軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

一五三.すすり泣くような声に、ベルグリフは

すすり泣くような声に、ベルグリフは目を覚ました。隣に眠る五歳のアンジェリンが、眠りながら涙を流しているらしかった。

窓から月明かりが射し込んで、部屋の中はうっすらと明るかった。ベルグリフはそっとアンジェリンのお腹に手を当ててさすってやった。アンジェリンは薄く目を開けた。

「……おとうさん?」

「ああ、いるよ」

アンジェリンはもそもそと身じろぎして、ベルグリフに抱き付いた。その頭を優しく撫でてやりながら、ベルグリフは微笑んだ。

「どうした?」

「……こわいゆめ、みた」

アンジェリンはベルグリフの胸元に顔を押し付けながら続ける。

「おとうさんがいないの。わたしひとりで……まっくらなの」

「うん……そうか。怖かったな」

「……でも、ゆめだった。よかった」

アンジェリンはベルグリフを見上げて涙を流しながら笑った。ベルグリフは笑い返して、アンジェリンの頭をぽんぽんと撫でた。

「寝れそうか?」

「……わかんない」

「何か飲もうか」

そう言って寝床から出る。ランプを灯し、暖炉の埋め火を熾した。ケリーからもらった山羊乳が残っていたから、それを小鍋に入れて温める。砂糖も少し入れた。湯気の立ち始めたそれを木のコップに移し、アンジェリンに手渡す。

「ほら、ふうふうして飲むんだよ」

「うん!」

アンジェリンは嬉しそうにコップを受け取り、温かな山羊乳を冷ましながら飲んだ。

「あまーい。おいしい」

「よかった。それを飲んだら寝ような」

ベルグリフは笑いながら、自分の分の山羊乳をすすった。

ぱちんと音を立てて薪がはぜる。煙が一筋立ち上って、煙突に吸い込まれて行った。

アンジェリンはコップを両手で持ち、ベルグリフの膝の上に座って、ぼんやりと揺れる炎を眺めていたが、やがて最後の一口を飲み、立ち上がった。

「おくちゆすいで……それからねる」

「そうそう。偉いぞ」

流しでコップを洗い、水で口をすすいで、二人は寝床に入った。アンジェリンはベルグリフにぴったりとくっついて、服の裾を握り締めた。

「……おとうさん」

「ん?」

「おとうさんは、どこにもいかないよね?」

「ああ。お父さんは何処にも行かないよ」

ベルグリフは微笑んで、そっとアンジェリンの頭を撫でた。

説明を聞いたベルグリフは、何の迷いもなくアンジェリンを迎えに行くと言った。籠を下ろし、腰の剣の位置を整える。まだ幻肢痛は少し疼くが、さっきよりは随分ましだ。

アンジェリンが、自分の足を奪った魔獣だった。その事を知っても、驚くほどベルグリフの心は平静だった。もっと動揺しても良い筈なのに、と自分で思ったくらいだ。

自分でもどうしてこんなに落ち着いているのか分からなかったが、特段掻き立つ事がないのだから仕方がない。

ただ、アンジェリンが悲しんでいるであろう事がありありと分かった。それに手を差し伸べる事が自分の役目だと思った。

「あの子は優しい子だ。きっと自分を責めている。辛い筈だ」

ベルグリフは呟いた。サティが涙を流しながら鼻をすすった。

「わたし……アンジェの事、信じてあげられなかった。母親なのに、あの子を怖がったりして……最低だ……」

「いいんだ。君のせいじゃない」

ベルグリフはそっとサティの背中をさすった。

「……オイラ、どうすればよかったんだろ」

カシムが膝を抱えながら呟いた。

「たまーに、思ってたんだ。あの時、あいつがいなければ、ベルの足を奪って行かなかったら、まだ四人で冒険者やれてたのかなあって。オイラも、変にねじ曲がって悪さばっかりしなくてもよかったのかなって……それで、足が止まっちゃった。アンジェはアンジェだってのは分かってるのにさ」

