軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

02:小さな公爵令嬢はじめての転倒

ブルーローゼス公爵家は大陸一の名家である。

歴史も権威も他の追随を許さぬほど。大陸内でその名を知らぬ者は居らず、海を渡った先にまで名声は広がっている。

それほどの家なのだ、主人達はもちろん使用人達でさえ常に余裕を持ち、落ち着き払って日々を過ごしていた。

……そんなブルーローゼス家に、衝撃の伝令が走った。

『シャルロッテ様が転んだ』と。

遡ること一時間程前。シャルロッテは通路をパタパタと走っていた。

クラリスからお菓子が届いたと聞いて母の部屋に向かっていたのだ。

友人であり憧れの令嬢クラリス。彼女が送ってくれたお菓子。それを母が預かり部屋で待ってくれている。

何から何まで期待が高まり、逸る気持ちが押さえられない。

「シャルロッテ様、そんなに急いでは危ないですよ」

とはシャルロッテの後を追うリシェル。

彼女の声が聞こえてはいるが、早く早くと気持ちが急いてしまう。

一度は足を止めてみたもののやはり落ち着かず、歩こうとしても次第に歩みが早まり、結果的にはパタパタと走っていた。

そうしてフレデリカの部屋の直前まで来て……、

「あっ」と、シャルロッテが咄嗟に声をあげた。

右足を出そうとしたが爪先が通路のラグに引っかかってしまったのだ。グンと体が不自然に揺らぎ……。

ズベシャァアと無惨な音がしそうなほど勢いよく転んでしまった。

それはそれは豪快に。

体も、顔面も、咄嗟に伸ばした手も、なにもかもを打ち付けて。それどころか勢いのせいで若干滑りまでした。

「シャルロッテ様!」

リシェルが悲鳴じみた声をあげて駆け寄ってくる。

彼女に抱えられるようにして立ち上がるも、シャルロッテは呆然として返事が出来ずにいた。

膝がヒリヒリする。膝だけじゃない、咄嗟に床についた手のひらも、ぶつけた体も、ごちんと打った額も、すべてがビリビリヒリヒリする……。

それに心臓がドクドクして息が苦しい。ぎゅっと胸元を掴めば、リシェルが「痛いのですか!?」と慌てて尋ねてきた。

「だ、大丈夫、だけど……、ド、ドキドキ……して……」

「本当に大丈夫ですか? どこか痛い箇所はありませんか。立っていて足が痛いとか、頭がクラクラするとか……。あぁ、私がきちんとお止めしていればよかったのに……。申し訳ありません、シャルロッテ様」

「大丈夫……、ロ、ロッティ、痛くないです……」

本当は膝も手も額もヒリヒリする。心臓がぎゅうと掴まれているようで、それでいてドキドキする。

だがそれを話せばリシェルに心配させてしまう。そう考えて大丈夫だと喋ろうとするもうまく言葉が出てこない。

そんなやりとりが聞こえたのか、扉が微かな音をたてて開いた。

部屋から出てきたのはフレデリカだ。呆然と立ち尽くすシャルロッテと、しゃがみ込み顔を覗き大丈夫かと必死に問うリシェルの姿を見て、さすがのフレデリカも目を丸くさせている。それでもシャルロッテに何かあったと直ぐに察して足早に近付いてきた。

