軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

171話 ある夫婦の会話

青上月。寒さも和らぎ、春の息吹を目いっぱい感じる時。

山々は美しく緑の衣装をまとい、川は雪解けの水で澄み渡り、大地は色とりどりの花々が美を競う。

素晴らしきは命の旋律。厳しい冬を乗り越えて咲き誇る生命の喜び。

多くの命を奪い合った戦争の後であるからこそ、掛け替えのない歓喜の歌を唄うは必然。

山でも、草原でも、森でも。

そして、港町でも。

神王国南部。レーテシュ伯爵領では、先ごろようやく戦争の後始末が終わった。

講和の諸条件を詰め、履行を確認し、双方に順次撤兵をしていく。論功行賞があり、戦時の犯罪者について即決の軍事裁判を行い、被害には加害者からの補填を行う。王家主導のこれらが全て完了したということだ。

戦いの主力を担った上に、戦場から最も近い前線基地の提供者としての役割も果たしていたレーテシュ家。王家に次いで忙しかったのはこの家だっただろう。

「やれやれ、やっとひと段落か」

セルジャン=レーテシュは、伯爵家当主代行として、また海軍総指揮官として、最後の一軍がレーテシュ領から出ていくまでの見送りを終えた。これでようやく終わったと、安堵すること頻りである。

もっとも、外交交渉という仕事はまだまだ山積みになっているのだが、それは自分の出番ではないという意味での安堵。軍事以外の部分は、彼にとって専門外の分野だ。政軍分離は当代レーテシュ家の基本姿勢である。

セルジャンは、ぐっと背筋を伸ばしたところで、疲れが僅かに抜ける気がした。

「ふう、城に戻るか」

誰聞くことも無いであろう、独り言を呟く。どうにも、ここ最近一人で決済する仕事が多かったために、癖になってしまったようだ。疲労もあるのだろう。

セルジャンが疲れるのも仕方がない。

この世界では国際法などというものは存在しない為、民間人への被害補填も各貴族の裁量や権限によって違う。王子を筆頭にした神王国軍の本隊が駐留していたレーテシュ領では、各貴族によるレーテシュ領民への不法行為や非道行為も確認されていた。

一応、軍規に則して、無用な騒乱行為は王家の名のもとに処罰されるが、例えば戦時徴発の名目の物資横領などは始末が悪い。

戦地において、現地調達というのは極々当たり前の行為として行われているわけで、線引きが難しい。

例えば食料を手に入れる際、対価が支払われていたとする。その対価が、明らかに少ないと思われる場合、これは不当な収奪と言っても良い。麦十袋に銅貨一枚、などとなれば盗みとほとんど変わらないだろう。

しかし、どの程度の対価ならば適正かというのは非常に難しく、戦時の相場と平時の相場の違いから揉めることもザラ。

或いは、支払いの猶予、いわゆるツケがあった場合なども厄介だ。金を貸しているのに等しいことになるわけで、期限や利息といった問題が発生する。

そういった諸々の戦時のトラブル。王家が重しとなっている間に片づける為に、神経をすり減らして折衝したわけだ。

千差万別の諸問題を、一つづつ柔軟に対応する。要は、一つ一つの買い物の度に値段交渉をギリギリまでやって買うようなものだ。定価を見つつ予算を考えるよりも、万倍は疲れる。

