作品タイトル不明
03:最初の覚醒
この森は王都の近くにあるだけあって、浅い部分は人の手が入ってる。
細いながらも道があり、下草が払われ、木々の枝は落とされている。
それでもずっと歩いていけば、徐々に道は獣道のように頼りなくなり、木々も 鬱蒼(うっそう) としてきた。
足元は歩き慣れた石畳と違い、柔らかい土と張り出した木の根で歩きにくい。
一歩踏み出す度に、足が柔らかく土に沈む。それがひどく頼りなく思えた。
神殿に行ったのが午前中。鑑定を終えて森に着いたのが午後のこと。
それから何時間も歩きづめで、周囲はいつしか夕闇に包まれようとしている。
生い茂る木々の半ばは針葉樹で、濃く深い緑色をしていた。
時折交じる広葉樹は赤や黄色に色づいて、今が秋であると知らせている。
「……寒い」
秋はまだ深まっていないが、朝晩は冷える頃合いだ。
私の服装は貴族令嬢としては質素なドレスだった。
絹よりも丈夫な綿でできているのはいいが、それでも上着などはない。夕暮れの寒さが身にしみた。
ふと吹いた風が、伸び放題の私の銀の髪を散らしていった。
どうすればいいのか、ちっとも分からない。
分からないから、ただ歩いている。
力尽きるまで歩くのが父や継母にとっての正解なのだろうと、ぼんやりと考えていた。
森に人の気配は既にない。
夕暮れ時の薄暗い森は、不気味に見えた。
秋風が吹いて木々の梢を鳴らす。
鳥たちはもう巣に帰ったのか、あまり姿が見えない。
その代わりに小さな羽虫がたくさん飛んでいて、手で払ってもきりがない。
気持ち悪くて心細くて、私は涙が出るのを必死で堪えた。
◇
それからどれほど歩いただろう。
やがて夕闇が本格的に宵闇へと変わり始めた頃、私はふと気づいた。
すぐ向こうの茂みがガサガサと音を立てている。
少し赤茶けた葉っぱの茂みだ。
その中に一筋、鮮やかな赤が見えた。
(……?)
私がそれが何かを確かめようとした瞬間。
茂みが大きく膨れ上がった。
いや違う。
茂みに潜んでいた巨大な熊が身を起こしたのだ。
背筋の毛が赤い熊の魔物、レッドベアだった。
森に住む魔物としては有名で、猟師が狩ってきた毛皮を見たことがある。
「グルルル……」
熊は私を見て唸り声を上げる。
湿った犬のような、土と油が入り混じったような獣臭い匂いが鼻をついた。
「あ……」
私は声を上げることもできず、辛うじて一歩だけ後ろに下がった。
下がって、落ちていた小石に足を取られて転んだ。
結果として、転んだおかげで私は命拾いをした。
つい先ほどまで私の頭があった空間を、熊の太い腕が薙ぎ払っていったからだ。
命拾いをしたけれど、それはせいぜい数秒の延命にすぎない。
間近に迫った熊の、生臭い息まで感じた時。
(嫌だ! 死にたくない!!)
私の中で誰かが叫んだ。
(死ぬのは『二度とごめんだ』!!)