「カシム君……」

サティは息を詰まらして嗚咽した。

確かにそうかも知れない。そうだったら、彼らの苦しい過去はなかったのかも知れない。

それでも、とベルグリフは道具袋の中を点検し、義足の付け根を丁寧に確認した。それからとんとんと地面を蹴って、ぐらつきがない事を確かめる。大丈夫だ。ベルグリフは小さく頷いて、それから傍らに腰を下ろすグラハムを見た。

「グラハム、君は……」

「……老いには勝てぬ。一振りでこのザマだ。情けない」

グラハムは目を伏せて嘆息した。そうして、手にした大剣を差し出した。

「持って行け。私は動けぬが、こやつはまだ元気が有り余っている」

大剣は小さく唸った。ベルグリフは微笑んで受け取った。

「ありがとう」

「……気を付けてな」

「ベルさん」

アネッサが弓矢を担ぎ直した。神妙な顔をしている。ミリアムも同じだ。それぞれに得物を携え、ベルグリフを見つめている。

「わたしたちも行きます」

「皆の昔の事とか分かんないけど、アンジェは仲間だし、リーダーだし……」

「ああ、それでいい。誰も君たちを止める権利なんかないよ」

ベルグリフは微笑んだ。

そこにマルグリットが駆けて来た。毛糸の玉が沢山入った籠を持っている。

「持って来たぞ!」

「ああ、ありがとう。子供たちの様子はどうだった?」

「なんか突然暴れ出したらしくて、ヤクモたちも大変だったみたいだぞ。今は寝てる」

やはり、あの枝は魔王を覚醒させる力があったのだな、とベルグリフは眉をひそめた。それで村は少し騒動になっていたらしいが、ヤクモとルシールに加え、ダンカンやボルドー家の三姉妹、それに行商人の護衛で来ていた冒険者たちがいた為、怪我人も出なかったようだ。

ここにいない子供たちにまで影響を与えるとは、ソロモン恐るべしである。大事に至らなくて幸いだったが。

マルグリットはムスッと口を尖らして足を踏み鳴らした。

「これで準備は出来たな? アンジェのヤロー、勝ち逃げなんて絶対に許さねえ。まだあいつの事ボコボコにしてねえんだ。負けっぱなしで幕引きなんて認めねえぞ」

マルグリットも行く気満々だ。グラハムも止める様子はない。アンジェリンのパーティ三人は過去のしがらみなど何もない。そんな姿が頼もしく見えた。

パーシヴァルがばりばりと頭を掻いた。

「……本当にいいのか、ベル?」

「なにが?」

「アンジェはアンジェかも知れん。だが、あいつは俺たちの仇でもあるんだぞ」

「そうだな」

「俺はあいつを追い続けた。まだ追うつもりだった。それが、あんな形で……」

「パーシー」

「どうしろって言うんだ? 俺はあいつが憎くて仕方がなかった。何を置いてもあいつだけは殺してやらなきゃ気が済まなかった。あいつが俺たちを引き裂いたからだ。それなのに……何だってんだ。何なんだよ、チクショウ!」

「パーシー」

ベルグリフはパーシヴァルの肩に手を置き、真っ直ぐにパーシヴァルを見据えた。

「アンジェは俺の娘だ。ここにいる全員の家族であり、友達だ。他の何者でもない」

「――ッ!」

パーシヴァルは胸が詰まったような顔をしたが、やがて諦めたように目を伏せ、腕組みしてどっかりと座り込んだ。

「分かった」

ぱしん、と両手で頬を叩いた。思い切りやったらしく、手を放すと少し赤くなっていた。

「昔の事をぐだぐだ言うのはやめだ! どの道あの頃に戻れるわけじゃねえんだ。そんなら今掴める一番良い未来を目指すのが筋ってもんだ! いいな! カシム!」

カシムは立ち上がって帽子をかぶり直した。

「へへ……リーダーがそう言うなら、仕方ないね!」

しかし嬉しそうだった。踏ん切りがついたらしい。カシム自身はパーシヴァルほど仇にこだわっているわけではなさそうだ。パーシヴァルは久々に咳き込んで、匂い袋を取り出している。

雪は止んでいた。しかし空はまだ真珠色だ。低い所を灰色の千切れ雲が、強い風に吹かれて速く流れている。冬の貴婦人はどうしただろう。雪が止んだという事は、もう何処かへ行ったのだろうか。彼女はこの出来事に引かれて現れたのだろうか。