肩を解しながらの移動。鍛えた人間と言えども、気疲れというのはどうしようもない。などと愚痴を零しつつ、城へ帰る為に歩く。

疲れた旦那が城に戻れば、そこには愛妻の姿があった。

丁度、子供の寝顔を確認しようとして子供部屋に来たセルジャンと、バッタリ鉢合わせる。

「あらあなた、丁度良かったわ。今から少し時間良いかしら」

上品に背筋を伸ばし、手を腰の前で組み、悠然と歩く女王然とした姿。ブリオシュ=レーテシュ伯その人だ。

妻の無常なお達し。

男は、子供の顔を見てからにして良いか、という言葉を飲み込んだ。入り婿としての悲哀がここにある。

「ああ」

軽く首肯して妻と共に執務室に入るセルジャン。

夫婦だけの時間。

愛を語らうのかといえばさにあらず。この部屋での会話は、えてして子供に聞かせたくないような、レーテシュ伯爵家の裏側であることが多い。

「嫌な情報が入って来たわ」

「嫌な情報?」

案の定、レーテシュ伯の顔には、不満が浮かんでいる。開口一番に嫌悪感を露わにした。

無論、腹芸とポーカーフェイスが求められるのが高位貴族というもの。神王国でも指折りの大貴族であるレーテシュ伯もそれは十分に承知しているし、余人以上に感情を隠して表情を取り繕う技術はある。

そんな彼女が感情を露わにするのは夫の前だからこそであり、不満や憤懣を思う存分ぶちまけられる数少ない人間がセルジャン。

これも信頼感と愛情あってのことである。

もっとも、ぶつけられる方は忍耐が要求されるのだが。

「ボンビーノ子爵の婚約者が決まったの」

「ほう。誰だ?」

嫌な情報という割に、朗報に思える内容。セルジャンは、片眉を上げる。

彼にとってボンビーノ子爵家当主ウランタは、同じ戦場で共に戦った戦友だ。

人間というものは、追い詰められた時や、極限状態の時にこそ真価が問われる。自らの生死の掛かる戦場とは、特に精神的に追い詰められやすいわけで、平時に幾ら優秀であろうとも、戦場でも優秀であるとは限らない。日頃は 賢(さか) しらで頼りになりそうな人間であっても、自分が死にかねない危地に立った時、驚くほどあっけなく狼狽する者を、セルジャンは何人も見て来た。或いは、自らの保身のために部下の命を見捨てて逃げるものや、自己犠牲を厭い裏切る者も珍しい話ではない。だからこそ、戦場で共に信頼して戦える友人というのは、性別年齢貴賤を問わず貴重といえる。

いざという時、頼りになる人間。戦友とは、そういう存在だ。

そんな大切な友人の慶事である。気になってしまうのは仕方がない。

「誰だと思う?」

「そのいい方なら、例の暴行冤罪の自称被害者では無さそうだな」

先ごろ噂になったボンビーノ家の醜聞。こんなものは、セルジャンからしてみれば鼻で笑うデマゴーグでしかない。あのウランタが、女性に襲い掛かるなどあり得ない。女性を守ろうとする高潔な騎士であると、セルジャンは知っている。そもそも、男としてまだまだその手の“色気”に疎い年齢だろう。百%の確信を持って、捏造と言い切れる風聞だ。

だからこそ、伸び盛りの若者の足を引っ張ろうとする連中には嫌悪感を隠さない。

「ええ。上手く躱したみたい。でも、その為の切り札が凄いわよ。なんとモルテールン家」

「何!?」

半ば諦念の込められた妻の言葉に、今度は片眉どころではなく、全身で驚愕を表現するセルジャン。

ウランタを戦友というのであれば、ペイストリーもまた同じである。同じ戦場で共に戦った経験を持つ。戦友というなら、条件は必要かつ十分に揃っている。

だが、同列に扱うのにはいささか無理がある相手。

ウランタの場合は、思考も発想も自分と近しい。相手が何を考えているのかが、大体わかるという意味で、お互いに背中を守り合う相棒になれる存在。優秀ではあっても、常識的な範疇。

対しペイスの場合は、思考も発想も自分とは隔絶している。理解不能。背中を任せていたら、いつの間にか頭の上に居たというぐらい訳が分からない相手。頼れるという意味では同じだのだが、振り回されるという意味で、自分やウランタよりも遥かに器量は上だろう。