瞬間、脳裏に何かが流れ込んできた。
どこかの狭い家の中で、母親と二人の子供たちが食卓を囲んでいる。
プリムローズが見たこともない、不思議な内装の家だった。
『お母さん、今日ね、学校で生き物係になったの』
年上の女の子が言えば、母親が微笑んだ。
『へえ! 今の学校は何を飼うのかしら』
『亀。思ったより可愛かった』
『いいなー。ぼくも早く小学生になりたい』
年下の男の子が口を尖らせている。母親と女の子はおかしそうに笑った。
また画面が切り替わる。
人混みと通勤自動車のラッシュで沸く道を、母親がせっせと歩いていく。
向かう先は大きな工場だ。あそこが彼女の職場なのだ。
――彼女の。そう、かつての私の。
十歳のプリムローズの頭の中に、前世で母親だった大人の記憶が流れ込んでくる。
モラハラ気質の夫と離婚し、二人の子供たちをシングルマザーとして育てていたこと。
休日はバトルヒロインアニメのイベントに出かけて、子供たちとポーズを取ったこと。
そして上の子が大学生、下の子が中学生になった時――私は死んだこと。
死因は事故だ。
朝の通勤途中、ベビーカーを押している若い女性が横断歩道を渡っていたら、信号無視の車が突っ込んできた。
私は反射的に走って、彼女たちを突き飛ばし……車にはねられた。
痛いとかそういう感覚以前に、体中にすごい衝撃が走ったのを覚えている。逆に言えばそれ以外は覚えていない。
次の記憶は、物心ついたばかりの小さなプリムローズがお母様の膝の上にいる光景だった。
(私は死んだのか。あの子たちを残して)
無念だった。せっかく親子で貧しいながらも頑張って生きてきたのに。
上の子はやっと二十歳。まだ大学生で学費の支払いが終わっていない。
下の子に至っては中学生。これから大人になるための大事な時期だったのに。
ベビーカーを助けたのは後悔していない。でも私の死があの子たちにどれだけの負担をかけたかと思うと、悲しくて悔しくて仕方がなかった。
(そして、私はまた死ぬのか)
今度は親に捨てられて。
前世は生きたかったのに生きられず、今世は生きる意志を持つ前の子供の段階で死のうとしている。
そう思うと、猛烈に怒りが湧いてきた。
「ふざけんな!!」
大きく叫ぶと、間近に迫っていた熊が一瞬だけ足を止めた。
けれどそれ以上は気圧されることもなく、殺意と食欲に満ちた目を向けてくる。
今の私は無力な子供で、戦う術など持たない。
前世の大人だった頃だって、できるのはアニメのヒロインの真似だけだった。
(私にヒロインたちのような力があれば!)
娘が小さい頃、良く見ていたバトルヒロインのアニメ。可愛らしい服を着て肉弾戦で戦っていたっけ。
ああ、そういえば、私自身も昔は漫画が好きだったな。気功の力で空を飛んだり、気弾を撃ったりする有名なバトル漫画だ。
けれど現実の私はどうだろう。
せっかく魔法のある世界だというのに、私には何の力もない。
どうせ魔物相手に勝ち目はないのだ。
そう思えば怒りと悔しさと、同じくらいのヤケクソな気持ちが湧き上がってきた。
「殴ってやる」
ぎゅっと拳を握る。私に格闘技の心得なんてない。
ただ握り込んだ拳を振りかぶって、走ってくる熊に向かって真っ直ぐに振り抜こうとした。
当たるはずもない。子供の短く細い腕だ。リーチの問題など考えるまでもない。
でも。
(……え!?)
刹那、握った拳の中に熱が生まれた。
神殿で霊珠に手をかざした時と同じ熱が。
拳の中に何かの感触が生まれる。小さくて硬い何か。
握り込んだ拳の中、指の隙間から閃光がほとばしった。
異変に気づいても体勢は変えられない。
拳を振りかぶっていた私は、そのまま振り抜いて――。
ゴウッ!!
光をまとった拳は、光の軌跡を描いて熊を撃ち抜いた。
正確に言えば拳が当たったのではない。光そのものに巨大な質量が宿って、熊を叩きのめしたのだ。
彗星が駆け抜けたような一撃だった。
「ガアアアッ!?」
熊の巨体が吹き飛ぶ。
数百キログラムはあるはずの体なのに、まるで紙切れのように飛んでいった。熊がぶつかった木々がバキバキと音を立ててへし折れる。
やがて動きが止まったのだろう。森は急に静かになった。
光が収まった後は、夜の暗闇が降りてくる。
私は拳を開いた。
そこには、神殿で見たのと同じ小さな霊珠が握られていた。
違うのは一文字、霊珠に文字が刻まれていること。
「殴る……?」
私は呟いた。
そこにあったのはこの国の文字ではなく、前世日本の漢字。
『殴』の文字がくっきりと浮かび上がっている。
ピシリ。
私の手のひらの上で、霊珠にヒビが入る。
みるみるうちに広がって、やがて霊珠は砕けた。
砕けた後は砂のように変わり、さらさらと風に乗って消えてしまった。
私は呆然と、手のひらを見つめていた。