ベルグリフは捻じれた空間の前に立った。向こう側は真っ暗だ。何があるのかも分からない。聖剣が唸り声を上げている。

ミリアムが息を呑んだ。

「この空間……いつまで開いてるんだろ? 突然閉じたりしないかな……?」

「分からない、けど、行くしかないだろ」

アネッサが言った。マルグリットも頷いた。

「冒険者だぞ。冒険しに行くんだ!」

「ふふ、マリーはいいですにゃー」

マルグリットの変わらない勢いに、少し雰囲気が和やかになった。

ベルグリフは地面に落ちていたアンジェリンの髪飾りを拾い上げた。ぐっと一度握り締めてから、道具袋にしまう。それからサティの方を見た。

「……君は残ってくれ。ビャクを連れ帰って、子供たちを頼む」

サティはくっと唇を噛んだ。

「……戻って来れないかも知れないよ? それを承知の上でわたしに残れって言うんだね?」

「すまん。だが、これは俺の役目だと思う」

「……そうだね。分かった。アンジェをよろしくね」

サティは目に涙を浮かべたまま微笑んだ。ベルグリフはそっとサティを抱き寄せ、ぎゅうと抱きしめた。

「大丈夫。必ず戻る」

「……信じてるよ」

サティはそっとベルグリフの唇に口づけて、離れた。

パーシヴァルが腰の剣を引き抜いた。

「行くぞ」

「ああ」

「親父」

ベルグリフは振り向いた。ビャクがジッとベルグリフを見つめていた。

「……頼んだ」

「任せろ」

ベルグリフは微笑んだ。

真っ暗な空間だった。しかし、不思議と自分の足元は見えた。

とぼとぼと、当てもなくただ前へと歩いて行く。いや、前に進んでいるのかも分からない。ただその場で足踏みをしているだけのようにも思える。それでも足を動かさずにいられない。

鼻の奥には、相変わらず血の臭いがこびりついていた。それがたまらなく不快だったが、自分にはふさわしいような気もした。

目からは涙が流れて来る。もう家族とも仲間とも二度と会えないだろう。会えたとしても、会う気などない。自分は自分の大切な人の未来を奪っていた。それなのに、その人の所に入り込んで、何食わぬ顔で幸せを享受していた。それが自分自身で許せなかった。

「なにが娘だ……」

呟いた。その呟きが心臓を刺すようだった。

いっそ、自分で命を断てればいいのに。そんな事も思った。しかし怖かった。深い絶望があるのに、まだ心のどこかで希望を抱いていた。

そんなものは抱いてはいけない。自分にはふさわしくない。

足の先、指先から何かが這い上がって来るような気配がした。見ると、まるで影法師のように黒く染まって来ていた。

ああ、そうか。わたしも魔王に戻るんだ。

そう納得した。それでいいと思えた。その方がいい。

喉の奥がきゅうと締まった。寂しかった。鼻の奥がつんとして、目の裏が熱かった。涙が止まらない。

もう二度とお父さんに会えないんだ。

そう思うと悲しくて仕方がなかった。それが当然の報いだといくら言い聞かせても、悲しみは止むことがなかった。

早く魔王になってしまえばいい。アンジェリンではなくなれば、この苦しみや悲しみもなくなるだろうか。仲間や家族の事もすべて忘れて。

「……うう」

足が止まった。かくんと膝を突いて、両手で顔を覆った。涙が溢れて来る。嫌だ。忘れたくなんかない。忘れていい事なんか何もない。

だが、暖かな思い出が却って自分を苛んだ。胸の奥を掻きむしられるようだ。心がある事が辛かった。嗚咽が漏れ、涙が溢れ、とても歩いていられない。うずくまり、膝小僧に顔を埋める。

周囲を取り巻くように、黒い靄が漂い始めた。

穿孔された空間の中は真っ暗だった。しかし、自分の体や足先は見える。暑くも寒くもなく、また足音がしないから、奇妙な静寂が包みこんでいた。仲間の息遣いや、自分の心臓の鼓動が大きく聞こえる。