その両者が結びつくとは思えず、違和感が半端ではない。

セルジャンの思考は、軍人のそれであるから困惑する。とても同列とは思えない人間同士なので、等号で結べないのだ。

だが、レーテシュ伯のように政治を思考のベースとする人間にはある意味で納得の方策。

政治の世界では、感情が物事を左右することがよくある。

トラブルが起きた時、理屈では分かっていても感情が納得しない、などとごねる人間が発生することなど珍しくもないし、人に物を頼むとき、合理ではなく好き嫌いや慣れで動くことだってある。

不合理であっても、とりあえず双方に少しでも利があるならば、如何に不公平に見えても一応は取引が成り立つこともあり得るだろう。

妻の落ち着いた態度を見て、セルジャンは自分の狼狽を恥じつつ、冷静さを取り戻す。

「あの家の五女が、ボンビーノ家に嫁ぐことになったそうよ」

「五女というと、確かジョゼフィーネ嬢だったな。以前、新茶会に来たときに会った」

「ええ。あの時は、ボンビーノ卿の方が熱を上げていたのは気付いていたけど、彼女の方はさほどでもない感じだった。嫌っている様子もなかったから、去年から幾ばくかの進捗があったんでしょうね」

男女の機微ほど、セルジャンにとって分からないことは無い。非常識人の行動ぐらいであれば、後からよく考えてああそうだったのかと納得することもあるだろうが、こと色恋沙汰に関しては、後から聞いてもさっぱり納得も理解も出来ないことがある。

「しかし、よくカセロール殿が許したものだ」

モルテールン男爵カセロールの親馬鹿は、神王国貴族ならば常識と言える。レーテシュ伯やセルジャンとしても、自分が親になってみたことで、より一層カセロールの親馬鹿振りを実感するようになった。自分達も子供は可愛いが、あそこまで子供に尽くせるのかという点で。

カセロールは、子供の為であれば仮に万軍の敵を前にしたとしても一歩も引かないだろうし、必要とあればどんな大金であっても用意するだろう。自分が死ぬとしても、他人の為に尽くせる男だ。

そう、誰もが信じられるからこそ、英雄は英雄と呼ばれる。

だがしかし、それ故にモルテールン家の娘を寄越せと言う勇気たるや凄まじい。それも、大貴族たちがこぞって競争している最中に割り込んでとなれば、中々出来ることでは無い。

よほど婚約を勝ち取れる勝算があったのか、或いは合理ではなく恋慕の感情で暴走したのか。何にせよ、普通の状況で無かっただろうことは察しが付く。

「男爵は反対だったそうよ。それを、とある人物が一策を用いて説得した」

「……モルテールン男爵家に我を通せるような人物が居たのか?」

当主たるカセロールは一代の英雄だし、その子ペイストリーは稀代の英才。従士長のシイツとも面識があるし、他の部下達も粒ぞろい。そんな連中に対して、我を通しきったとするのなら、それこそ脅威だ。

そうセルジャンは考える。

「居たのよ。貴方もよく知ってる人物。決闘でカセロール=モルテールン卿に勝って、要求を押し通したらしいわ」

カセロールが、救国の英雄とも呼ばれた豪傑が、一対一の決闘で負けた。それも魔法を使った上で。

レーテシュ伯は、初めにこの知らせを聞いた時、自分でも思った以上にショックを受けた。

神王国貴族として、カセロールの不敗神話は存外に影響が大きいらしく、伯爵と言えどもその例外では無かったということだろう。

常識が常識でなくなるショック。例えるなら、大きな買い物の為に大金を入れていた財布を落としていることに気付いたような驚愕。或いは、朝起きた時に遅刻確定の時間だった時ぐらいの驚きだろうか。少なくとも、ポジティブさは欠片も無い。

大前提があった上で色々と組み立てていたものが、土台から崩れるような衝撃だ。不敗の英雄が守るからこそ南西部の安定があり、レーテシュ伯も不安なく居られた。色々と確執や思惑はあれ、常勝にして最強の騎士が自分たちの西を守護するという絶対の安心感。

