幼なじみを優先するなら、婚約解消します~婚約者は二番目らしいので身を引きます~
作者: 雪野みゆ
本文
春の夜会は王都でもっとも美しい季節に開かれる。
淡い金色の豪華なシャンデリア。磨き抜かれた大理石の床。色とりどりのドレスをまとった令嬢たち。
その中心で、アルヴィオン公爵令嬢セラフィーナは静かに微笑んでいた。
銀糸を織り込んだ薄青のドレスは、彼女の透き通るような白い肌によく似合っている。けれど、その笑みがどこか硬いことに気づく者は少なかった。
「セラフィーナ、今夜もきれいだ」
声をかけてきたのは婚約者のレイノルズ侯爵令息エドワルドだった。
凛々しい騎士の礼服に身を包んだ彼は、社交界でも人気が高い。真面目で誠実、騎士の鑑だと誰もが口を揃える。
セラフィーナも、昔はそう思っていた。だが、今は違う。
「ありがとうございます、エドワルド様」
今夜は婚約者同士としてファーストダンスを踊る約束をしていた。
しかし――。
「エド!」
甲高い声が響いた瞬間、エドワルドの視線がセラフィーナから逸れる。
駆け寄ってきたのはエドワルドの幼なじみの少女ミレイユだった。
「どうした?」
「ごめんなさい、少し足を痛めちゃって……」
エドワルドの顔色がさあと変わる。
「何だって!? 大丈夫か?」
彼は即座にミレイユの前に膝をついた。
周囲がざわつく。
セラフィーナは静かにその光景を見つめた。
(またなの)
その言葉を、心の中だけで呟く。
「すまないセラフィーナ。少し彼女を休ませてくる」
「……ええ」
「すぐ戻る」
戻ってこないことを、セラフィーナは知っていた。
エドワルドはミレイユを支えながら、夜会会場を去っていく。
残されたセラフィーナの耳に、貴族たちの囁きが届いた。
「また幼なじみを優先したのね」
「婚約者なのに気の毒に……」
「でもセラフィーナ様は寛大な方だから」
(寛大ね)
その言葉に、セレフィーナは思わず笑いそうになった。
違う。ただ、我慢しているだけだ。
◇◇◇
「ミレイユは妹みたいな存在なんだ」
それがエドワルドの口癖だった。
ミレイユはレイノルズ侯爵家の遠縁であるクラウズ子爵家の娘で、エドワルドとは幼い頃から一緒に育ち、家族同然だと言う。
「君なら理解してくれるだろう?」
優しい声音でそう言われるたび、セラフィーナは「ええ」と微笑むしかなかった。
理解しなければならないと思っていた。
婚約者として。未来の妻として。
しかし、現実はどうだっただろう。
セラフィーナの誕生日は一緒に祝おうと約束をしていたのに、ミレイユが熱を出したからと当日キャンセルをされた。
観劇の約束をしていた日は、ミレイユが一人で寂しがっているからと中止になった。
贈られる花も、選ばれる言葉も、どこか義務的だった。
それでもセラフィーナは耐えていた。
彼に愛されていると信じたかったから。
◇◇◇
ある日、セラフィーナは調べものをするために王立図書館へ向かっていた。
そこで偶然、エドワルドとミレイユの会話を聞いてしまう。
「最近セラフィーナ様、怒っている?」
「少し機嫌が悪いようだな」
「やっぱり私のせいかな……」
不安そうに俯くミレイユに、エドワルドは優しく笑った。
「気にするな。セラフィーナは分別のある女性だ」
その言葉に、セラフィーナの足が止まる。
分別のある女性。
つまり我慢して当然ということだ。
「それに、お前を放っておけるわけがないだろう?」
そう言ってミレイユの頭をエドワルドが撫でると、彼女は嬉しそうに笑った。
セラフィーナは静かに踵を返した。
胸が痛かった。
けれど涙は出なかった。
もう、ずっと前から傷つき続けていたから。
◇◇◇
決定的な出来事が起きたのは、初夏の茶会でのことだった。
