作品タイトル不明
第13話 隣国の影
「ヴェルデの山は、昔から我がカルディアのものだ」
書簡の一文目を、私は声に出して読んだ。エスタード向けの翻訳作業の手を止めてまで読み直したのは、一文目のカルディア語があまりにも下手だったからだ。
「ものだ」の部分。カルディア語で「帰属する」を意味する動詞の活用が間違っている。過去形と現在形が混同されていて、直訳すると「昔からものであった、いまもものである」になる。文法的に破綻している。カルディアの外交局が正式に送った書簡で、母国語の文法を間違えるだろうか。
(わざとかしら。それとも、有能な外交官が不足しているのか)
どちらにしても、相手の能力を侮るのは危険だ。文法の間違いを笑うのは外交官の仕事ではない。だが、この一文から読み取れることがある。カルディアは、この要求を急いで出した。推敲の時間がなかった。つまり、何か動機となる出来事が最近あったのだ。
レオンにその分析を伝えると、彼は顎を引いた。
「同じ読みだ。カルディア国内で何か動きがあった可能性がある。情報部に確認させる」
この人と仕事をしていると、分析の角度がほぼ同じだ。「六カ国語が読めるヴィオレッタ」と「戦略に落とし込めるレオン」の組み合わせは、一人で四カ国分をこなしていた侯爵家の頃より、はるかに効率がいい。
一人で全部やらなくていい。それだけで、こんなに呼吸が楽になる。
◇
一週間後。各国からの返答が揃った。
エスタードのカルロ大使は、法律文体の慎重な文面で「懸念を共有する」と回答した。ラドニアのグレイル大使は、ラドニア語で短く「ヴィオレッタ殿の判断を信頼する」。フェリシアのロゼ大使は「フェリシアは一方的な領土変更を認めない」と明確に。
三カ国から前向きな返答。初動としては上出来だった。
「ヴィオレッタ殿の名前が効いているな」
レオンが言った。「殿」が戻っている。公式の場では敬称を使う。この切り替えの正確さが、この人の外交官としての骨格だ。
議会への報告会が午後にあった。ヴェルデ公国の議事堂「鷲の間」。石造りの円形議場。天窓から入る光が、磨かれた石の床に白い円を描いている。
議員たちの前で、レオンがカルディアの要求と各国の反応を報告した。私は参事官として同席し、各国書簡の翻訳要旨を補足した。
報告が終わったとき、議員席の最前列で、一人の老人が立ち上がった。
白髪を短く刈り込んだ、がっしりした体格の男。五十代後半。目つきは鋭いが、声は落ち着いている。老練な政治家の佇まいだった。
「オットー・ハーゲン議員だ。保守派の筆頭」
レオンが小声で教えてくれた。
「大使。参事官殿の外交手腕が優秀であることは認める」
オットー議員の声が、円形議場に反響した。
「三カ国から好意的な返答を得たのは見事だ。だが一つ、指摘しておきたい」
間を取った。老練な間の取り方だ。議場の全員の視線を集めてから、次の言葉を放つ。
「外国人に、我が国の機密情報を握らせてよいのか」
議場がざわめいた。
オットーが続ける。
「カルディアの脅威に対応するためには、軍事情報も含む機密の共有が必要になる。その機密を、他国籍の参事官が閲覧する。もし万が一、この人物が敵国に情報を漏らした場合、公国は壊滅的な打撃を受ける」
「もし万が一」。仮定の話だ。だが、仮定の話を政治的武器にするのは、議会政治の常套手段だ。
「二十年前のことを覚えている者は多かろう。カルディアの間諜が公国に潜入し、軍事機密が漏洩した事件だ。あの時の教訓を忘れてはならない」
二十年前のスパイ事件。レオンが先日「歴史的根拠がある」と言ったのは、これか。
オットー議員の目が、一瞬だけ私を見た。敵意ではなかった。冷静な。査定するような目。この人は感情で動いているのではない。政治的な計算で動いている。
だからこそ、厄介だ。感情なら論理で返せる。計算には、計算で返すしかない。
レオンが立ち上がった。
「ハーゲン議員の懸念は理解する。しかし、シュテルン参事官は正式な手続きを経て着任しており」
「正式な手続き」
オットーが、さらりと遮った。
「外務卿の招聘による着任は、議会承認を経ていない。公国法第四十七条に基づく機密アクセスの議会承認は、まだ行われていないはずだが」
議場が、しん、と静まった。
公国法第四十七条。レオンの表情が変わった。わずかだが、眉間に皺が寄った。知らなかったのではない。この条項の存在は知っていた。だが、それが今、この形で使われることを想定していなかった。
私も想定していなかった。この条項がどこまで有効なのか、確認する必要がある。
(……まさか、問題にならないわよね)
法の穴。嫌な予感が、胃の底を冷やした。
「本日は指摘にとどめる。だが、カルディアの脅威が増す中で、この問題は避けて通れまい」
オットーが席に座った。周囲の議員が小声で何かを言い交わしている。保守派の数名が頷いているのが見えた。中立派の議員は表情を変えていない。だが、変えていないこと自体が、態度の留保だった。
議場のざわめきが、波のように広がっては引いていく。石の壁に声が反響して、方向がわからなくなる。
◇
議事堂を出ると、冬の空気が頬を刺した。石段を降りながら、足が少し重い。
「ヴィオレッタ」
レオンが追いかけてきた。
「ハーゲンの指摘は」
「正しいわ」
振り返らずに言った。
「法的には正しい。私の着任は議会承認を経ていない。それは事実よ」
「だが、君の忠誠は」
「忠誠の問題じゃない。手続きの問題。外交官なら、わかるでしょう」
声が、少し固くなった。自分でわかった。レオンに当たっているのではない。自分に腹を立てているのだ。見落としていた自分に。
侯爵家で五年間、条約文の一語一句をチェックしてきた女が、自分の着任手続きの法的根拠を確認していなかった。
どこにいても。何語を話しても。
(ここでも、私は「外の人間」なのかしら)
その思考が浮かんだ瞬間、奥歯を噛んだ。まだ何も決まっていない。オットーは指摘しただけだ。法案はまだ出ていない。
「対策を考えましょう。カルディアの問題と並行して」
レオンが頷いた。何も付け足さなかった。この人は、私が冷静に戻るまで待つ。いつもそうだ。
議事堂の屋根の上に、鷲の紋章が冬の空に浮かんでいる。ヴェルデの紋章。この国の紋章。
私の国ではない。でも、私の仕事場だ。
まだ、ここにいる。