それが崩れたのだから、衝撃は如何ほどか。

もっとも、続報には更に驚かされたのだが。

「まさか、全盛期を過ぎたとはいえ本物の英雄だぞ。それを相手に決闘で……いや、ちょっとまて。俺には一人だけ勝てそうな人物に心当たりがあるんだが」

「多分、思っている人物で間違いないと思うけど」

「……ペイストリー=モルテールン卿」

流石にセルジャンは正解に気付いた。

「御名答よ。あの坊やもやってくれるわね。自分でお膳立てをしておいて、最後まで周りを巻き込んで躍らせる。タチが悪い自作自演を見ているようね」

「ボンビーノ卿は終始手のひらの上で踊ったと?」

「モルテールン家に力を示せと言いながら、モルテールン家の人間を用意させる。どちらが勝とうとも、モルテールン家だけは絶対に損をしない形よね。リスクを負わずに最大限の利益を掻っ攫う手並み。正直、ボンビーノ卿の暴行を訴えた連中の裏に、あの坊やが居ると言われても、私は納得できるわね」

女伯爵は、忌々しさを隠さない。

モルテールン男爵が決闘で敗れた影響と対策を慌てて考えて居たら、負けた相手もまたモルテールンの家名を持つ人間だったという、呆れた続報を聞いた瞬間を思い出したからだ。モルテールンに勝ったのがモルテールン。何のことは無い、現状維持だ。

身内のドタバタで周りがどれだけ迷惑するのか考えろと、あの傍迷惑な少年に言ってやりたいと強く思う。

「そこまで警戒することか? 単に姉の結婚相手を見繕ったという話だろう?」

「相手が拙いのよ。少なくとも、うちにとっては。全く油断ならない坊やだわ」

「よく分からんな。何をそこまで警戒する」

セルジャンには、妻がどうしてそこまでペイストリーを危険視するのかが分からない。

男爵家の娘の嫁入り先として、ボンビーノ子爵家というのは十分に玉の輿だ。今までのモルテールン家の興隆を見れば、妥当とも言えよう。

確かに政治的な手腕には驚愕すべきものがあるかもしれないが、目的が姉の幸せであるというのならシスコンの類である。笑ってやれば良い。

そして両家ともレーテシュ家とは近しい家であり、友好的な関係を結んでいる相手。ならば、祝辞を述べることはあっても、警戒するようなことかと首を捻る。

仮に両家が結びつくことが警戒に値するとしても、そもそもモルテールン家とボンビーノ家は親しいと聞く。今まで親しかったのが、更に親しくなったとて、大した違いは無いだろう。要は、現状維持に限りなく近い。セルジャンはそう考えた。

だが、レーテシュ伯は首を振る。

「フルーツよ。それが問題」

「なに?」

「順を追って整理しましょう。まず、聖国との戦い。相手の巧手もあって、長引いたのがそもそもの始まりね」

「ふむ」

妻からの指摘には、思わず表情を硬くした夫。

海軍の総指揮を預かっていた身として、相手の巧手とは見方を変えれば自分の失策。相手の方が上手かったのだ、と言って貰えるだけの気遣いをしてもらっている、申し訳なさがある。

「船の上で長期間の活動。航海病が発生した。ここまではあの坊やも関知していない部分よね」

「当たり前だ」

「病気を発生させたのがあの坊や、という可能性も捨てきれないけど、その可能性をとりあえず置いておくとして、ここでボンビーノ家がモルテールン家に救援要請を送った。そうよね?」

「ああ」

どうにか“自分たちの中”で対応しようとしていたセルジャンに対し、ウランタは“自分に出来ること”で最善手を模索したのだろう。それが、モルテールン家への援軍要請という形になった。