「どうしたの、シャルロッテ」

「奥様、申し訳ありません。私の不注意でシャルロッテ様が転んでしまって……。私がきちんとお止めしていればこんな事にならなかったのに……

!」

「あ、あのね、リシェルのせいじゃないの……、ロッティが走って、それで、それでころんじゃって……」

まるで自分が転んだかのような悲痛そうな声でリシェルが己の非を訴えれば、シャルロッテもまた胸元を掴んだまま自分のせいだと訴える。

片や慌てて片やそわそわと落ち着きなく話す。どちらも自分のせいだと一点張りだ。

そんな二人を見て逆に冷静になったのか、フレデリカが一度深く息を吐き「落ち着きなさい」とシャルロッテとリシェルを宥めた。

◆◆◆

「軽い擦り傷です。消毒をして触らずにいればすぐに治りますよ」

穏やかに微笑む医者の言葉に、シャルロッテはコクリと頷き、隣で真剣に話を聞いていたリシェルがほっと安堵の息を吐いた。

あの後、医師を呼んで全身くまなく診てもらった。ぶつけた額もだ。

幸いどこも擦り傷程度で、消毒をしてもらって終わった。医者が言う通り軽傷なようで、まだ少しヒリヒリと痛むがそれも次第に薄まってきている。

「シャルロッテ様、よく泣かずに耐えましたね」

「だって、ロッティが……、ロッティが走っちゃって……」

だから、とシャルロッテがたどたどしく話していると、バタバタと足音が聞こえてきた。

部屋に入ってきたのはジョシュアを始めとする兄達。まるで飛び込むと言える勢いである。

「シャルロッテ、転んだと聞いたが大丈夫だったのか?」

「連絡がきてびっくりしたよ。怪我はない? 痛くない? あぁ、可愛いおでこが赤くなっちゃってる」

「つ、通路を走っていて、転んじゃったんだよね……? ラグが歪んでたのかな……。あ、危ないから、調べておこうか」

「転んだのは母上の部屋の前だと聞いたが、屋敷中を調べた方が良いかもしれないな」

部屋に入ってきたかと思えばシャルロッテを囲んで話しだす。話題はもちろんシャルロッテについて。

大丈夫かと案じ、転んでしまった要因を探り、どう改善するかを真剣な表情で話し合う。もちろん合間合間にシャルロッテに声を掛け、時には頭を撫でながら。

突然の兄達の登場と早々に始まる話し合いに、シャルロッテは目を丸くさせ「あの」だの「ロッティ、大丈夫です」だのと繰り返すだけだ。

いまだ胸元をぎゅっと掴んだまま……。

「ロッティが、走ったからです……。だからロッティ、泣かなくて……」

「そうですね、シャルロッテ様は転んでも泣かずにいて偉かったですね」

必死にシャルロッテが話せば、それを医師が褒める。彼に続いて、兄達も、そして心配で様子を見に来ていた者達も口々に褒めだした。

泣かなくて偉い。立派だ。強い。さすが。そんな言葉が次から次へとシャルロッテに贈られる。

シャルロッテはそれを一つ一つ受け、コクコクと頷いて返していた。……まだ胸元を掴みながら。

そんな中、フレデリカだけは褒めることはせず、静かにじっとシャルロッテを見つめていた。

「シャルロッテ」

「お母様……」

母に呼ばれてシャルロッテが彼女を見れば、まるで「おいで」と言うかのようにゆっくりと両腕を広げてきた。

抱きしめてくれる。そう考えて吸い込まれるように身を寄せれば、フレデリカの細い腕が体を抱きしめてくれた。ふわりと花の香りが鼻をくすぐる。

暖かくて柔らかくて心地良い。母の香りに包まれているようで心地良い。……のだが、やはりまだ心臓はぎゅうと掴まれたように苦しい。

「シャルロッテ、痛くてビックリしたなら泣いていいのよ」

「……で、でも、ロッティが走ったからで、だから、泣いたらだめで」

「転んじゃったんだもの、泣いたって仕方ないわ」

フレデリカの声は普段よりも優しく、シャルロッテの胸に溶け込んでいく。

その声に後押しされるようにシャルロッテの視界がじわりと滲み始めた。既に膝も手のひらも額も痛みは引いてきているが、それでも思い出してしまう。

転んでビックリした。

擦りむいて痛かった。

うまく走れなくて恥ずかしい。もどかしい。

そんな感情が渦巻いて心臓がぎゅうと掴まれたように苦しい。

だけど……。

「で、でも、泣いたら、うるさいって……、うるさいから、だまれって……」

だから泣いてはいけない。そういつも自分に言い聞かせていた。

色々な感情が渦巻いて泣きそうになるのを、胸元をぎゅっと掴んで押さえつけて……。

弱々しい声でシャルロッテがフレデリカにしがみつきながら話せば、彼女の手がそっとシャルロッテの背に触れた。

まるで胸の中で渦巻く感情を宥めるかのように優しく、ゆっくりと、背を撫でてくれる。

「シャルロッテはうちに来てから滅多に泣かなかったものね。我慢してたのね」

ブルーローゼス家に来てから、シャルロッテが泣いたのは片手の回数ほどしかない。

それも殆どは目に涙をためて洟を啜る程度。もしくは静かに涙を零して自分で拭うか。声を上げて泣いて訴えたのは、ハンクが隠していた精霊の件を皆に知られた時だけである。

だがシャルロッテぐらいの年齢の子供はもっと頻繁に泣くのが普通である。それも声をあげて、時には地団太を踏んだり、果てにはひっくり返ったりして。

なにせ幼い子供にとって『泣く』というのは感情の表現であり訴えの手段でもあるのだ。

痛い怖いという単純な衝動から泣くこともあれば、自分の中でうまく整理しきれない感情の発散として泣くこともある。時には我を通すための手段として泣いたり、泣いている内にわけが分からなくなりそれにより更に泣いて……等ということもある。

考えや感情が成長しているからこそとも言えるだろう。そうやって次第に感情を整理する方法や泣く以外の手段を学んでいくのだ。

だけどシャルロッテはその大事な成長の段階を潰されていた。

痛い怖いという単純な衝動も、複雑な感情も、なにもかも高圧的に押さえ込まれていたのだ。

うるさい、黙れ、と非道な罵倒で。もっとも、仮にシャルロッテが泣くことを許されたとして、訴えを聞く者などいるわけが無いのだが。

それを考えれば居合わせた者達の誰もが胸の痛みを覚えた。

泣くことさえ許されず、助けられ新たな生活を得た今もなおそれを引きずり、泣くまいとしているシャルロッテのなんと痛々しいことか。

「大丈夫よ、シャルロッテ。泣いていいの。でも泣き終わったらまた可愛い笑顔を見せてちょうだい」

「な、泣き終わったら……?」

「そうよ。気持ちをすっきりさせて、また可愛い笑顔に戻るの。だから今は泣いて良いのよ」

フレデリカの話に、シャルロッテは彼女の腕の中で小さく「お母様」と呟いた。

鼻の奥がツンと痛む。視界がじわじわと滲む。転んだ時の痛みが、驚きが、じわじわと蘇ってくる。

そうして堪えきれなくなり、フレデリカの体に腕を回してぎゅうと抱き着いた。

「な、泣いてもいいですか……?」

「いいのよ。泣き止むまでお母様が抱きしめていてあげる」

「ロッティ、転んで……、い、いたかったのぉ……、ビックリして、それでっ、それでぇ……!」

フレデリカにしがみついたまま情けない声を漏らし、ついにはふぇぇと大きな声をあげて泣き出した。