かなり早足で進んだ筈なのだが、アンジェリンは元よりシュバイツの姿すらない。

ただ、同じような真っ暗な空間がどこまでも続いているだけだ。しかし、時折上の方に、人の輪郭をした、透明な幽霊のようなものがひらひらと流れて行くのが見えた。

ベルグリフは後ろを見た。毛糸が一筋、ずっと向こうまで伸びている。警戒して、毛糸玉を垂らしながら歩いているのだ。意味があるかは分からないが、帰り道の当てがあるというのは精神的に楽になる。尤も、長さが足りるかが分からないのだが。

しばらくは警戒して黙ったまま進んでいた一行だったが、やがて静寂に耐えきれなくなったのか、誰からともなく口を開き、話が始まった。

「……事象が集束したと言っていたんだよな?」

「うん。与太話だと思ってたけど、こりゃ本当だったかな……」

カシムがそう言って頭を掻いた。

帝都でサラザールが言っていたという事象流の話は、ベルグリフにもよく分からなかった。カシムですら理解が追い付いていないのだから仕方がない。

ただ、シュバイツがそれによって引き起こされる空間の穿孔を狙っていたらしい事は確かだ。何故その鍵がアンジェリンだったのか。それはまだ分からない。

アネッサが言った。

「……アンジェが人間なのは、魔王の魂を持ってエルフの体から産まれたかららしいです」

「誰から聞いたの、それ?」

カシムが言った。ミリアムが答える。

「アンジェが言ってたんですよ。一人でおばばに会いに行って色々聞いて来たみたいで」

「マリアさんの言う事なら……信ぴょう性はあるか」

「しかし、魔王とエルフの合いの子は人間か? おれにはよく分かんねえ」

とマルグリットが言った。アネッサが腕組みする。

「えっと、人間の魂は中庸で、白でも黒でもなくて……」

「ふむ……どっちにもなり得るって事か。良い奴も悪い奴もいるみたいに」

「それと事象の流れがどう関係するんかねえ……シュバイツの奴、面倒な事ばっかり考えやがって、まったく」

カシムが嘆息して、やれやれと頭を振った。

話をする連中をよそに、黙ったまま先頭を歩くパーシヴァルを見て、ベルグリフは目を細めた。

「パーシー……大丈夫か?」

「心配すんな。アンジェを斬ろうなんて考えはねえよ」

パーシヴァルは素っ気なく言った。この素っ気なさは、あえて感情を出さないようにしているな、とベルグリフは思った。あれから二十年以上の時間を、アンジェリンに宿った魔王を求めて戦い続けていたのだ。そう簡単に割り切れるものでもないのだろう。

ベルグリフは目を伏せて髭を捻じった。

「……すまん。だが、こればかりは俺も譲れない」

「いいんだよ。元々俺の独りよがりでしかねえ」

パーシヴァルは大きくため息をついた。

「俺にとって……あいつへの怒りと憎しみは生きる原動力だった。遠慮なく憎しみを抱ける相手がいるってのは心を荒ませるが、自分の立ち位置をはっきりさせてもくれる……あいつは、何のしがらみもなく、追いかけて殺せる相手だと思ってた。ごほっ、ごほっ」