セルジャンはトップとして様々なしがらみがあったわけで、彼からの要請は、たとえ非公式でも軍の総意となる。だからモルテールン家に声を掛けられなかった。

対しボンビーノ子爵は、自分の独断という形で動けた。何か問題があったとしても、子爵家の責任として処理できるからこその独自行動。結果としていい方向に実を結んだのだから良しとしても、あまり大ぴらに褒めることも出来ないのが困りもの。

「その知らせを受け、航海病が発生したと知ったあの坊や。熟練の船乗りでさえ知らなかった治療法を知っていたことも異常だけど、坊やの恐ろしいところは、その治療法を隠匿せずに公開したことね」

「同胞を助けるための善意ではないのか?」

「まさか。そんな善人なもんですか」

戦友として無条件に性善説を考えるセルジャンに、それは甘いという伯爵。彼女は、あのペイストリー=ミル=モルテールンともあろう人物が、ただ単に善意だけで貴重な知識をばら撒くはずがないと、確信していた。

レーテシュ家を率いて政界を泳ぎ、魑魅魍魎の権謀術数を経験してきた彼女だからこそ、ペイスの動きには強い違和感を覚える。

だからこそ、ペイスの行動の裏にある思惑を読み取ろうと、思考を止めない。

「しかし、巷では治療法を公開して大勢を救った無私の聖人扱いだぞ?」

「そこが怖いのよ。綺麗な外面を取り繕っておきながら、しっかり実利は確保しているもの」

モルテールン家の御曹司は、美貌の聖人。などと酒場のつまみにされることもあるらしい。最近はその手の話が“不自然なほど”広まっている。

母親譲りの愛らしい風貌の上に、独占すれば膨大な利益を得られたであろう知識をほぼ無償と言える格安で提供。曰く、病気で大勢が苦しむ中、治せると分かっているのに隠しておくことは出来なかった、というのだ。この話を聞いて、感動に泣いた者もいたというから凄い。

特に、実際に航海病に罹っている者や、その経験者。或いは航海病の危機に怯えていた船乗りたちからは熱狂ともいえるほどの支持を得ている。

「実利? 礼金はかなり安かったと思うが?」

他領の船乗りたちからの支持が、得られた利益なのだろうか。

そう考えながら、セルジャンは妻に考えを聞く。

「そんなのは得た物に比べれば 端金(はしたがね) よ。良いこと、彼はこの件で、モルテールン領の大きな欠点を完璧に補って見せたの」

「大きな欠点?」

「降雨量が限られていて、農作物の生産に制限があるという欠点よ。特にフルーツは、生産の時に大量の真水を必要とする。水の限られるモルテールン領では、仮に生産するにしても必ず生産量が頭打ちになる。それも早々(そうそう)に」

「ふむ」

モルテールン領が、特にかつての本領だった地域が、雨に乏しい乾燥しがちな場所であるのは周知の事実。

よって農作物の生産には極めて不向きであり、とりわけ果樹の類の生育には著しく難がある。一本二本をまばらに育てるならばともかく、産業として成立させるほどの大規模な果樹園は、まず不可能。

ここまでは、レーテシュ家がモルテールン家を調べた内情として、セルジャンにも理解できていることだった。

「砂糖を作ろうとしているのも、それを考えてのことでしょう。量が限られるなら、質で補うという発想はありふれているもの。高く売れる商品作物を育てることで、利益を確保する」

「言うは易しというがな。実際に実現して見せたことは素直に賞賛すべきだ」

元々モルテールン地域は、鉱山があるわけでなく、商業が発達しているわけでも無い。海も無ければ川も無い。森も無ければ湖も無い。ないない尽くし。

その上で、農作物の生産には、降雨量が少ないという領地特有の制約がある。

普通ならばここでまず諦める。

鉱業や商業や漁業の発展が、地理的、物理的に不可能となるなら、農業をどうにかして産業化するしかない。その上で農作物の量がとれないなら、高付加価値の商品作物の生産に特化するべきという理屈は分かる。