庭園で令嬢たちと談笑をしていた時、不意にドレスの裾が絡まる。
身体が傾いた。近くの石段へ落ちかける。
「きゃあ! セラフィーナ様が!」
誰かがセラフィーナの名を呼んだ。
だが次の瞬間。
「ミレイユ!」
エドワルドは泣き出したミレイユのもとへ駆け寄っていた。
彼女は転んでもいない。ただ驚いただけだった。
一方セラフィーナは、侍女に支えられて辛うじて倒れずに済む。
だが、膝をついた瞬間に擦りむいてしまい、じわりと血が滲む。
それでもエドワルドは気づかなかった。
「怖かったな、大丈夫か?」
ミレイユを抱き寄せる彼。
その光景を見た瞬間。
セラフィーナの中で何かが静かに終わった。
(ああ。この人は一度も私を選ばなかった)
◇◇◇
婚約解消を告げたのは、その三日後だった。
レイノルズ侯爵家の応接室で、セラフィーナは彼と向き合う形で毅然と婚約破棄を告げたのだ。
エドワルドは信じられないものを見るような顔をした。
「婚約解消……だと?」
「はい」
セラフィーナは穏やかに微笑む。
不思議と心は落ち着いていた。
「どうして急に」
その言葉に少しだけ悲しくなる。
本当に彼は気づいていなかったのだ。
「急ではありませんわ」
「何か誤解があるなら……」
「誤解ではございません」
セラフィーナは一口紅茶を飲むと、静かにテーブルに置いた。
「私はずっとあなたにとって二番目でした」
エドワルドが眉をひそめる。
「ミレイユのことか?」
「ええ」
「だから何度も言っているだろう。彼女は家族同然で――」
「ええ。ですから私は永遠に他人だったのでしょう」
その言葉にエドワルドが息を呑む。
構わずセラフィーナは続けた。
「私が転びそうになった時も、あなたは彼女を選んだ」
「あれはミレイユが怯えて――」
「私は怪我をしました」
初めてエドワルドの顔色が変わる。
彼は知らなかったのだ。
見てもいなかった。
「セラフィーナ、俺は……」
「もう結構です」
静かな声だった。
怒りも憎しみもない。
だからこそ痛かった。
「あなたは悪い方ではありません。ただ、私には耐えられなかった。それだけです」
「待ってくれ」
初めてエドワルドが焦った顔をする。
「俺は君を愛している」
その言葉にセラフィーナはほんの少し目を伏せた。
(もしもっと早くその言葉を聞けていたら……)
そう思った。
しかし。
「愛しているのであれば、誰よりも優先しなければなりませんでした」
エドワルドは言葉を失った。
◇◇◇
婚約解消後、社交界は騒然となった。
だがセラフィーナは意外なほど穏やかだった。
悲しみはある。
それでも、どこか肩の荷が下りたような感覚があった。
そんなある日。
王城の回廊で一人の男性と出会う。
「落としましたよ」
低く落ち着いた声。
振り返ると金茶色の髪をした男性がハンカチを差し出している。そのハンカチはセラフィーナのものだった。
「ありがとうございます」
「……無理に笑わなくてもよろしいのでは?」
セラフィーナは目を見開く。
彼は静かに言った。
「あなたはずっと我慢をしてきた人間の顔をしている」
その瞬間。
胸の奥に押し込めていた感情が揺らいだ。
誰にも気づかれなかったものを、この人は一瞬で見抜いた。
「……変な方ですのね」
「よく言われます」
彼は柔らかく微笑んだ。
それが最初だった。
ウォルフォード侯爵アルフォンスと出会ったのは――
◇◇◇
アルフォンスは不思議な人だった。派手な言葉で口説くことはない。しかし、常にセラフィーナを気遣ってくれた。
セラフィーナが寒そうにしていると、上着をかけてくれる。話を最後まで聞いてくれた。歩幅を合わせる。どんな小さな約束も守ってくれた。
当たり前のことだ。