パーシヴァルは匂い袋を取り出して口元に当てた。

「……それがお前の娘になってるなんてな。ったく、俺は親友の娘を殺す趣味はねえんだぞ。俺の怒りは何処に向けりゃいいんだよ」

パーシヴァルはわざとらしくおどけて言った。それが痛々しくて、ベルグリフは言葉が紡げなかった。

しかし後ろからマルグリットがひょいと顔を出す。

「怒るのを止めりゃいいじゃねえか。いつまでもしかめっ面しやがって、そんなだから怪物って言われんだよ」

「あんだと!」パーシヴァルは怒鳴った。

「なんだよ!」マルグリットも怒鳴った。

パーシヴァルはしばらく顔をしかめていたが、やにわに大口を開けて笑い出した。

「はっははは! 本当にそうだな! いつまで怒ってるつもりなんだかな、俺は」

カシムが吹き出して笑い出す。

「お馬鹿には敵わないねえ、パーシー」

「誰が馬鹿だ!」

とマルグリットが頬を膨らます。何となく雰囲気が和らいだ。その間にも一行は歩を進める。しかし周りの景色は変わらない。

雰囲気は和らいだが、とベルグリフが何となくバツの悪い顔をしていると、パーシヴァルにばしんと背中を叩かれた。

「そんな顔するんじゃねえよ、ベル」

「う……すまん」

「俺も全部吹っ切れたわけじゃねえ。だが今はそんな事は言いっこなしだ」

「……ありがとう」

ベルグリフは微笑んだ。

それからまたしばらく早足で進んだ。地面があるのかも分からないような空間だが、ずっと平坦である。毛糸の玉はもう二つ使った。残りが少なくなると端を結び合わせて継いで来たが、このままでは不安になって来る。

ふと、何か奇妙な気配が満ちて来た。少しずつ黒い靄が辺りに漂い出していた。元々周りが暗いから誰も気に留めていなかったのだが、その濃度が明らかに増している。

聖剣が一際大きく唸った。

「――! 何か来るぞ!」

ベルグリフが言った。一行はたちまち得物を構えて周囲を警戒する。靄に紛れて、まっ黒な人影のようなものが幾つも近づいていた。掴みかかって来ようとしていたそれを、カシムの魔法が吹き飛ばした。

「魔王……じゃなさそうだけど、味方でもなさそうだね」

「へへっ、退屈してたんだ。ちょうどいいぜ!」

マルグリットも張り切って剣を振りかざし、近づいて来た黒い影に斬りかかった。影は何体も闇の向こうに潜んでいるらしかった。それがアンデッドのようなふらふらした動きでこちらにやって来る。

パーシヴァルが剣の一振りで五、六体をまとめて吹き飛ばした。

「俺は機嫌が悪いんだ……憂さ晴らしさせてもらうぜ」

影は切り裂かれると靄になって消えた。人影を倒すほどに、靄が晴れて行くような感じだった。これは一体何なのだろう。そもそもこの空間はどういう場所なのだろう。

不意に、ベルグリフの幻肢痛が疼いた。手に持った大剣が唸った。薄くなった靄の向こうに、何かが膝を突いているのが見えた。その人影を中心に靄が軽く渦を巻いているように見えた。

「……! アンジェ!!」

ベルグリフは叫んだ。

膝を突いていた影はびくりと体を震わせてこちらを見た。確かにアンジェリンだ。すっかり怯えたような表情で、涙をいっぱいにたたえた目でこちらを見ている。困惑しているようにも見えた。

「アンジェ! 戻って来い! 逃げるなんて、お前らしくないぞ!」

「そうだよ! わたしたちを見捨てて行くつもり!?」

アネッサとミリアムが叫ぶ。アンジェリンは耳を塞ぐようにしていやいやと頭を振った。

――わたしに皆といる資格なんかない!

口から発された、というよりは、空間そのものが振動したように聞こえた。マルグリットが怒ったように声を荒げる。

「資格なんか要るか! 勝ち逃げなんて許さねえぞ、馬鹿アンジェ!」

マルグリットは迫って来た影を一気に蹴散らすと、アンジェリンに向かって駆けた。アンジェリンは怯えたように身をすくませて、マルグリットの方に両手を出した。

――来ないで、マリー!

黒く染まった指先が槍のように伸びた。マルグリットは目を剥いて身をかわす。それでも肌に切り傷が走り、鮮血が滲んで舞った。

意図した事ではなかったらしく、アンジェリンの方が困惑したように手の平を見、焦ったように身じろぎした。

「テメエ……いいぜ、ボコボコにして無理矢理連れて帰ってやる!」

マルグリットはいきり立って剣を構え直した。

だが、頭上から奇妙な気配がした。見上げると、一際大きな影が頭上から一行を見下ろしていた。嫌に長い手を突いて、こちらに覆いかぶさるような格好だ。

「新手か!」

「くそ、数ばっかり多い……」

ミリアムの雷鳴がとどろき、アネッサの術式入りの矢が炸裂する。それでも影はより勢いを増して、靄の向こうから次々と現れた。

「うーん、大魔法撃ちたいけど、アンジェも巻き込んじゃうし……」

魔弾を連射しながらカシムがぼやいた。

「ベルさん……」

ミリアムがすがるような目をしてベルグリフを見た。アネッサもジッとベルグリフを見ている。

「俺がやる」

ベルグリフは聖剣を握り締めて一歩前に出た。アンジェリンがびくりと体を震わせる。

――来ないで!