だが、簡単に高値で売れる商品を用意できるなら、それこそもっと農業に適した領地の領主が先にやっていることだろう。

仮に諦めない心があっても、根本的に出来るかどうかの可能性の壁が立ちはだかる。能力の壁と言ってもいい。多少優秀である程度ならば、この壁に負けていただろう。

例えば百メートルを 九秒台(せかいきろく) で走れるならば合格という状況で、諦めず挑戦し続ける人間が居たとしよう。この場合、実際に能力が不足していれば死ぬまで挑戦しようが不可能。何百回トライしたところで、凡人には絶対に不可能なこと。

理論上は世界中の誰よりも早く走れば良いというだけのことでも、出来るかもしれない人間は世界に数人といったところか。

理論上は可能でも現実的には不可能という事象は、世の中に幾らでも存在している。

農作物の生産が極めて困難というモルテールン領で、農業を産業化するというのもその一つだった。

かつては。

誰も思いつかなかったことをやり、その上で成功させているから凄いのだ。発想力、想像力、運、知識、人脈、交渉力。そして何より、やり抜く信念。それら全てがハイスペックなのだ。常人とはとても言えない。ある種の怪物と言っていいだろう。

ペイスといえば絵描きの二つ名で知られる魔法使い。巷では、魔法使いだからこそ金を稼げたし、成功できたのだという者も居る。ある意味でそれは間違ってはいないが、正解でもないとセルジャンは考える。

あの 漢(おとこ) であれば、仮に魔法使いでなくても何かをやらかしていたに違いないと確信できる。むしろ、あのペイスだからこそ、神が魔法という“おまけ”を許したのではないかとさえ思う。凡百の人間に絵描きの魔法があったとて、モルテールン領を豊かにするなどまず不可能であったことだろう。

少なくとも、セルジャン自身には出来なかったと断言できた。

「ええ。悔しいけどその通り。モルテールン領で、曲がりなりにも農業生産を軌道に乗せた手腕は並みじゃない。けど、そんな坊やであっても、やはり天気のことだけはどうしようもなかった。雨が降らないという制約によって、果樹生産が出来ない。こればかりはどんな英知をもってしても不可能ね」

「出来るとすれば、神の御業か」

乾燥に強い農作物を作れるようにすることと、一般的なフルーツを栽培することは全く違う。

作物や栽培方法によっても大きな違いが生まれるとはいえ、単位面積当たりで十倍近く使用する水量が違ったりもする。

サボテンのようにあまり水の要らない植物もあれば、水が一面を浸す場所で育つ稲のような作物もあるのだ。これは人間が毎日リットル単位で水分を必要とするのと同じで、生物としての絶対の制約。

如何にペイスに神算鬼謀があろうと、変えることは出来ない部分だ。

「でも、坊やはそこからさらに発想を飛躍させた。自分の領地で作れないなら、他人の領地で作れば良い、ってね」

「何?」

セルジャンは知らないが、ペイスは現代人としての常識を持っている。特に、お菓子作りについては詳しい。

自分の店で一から十まで全て手作りというような菓子職人が居ないわけでは無いが、人手がどうしても不足したり、或いは設備的に製作困難な原材料があったなら。外部に委託する、アウトソーシングという手段があると知っている。

モルテールン領でフルーツが作れない。しかし、フルーツがどうしても欲しい。

逐一購入するというのもあるが、その場合は調達コストもかかり、その上供給不安が付きまとう。

ならばどうするか。

「だから、我々に情報を提供したのか」

「そうよ。名目は航海病の対策だもの。私たちも、果物が効果ありと確認できた時点で、軍需物資としての調達を考えた。領地で生産を増やそうとするのは当然よね」

「ああ」

軍事行動に必須となれば、何としても用意せねばなるまい。

そう思えば、何故ペイスが“戦争中”というタイミングで情報公開のカードを切って来たのかが透けて見えて来る。ただの果物を、軍需物資として認識させる思惑があるのではないか。