しかし、セラフィーナはその当たり前を知らなかった。
「君は誰かに遠慮をするくせがあるな」
ある日、アルフォンスが言った。
「え?」
「何かを選ぶ時、必ず先に他人を優先する」
セラフィーナは思わず苦笑する。
「そういうものだと思っておりました」
「セラフィーナ、君自身は?」
「……考えたこともありませんでしたわ」
アルフォンスは少し黙った後、静かに告げた。
「君を最優先にしたいと思う人間もいる」
セラフィーナは言葉を失う。
胸が熱くなった。
泣きそうになるほどに……。
◇◇◇
一方その頃。
エドワルドは初めてセラフィーナがいない現実を痛感していた。
書類仕事は滞る。贈答品の管理もできない。夜会の日程も把握できない。
彼女がどれほど自分を支えていたのか、失ってからようやく理解した。
「セラフィーナなら……」
彼女の名前を口にして、胸が痛む。
さらにミレイユとの関係も変わっていった。
以前は楽だった会話が、どこか噛み合わない。
ミレイユは不満げに言う。
「エドは最近冷たい」
「そんなことはないよ」
「昔はもっと優しかったのに」
エドワルドは気づいてしまった。
自分は婚約者であるセラフィーナが支えてくれていた余裕で、ミレイユに優しくしていただけなのだと……。
そして、ミレイユもまたエドワルドが誰かの婚約者だから安心して甘えていたのだ。
当然のことだが、二人の関係は少しずつ崩れていった。
◇◇◇
秋の夜会でセラフィーナはアルフォンスにエスコートをしてもらい、会場入りした。
以前より柔らかな笑みを浮かべる彼女に周囲は目を奪われる。
その姿を見たエドワルドは愕然とした。
(何て美しいんだ)
いや、昔からセラフィーナは美しかった。
しかし、今の彼女は以前よりずっと幸せそうに見えた。
「セラフィーナ」
思わず彼女に声をかける。
セラフィーナは足を止め、静かに振り返った。
「お久しぶりです、エドワルド様」
他人行儀な呼び方。
それだけで胸が締めつけられる。
「少し話せないかな?」
アルフォンスがセラフィーナを庇うように一歩前に出る。
だが、セラフィーナは小さく首を振った。
「大丈夫です」
その姿にエドワルドはさらに苦しくなる。
彼女はもう一人ではない。
「……幸せそうだな」
絞り出すように言うと、セラフィーナは少し驚いた顔をした後、穏やかに微笑んだ。
「ええ。とても」
その笑顔はかつて自分には向けられなかったほど、柔らかく美しかった。
エドワルドは今さら悟る。
もう遅いのだと……。
自分はずっと彼女の愛情に甘えていた。
失わないと信じていた。
しかし、彼女は限界まで耐えていたのだ。
「……すまなかった」
ようやく口にできた謝罪。
セラフィーナは静かに目を伏せた。
「私は、ずっと寂しかったのです」
その言葉が刃のように胸へ突き刺さる。
だが彼女はもうエドワルドを責めない。
ただ、過去として受け入れていた。
それが何より苦しかった。
◇◇◇
ある冬の日。
雪の降る庭園でアルフォンスはセラフィーナへ指輪を差し出して跪く。
「セラフィーナ・アルヴィオン公爵令嬢」
低く穏やかな声。
「あなたを生涯最優先に幸せにすると誓います」
セラフィーナの瞳が揺れる。
昔の自分ならそんな言葉を信じられなかった。
けれど今なら分かる。
この人は本当にそうしてくれるのだと……。
「あなたが笑っていられるように守りたい」
セラフィーナの目から涙が零れた。
悲しい涙ではない。
ようやく辿り着いた安堵だった。
「……はい」
震える声で答える。
アルフォンスは優しく彼女の手を取った。
冷えた指先を包み込む温もりに、セラフィーナはそっと目を閉じる。
かつて誰かの次だった令嬢は。
ようやく、一番に選ばれる幸せを知ったのだった。