しかしベルグリフは剣を振りかざした。

大きく息を吸い、吐くと同時に剛! と振り下ろす。激烈な魔力が迸り、一行に殺到していた影たちがまとめて吹き飛ばされた。

剣と魔力とが放つ光が辺りを照らし出し、影たちの動きが鈍くなった。

アンジェリンは苦しそうに頭を押さえながら立ち上がると、踵を返して駆け出した。奥の方は一層靄が濃いらしい。その中へと駆け込んで行く。

向こう側に微かに穴のようなものが見えた。そこへ逃げ込んで行くらしい。ベルグリフは一気に地面を蹴ってアンジェリンの後を追う。

「アンジェ! 待て! いい加減にしねえと怒るぞ、俺は!」

パーシヴァルが怒鳴って、ベルグリフに続いて行こうとしたが、影が飛び込んで来て足が止まった。

ベルグリフが靄の中を通り抜けると、剣の光が鈍くなった。まるで自分たちを拒むアンジェリンの意思を表すように、影たちは周囲から現れ出でて、一人飛び出したベルグリフと、その後ろの仲間たちを分断した。

さっきまでの影とは違って、倒しても靄が薄くならない。むしろ濃くなって周囲を取り巻いた。体が重くなるようだった。

「くそ、邪魔だ!」

「ベル!」

ベルグリフは走りながら後ろを見た。間にはすっかり影が詰まって、仲間たちは合流できそうにない。それどころか、さらに数を増して、すっかり取り囲まれているようだ。

このままではまずい。

ベルグリフは手に持った大剣に言った。

「皆を守ってやってくれ」

そうして後ろを向き大剣を振りかざすと、思い切り放り投げた。ずん、と地鳴りがして剣が地面に突き立ち、刀身が唸りを上げて光り輝く。影たちの動きが鈍くなった。

カシムが目を剥く。

「ベル、どうするつもりだよ!」

「あの子は俺に会いたがってる。父親が娘と話すのに武器は要らないさ」

そう言って、アンジェリンの行った方向に向かう。靄の向こうの穴は小さくなっている。不思議と、影たちはベルグリフには向かって来ない。もしこの影がアンジェリンの意思だとすれば、彼女は自分を求めている。そんな風に思う。

パーシヴァルが影を斬り裂いて叫ぶ。

「おい! ベル!」

「待っていてくれ。必ず戻るから」

「――ッ! 馬鹿野郎が! 絶対に戻れよ! 二人でな!」

パーシヴァルは怒鳴って、上から伸びて来た大きな手を粉砕した。

「信じてるぞベル! 皆揃って晩飯食おうなー!」

「ベルさん、お願いします!」

「戻って来てくださいね! アンジェと一緒に!」

「死んだりしたら承知しねえからな!」

カシムと少女たちも口々に叫ぶ。ベルグリフは小さく頷いて応えた。

進む程に幻肢痛がひどくなる。しかしベルグリフは歯を食いしばった。こんなもの何という事もない。

やがてベルグリフの姿も見えなくなった。

パーシヴァルが裂帛の気合で剣を振る。物凄い剣撃が勢いの鈍った影たちを薙ぎ払い、その余波だろうか、靄すらも薄くなった。

靄は晴れたが、その向こうに見えていた筈の穴は消えてなくなり、ベルグリフが垂らしていた毛糸も、そのあたりでふっつりと消え去っていた。

聖剣が悲し気に唸った。誰もが脱力したように肩を落とす。カシムは山高帽子を顔に傾けた。

「行っちゃったね……」

「うぅ……」

ミリアムは涙をこらえるようにしてアネッサに抱き付いた。アネッサは唇を噛むようにして、その背中を撫でている。マルグリットは険しい顔をして穴のあった場所を睨んでいた。

パーシヴァルが呟いた。

「……戻って来いよ。信じてるぞ」