「それがあの坊やの狙いだったとしたら? 我々に情報と利益を提供して恩を売り、見返りとしてフルーツを貰う」

「我々が果物の提供を拒んだら?」

「私たちが恩知らずと罵られることになるでしょうね。その不利益は図りしれない」

先に格安での情報公開の恩を受けておきながら、そしてそれで大勢の命が実際に救われていながら、モルテールン家にはフルーツの提供をしない。そんなことは許されるのだろうか。

仮にそういう行動を取ったとするなら、まず船乗りたちを敵にする。その上、利益だけ奪って恩を返さない恩知らずという風聞は、外交的に痛打だ。恩を返す家だと思われているからこそ、大勢が安心して取引するわけで、恩を仇で返すような家に、誰が好き好んで恩を売ってくれるだろうか。今まで積み重ねてきた信用など、一気に崩れ去るに違いない。

「つまり、モルテールンが果物の利権を抑えるはずだと?」

「ええ。断れば、私たちは聖国で戦った戦友たちを全て敵に回すことになる。全く、あの坊やの頭の中はどうなっているのかしら」

レーテシュ伯の中では、絶対に敵にしたくない相手三トップの一人がペイスである。

世の大貴族と呼ばれる人間であったり、実力者と呼ばれる相手であれば、レーテシュ家の持つ財力や情報力、或いは軍事力である程度対抗できる。だが、あの少年にはそれらが一切通用しない。

いや、通用はするだろうが、それでも思わぬところで裏をかかれかねない怖さがあるのだ。万軍を手玉に取って勝利し、大貴族を翻弄し、実力者をなぎ倒して破産させ、大金を苦も無く稼ぎ出すような、不可能を可能にしてきた実績がそれを物語る。龍の子は龍。英雄の子は、更にすごい英雄だったということだろう。

彼女は、本気でペイストリーをレーテシュ家に欲している。あの智謀があれば、レーテシュ家は王家以上の力を得る事すら可能。世界を手に入れる事さえ出来るかもしれない。

娘を側室に嫁がせてでも引き込みたいと思っているのだが、それは悪手と知るだけに悔しいばかり。

「そうか、ボンビーノ家も航海病の対策は教えられている……」

「ええ。彼の少年子爵なら、優秀な補佐も居るわ。海軍を持つ家として、航海病の対応策をとることは疑いようもない。そこで打つ手は何?」

正解がほぼ分かっているはずの問いに、セルジャンも答える。

「自領での果樹栽培」

果物が航海病の対策に効果的というのは間違いない。実際の罹患者による人体実験があったのだ。疑う余地はない。

となれば、果物の安定供給と備蓄は軍事的な課題として優先度が跳ね上がった。船を持つ領主ならば尚更だろう。

他家から買うとなれば、足元を見られる。何せ兵士の命にかかわるのだから。

当たり前の帰結として、自分たちでの生産と供給を模索するに違いない。

「そこで、モルテールン家としては婚姻政策が活きてくる」

航海病の治療方法が漏れた時点で、必ず果樹園を持つ者に利益が生まれる。それをペイストリーは知っていたのだろう。だからこそ、自分たちが他領の果樹園にある程度の権益を確保出来るタイミングを見計らっていたと考えるのが自然。

モルテールン領ではどうあっても果樹園など望めない以上、何処か別の領地で果樹園を作るしかない。しかし、モルテールン家から希望して作って貰う、などというのは借りを作る上に供給不安を残す下策。上策は、相手に自ら果樹園を作らせたうえで、それを恩に着せることだ。

恐らく航海病の為か、或いは別の目的があるのか、モルテールン家が果樹園を欲していたのは間違いないだろう。もしかすれば、のど飴や焼き菓子に更なる付加価値を付ける材料なのかもしれない。

