰でぽよよん。すごい。まるで俺が登場するたびに専用SEが鳴るキャラクターみたいだ。嫌すぎる。

女の子がこちらを見る。

目が合う。

その瞬間、俺の中で何かが切り替わった。

――ロールプレイの時間だ。

ここまで来て、名乗らないなんてあるか?

ないだろ。

この姿で。このタイミングで。この状況で。

むしろ、今こそ“リエラ”をやるべきだ。

俺は胸を張った。というか張らざるを得ない体型なんだけど、それはさておき、顎を少し上げ、ツインテールをふわりと揺らし、いかにも「颯爽と助けに来たお嬢様」っぽい角度を探る。

そして、言った。

「ふふん、このリエラ様が来たからには、もう大丈夫なんだからね!」

決まった。

……はずだった。

女の子は、俺を見た。俺の姿を見た。

プラチナブロンドのツインテールを見た。

やたらとでかい胸を見た。

そして――背後にぞろぞろ引き連れた大量のゴブリンを見た。

「いやぁぁぁゴブリン!!」

「そっち!?」

今までで一番の絶叫だった。

耳がきーんとするレベルで高い悲鳴が空洞に反響する。さっきまでの少し切羽詰まった「ファイアーボール!」とは比べものにならない。完全にパニック時の声だ。

俺のエタファン初名乗りは、盛大にすべった。

いや、すべったとかいうレベルじゃない。完全に事故だ。初舞台で派手に転んで顔から落ちたくらいのやつだ。

「ち、違う違う! そいつらは今ちょっとついてきてるだけで――」

説明しようとして、背中に棍棒が当たる。

ぽよん。

台無しだよ。説得力ゼロだよ。なんなんだよこの状況。

目の前の女の子からしたら、どう見ても俺は“ゴブリンの群れを引き連れて現れた謎の初心者の初期装備『冒険者アカデミー一式』の美少女“でしかない。助けに来たって言われても困るだろう。俺でも困る。

トビートミーは、そのやり取りを見ていた。

そして、にたり、と口元を歪めた。

「……あ、こいつ絶対笑ってる」

分かる。ゴブリン語とか知らないけど分かる。この顔は笑ってる。状況を面白がってる顔だ。

くそ、腹立つ。

俺はポイズンニードルを握り直した。

背後ではまだゴブリンがわちゃわちゃと殴ってきている。前には女の子を取り囲む別働隊。奥にはダーツ持ちの性悪ネームド。

状況は最悪に近い。

なのに、妙に頭は冴えていた。

「……よし」

深く息を吸う。

湿った空気と、血の匂いと、ゴブリンの臭気が肺に入る。

あまり気持ちのいいものじゃない。だが、その不快さが逆に現実感をくれる。

俺は一歩、前へ出た。

ぽよん、という間の抜けた音を背中に聞きながら、今度はちゃんと“助けに来た側”として動くため。