作品タイトル不明
私の主君② ※アンネ=オールソン視点
■アンネ=オールソン視点
二年間の訓練の後、私は再び貧民街に戻った。
あの御方(・・・・) のお 傍(そば) にいた時はあれほど身綺麗にしていたこの身体も、今ではみすぼらしく、薄汚れていた。
あの、雨の日のように。
また逆戻りの生活に戻った私だけど、身に着けた諜報員としての技術のおかげで、食べるものに困ることはなかった。
お金が欲しければ奪えばいいし、邪魔をする者、言い寄ってくる者は 消せば(・・・) よかった。
そんな、十二歳のある日。
「ほう……」
「…………………………」
ようやく、目的の男の目に留まることができた。
ファールクランツ侯爵家の執事長にして、帝国最高の暗殺者であるモルテンに。
この男、貧民街の子供を拾っては、訓練を施してファールクランツ家の諜報員に仕立て上げている。
子供の頃から恩と技術を植えつけ、ファールクランツ家が帝国の 影(・) を支配するために。
そうして、ファールクランツ家の諜報員として鍛えられる日々の中で、私は 姉(・) と呼べる存在に出逢ってしまった。
彼女……マーヤ=ブラントに逢わなければ、私はこんなにも苦しむ必要はなかったのに。
そんな姉が引き合わせた、私の もう一人(・・・・) の主(・・) となる御方。
――ファールクランツ家令嬢、リズベット=ファールクランツ。
マーヤ姉様の言うとおり、彼女は美しく、気高く、温かかった。
冷たさを見せるアクアマリンの瞳の奥底に、慈愛を 湛(たた) える、素晴らしい少女。
私は、この少女を守りたいと思った。
……いえ、私はリズベット様に重ね合わせていたのだ。
離れ離れになった、妹のサンドラを。
そんな余計な情が湧いてしまったから、私は今、苦しんでいる。
そうでなければ、すぐにでも楽になれたのに。
でも……そんな苦しみも、いよいよ終わりを迎えるの。
だって。
「……アンネ。あなた、まだ白状しないそうですね」
「…………………………」
ファールクランツ家の地下牢の中、マーヤ姉様が腕組みをしながら、私を見下ろしている。
そのアメジストの瞳は冷たさを感じつつも、その奥底に悲しみを 湛(たた) えていた。
……本当に、諜報員失格だと思う。
マーヤ姉様は、諜報員としての実力はモルテン執事長にも匹敵するほどなのに、情に流されやすい。
ルドルフ殿下やリズベット様に対しても、主君と部下の一線を越えて尽くしており、その姿は弟妹を想う姉にしか見えない。
この私(・・・) にすら、実の妹のように可愛がってくれるのだから、仕方のない人だ。
「いい加減、全てを吐いたほうが楽になれますよ? 私とは違い、お館様や奥方様、それに師匠は甘くありません」
「もちろん、それは知ってますよ」
「なら!」
「ですが、私が あの御方(・・・・) を裏切るなど、あり得ません。 あの御方(・・・・) は、この私の 全て(・・) なんです。たとえマーヤ姉様でも、こればかりは譲れない」
必死に訴えるマーヤ姉様を、私はあえて突き放した。
いい加減、私のことは見捨ててほしい。
そうじゃないと、余計につらくなるから。
「よく聞きなさい。あなたが心酔するヴィルヘルムは、要塞都市ヴァンダの城壁から、遥か下の川底へとその身を投げました。あの高さでは、確実に死んでいることでしょう」
「…………………………」
「ねえ、アンネ……あなたが わざと(・・・) 私達に気づかせくれたこと、分かっています、あの男の……ヴィルヘルムの所業を、阻止したかったのでしょう? だからあなたは、すぐに分かってしまうような嘘を吐き、アピウムの香りまで漂わせて……」
私はこれ以上マーヤ姉様に顔を合わせることができず、ただうつむく。
もし顔を上げてしまったら、私はこの 仮面(・・) を保つことができなくなってしまうから。
そして、しばらく沈黙が続いた後。
「ふう……本当に、頑固ですね。諜報員としては、それが正解なのですが」
深く息を吐いてそう言うと、マーヤ姉様の苦笑する声が漏れた。
マーヤお姉様はいつもそう。普段はあんなにも厳しいくせに、結局はこうやって折れるんだもの。
本当に、お人好し。
「……また明日、来ますね」
「…………………………」
無言でうつむく私にそう告げ、マーヤ姉様はようやく地下牢から去った。
私は……。
「フ……フヒ……」
駄目だ……私はもう……。
「フヒハハハハハハハハハハハハハハ!」
とうとう 堪(こら) えきれなくなり、顔を歪めて 嗤(わら) ってしまった。
「フヒヘハハハアッ! あの屑(・・・) 、 予定どおり(・・・・・) 死んでくれましたか!」
そう……私はこの時を待ち望んでいた。
三年前、リズベット様を 篭絡(ろうらく) するために、あろうことかこの私に言い寄ってきた、 あの屑(・・・) が無残に死ぬ瞬間を。
何より、リズベット様の思い出を踏みにじり、騙して自分の もの(・・) にしようとしたのだ。その罪、万死に値する。
「フヒヒヒ……ハア。ですが、全ては 筋書どおり(・・・・・) 。これで あの屑(・・・) は……ヴィルヘルム=フォン=スヴァリエという男は、この世界から消え失せたのです」
私は表面上は落ち着きを取り戻すも、地下牢の天井を見上げ、心の中で歓喜に震える。
ああ……これで あの御方(・・・・) の、望みが叶う。
この私とサンドラを救ってくださった、尊き御方。
崇高な想いと大志を抱き、私達姉妹を導いてくださった御方。
あの御方(・・・・) の成就を思えば、両腕両脚の骨を折られた痛みも、アピウムの副作用による苦しみも、私のこの喜びを邪魔することなどできない。
むしろこの身体も、ここまでお役に立てたのだから本望だろう。
あとは。
「サンドラ……あなたは、幸せになってね」
そう呟くと、私は結った髪の中に隠し持っていた、たった二センチしかない刃物を取り出した。
でも、これで充分。
これで……ちゃんと 届く(・・) から。
「 ヴィル(・・・) ヘルム様(・・・・) ……お慕いしております」
私は、目の前の勢いよく広がる赤の噴水を見つめ、ゆっくりと目を閉じた。