自領内ではなく、他領内に自分たちの生産拠点を確保したがっていたのは明白。それでいて、取引相手はモルテールン家に感謝までする方策。実に見事だ。

いっそ、果樹園を作らせておきながら、逆に御礼をせしめるぐらいまでやりかねない。

強かであり、油断できない動きだ。

果物の安定供給先の確保。その為の布石が、先の海戦での行動なのだとしたら。ペイスの行動に、ある程度の理解が出来るのではないか。

今回の婚姻は、その仕上げになるだろう。そう、レーテシュ伯は読み切った。

「なるほど、そういう狙いがあったか。まさか船に菓子を持って来た時から、そこまで読んでいたのか?」

「明確にボンビーノ家との婚姻まで考えていたわけでは無いはず。恐らく、自分たちと親しい家が果樹栽培をして、そこに食い込めるならば何処でも良かったはずよ。カドレチェク家やうちに情報を流したのもその為ね。モルテールン家に比べてうちは……一手遅れたわね」

もしも事前にモルテールン家の狙いが読めていたなら。少なくとも航海病の治療法を教えてもらった時点で気づけていたら、また違った対応も出来たはず。

今更になって気付けたとしても、既に後手に回っている。

「すまん」

「良いのよ。私だってその場にいてあの坊やの狙いを躱せたとも思えないし。病気の対策は最優先だったし」

仮にペイスの狙いが、すなわち、果物の供給源の確保という目的が読めていたらどうなっていたか。ボンビーノ子爵家がレーテシュ伯爵家に代わり、婚姻の代わりに適当な利権で相互協力という形になっていたかもしれない。或いは、ジョゼとウランタの婚約ではなく、ペイスの側室にレーテシュ家の娘、という形にも持っていけた可能性だってある。惜しい限りだ。

レーテシュ家としても、軍需物資となり得る果樹園の整備を怠るわけにもいかない。栽培しないという選択肢はあり得ない。そして、作った以上はどうしたって市場に出回るだろう。抱え込んで腐らせても無意味だ。

どうあっても果物の安定供給の一助を担ってしまう。モルテールン家の狙いを躱そうとすれば、自分の首を絞めるのだ。

出来ることは、ペイスの策に乗ること。その中で、出来る限り利益を手繰り寄せるだけだ。

実に忌々しい、と女伯爵は吐き捨てた。

「一応は当家にも利益があったのだし、別にいいのではないか?」

「兵士の命を人質にして情報を拡散し、競争を煽って果物の生産を促進し、価格競争と供給源の多様化を成し遂げ、おまけに聖人扱い。モルテールン家は利益を最大限に得た。本来自領では生産困難で割高になるはずのものを格安で手に入れられる。それに比べてうちが得た利益は何? 既に広まって無価値になった航海病治療の情報と、それを売って得られた端金だけ。良いようにしてやられたのが悔しいのよ!!」

いよいよもって、癇癪を起しだした妻に対し、セルジャンは溜息をつく。

「かといって、仕返しも出来んだろう。この件で著しく名声を高めた相手だ。むしろ、うちも便乗することを考えるべきだろうな」

「……あなた? 今なんて言ったのかしら」

「モルテールン家の尻馬に乗れないかと言ったのだ。敵にも出来ず、こちら主導で動かせもしないなら、相手の動きに乗るしかない。それを利用というのか便乗というのかは、言葉遊びだな」

先の海戦で、鮮やかな勝利を飾れたとは言い難いレーテシュ家である。折角、派閥構成員となっているモルテールン家が功績を挙げたというのなら、それを精々自分達の派閥の為に使えばいい。

セルジャンは、そう言った。常識的な発想だ。

だが、忘れてはならないことがある。彼が話している相手は、神王国でも女狐とも称される権謀の人物なのだ。

セルジャンの言葉に、何やら思いつくことがあったらしい。

「あの坊やの名声を利用して利益を得る……いいことを思いついたわ!!」

その日深夜遅くまで、レーテシュ伯が何処かに手紙を書く姿が見られるのだった。