軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

9話

長安にて荀攸による大掃除が行われる少し前のこと。

『太傅が荊州へ軍監として派遣された』との情報を得た諸侯の反応は、大きく分けて二通りのものがあった。

まず一つ目は、孫堅に同情と哀悼の意を示しつつ、皇帝と件の外道の狙いを推察するもの。

これは董卓や曹操や劉虞といった、件の外道や皇帝に近しい人間がこういう反応を示していた。

二つ目は、長安の人間と同じく『都落ち』を嗤うもの。

これは件の外道と直接面識がない、もしくは件の外道を見下していた人間の多くが該当した。

つまりそれは長安から離れたところにいる大半の人間がこちら側であることを意味している。

それは長安から離れた豫州は汝南に在って、常日頃から長安政権への不満を隠そうともしていない人物にとっても同じことであった。

しかし、ことはそう単純なものではなかった……。

五月上旬 豫州汝南郡汝陽県

「忌々しい連中めっ!」

四世三公の家として漢にその名を轟かす汝南袁家の当主、袁術は激昂していた。

その怒りは、持っていた盃を地面に叩きつけてもなお収まりきらないほどであった。

元々短気な所がある彼だが、それでも名家の御曹司らしく表面を取り繕うことは苦手ではない。

そんな彼がここまで怒りをあらわにすることは極めて珍しいことであった。

彼が怒り狂う理由は多々あった。

最大の理由は、袁術が今の自分の立場に納得ができていないことだ。

大前提として、現在袁術は漢帝国から正式に汝南袁家の当主として認められている。

そう、これまで幾度となく袁家の当主を僭称していた袁紹ではなく、袁術こそが汝南袁家の正統な当主なのだ。

そうであるにも拘わらず、未だに家中では袁紹と袁術を秤にかけている者が多くいるのである。

さすがに正面切ってそれを伝える者はいないが、袁術とて馬鹿ではない。

自分に阿る連中が時折試すような――もしくは比べるような――視線を向けてきていることを理解できる程度の能力は有しているのである。

配下が自分を試すことも気に喰わなければ、袁紹と比べられることも気に喰わない。

常時そのような視線に晒されていれば、ストレスが貯まるのは当たり前のことであろう。

尤も、これに関しては袁術にも非がないわけではないのだが。

”治世ならまだしも乱世に於いて人の上に立つ人間が試されるのは当たり前の話”というのもあるが、そもそも袁家がここまで衰退したのは、袁紹や袁術が多大なやらかしをしたせいである。

まず袁紹は、宮中侵犯に始まり、宦官粛清、何進暗殺、洛陽からの逃亡、反董卓連合の結成、そして洛陽への進軍と、どれか一つをやらかしただけでも逆賊認定まったなし。一族郎党全てが罪人として処罰されるような大罪を犯している。

これほどのことをした者を輩出した家が未だに残っていること自体が奇跡と言っても過言ではない。

誰から見ても情状酌量の余地がないほどの大罪を犯した袁紹と比べ、袁術がやったことは、反董卓連合に副盟主として参加して連合の兵站を支えつつ自身も洛陽へ兵を向けたくらいだろうか。

袁紹と比べると罪が少ないように見えるが、本来であればこれだけでも逆賊認定されるには十分な反逆行為である。

よって反董卓連合がその目的を果たせず瓦解した時点で、反董卓連合の主導的立場にあった袁術は逆賊として認定、袁家に所縁のある者たちは一人残らず処刑されていただろう。

そんな絶体絶命の危機を救ったのは、宗室の一員でありながら反董卓連合を後方で支えていた群雄の一人であった劉表を打ち破った功臣、孫堅であった。

彼が多大な功績を上げることができたのは、袁術率いる汝南袁家の助力あってのこと。

長安にいた楊彪らはそういって袁家を擁護した。

実際『袁術が――孫堅に嵌められたとはいえ――兵糧や物資を集め、それを襄陽で補給するという口実を用意したからこそ、劉表はあっさりと襄陽の門を開けたのではないか』と言われれば、孫堅とて首を縦に振るしかない。

当事者たちの思惑にどれだけの齟齬があろうと、事実は事実。

”反董卓連合を瓦解させる一助となった袁術の功績は決して小さくない”という事実は変わらないのだ。

この功績を以て汝南袁家はその存続を赦されたのである。

しかし、しかしだ。

実際に袁術がしたことは袁家を危うくしただけであり、彼が汝南袁家の存続に何らかの寄与をしたわけではないという事実もまた変わらない。

そのため袁家の家臣たちは『また袁術がおかしなことをしないだろうな』と警戒せざるを得ないのである。

そのため袁術を見る視線に、探るような、はたまた比べるような感情が混ざるのは仕方のないことと言えよう。

要するに袁術の自業自得である。

被害妄想とも言えるかもしれない。

もちろん、袁術が気に入らないのは、家臣からの視線だけではない。

世の中から孫堅の添え物のような扱いを受けていることも気に喰わないし、長安政権が自分たちの関係者を重用しないのも気に喰わない。

なにより長安にいる楊彪から『少し落ち着いてくれ』と苦言を呈されたのが気に喰わない。

「なにが『落ち着け』だ! 黙っていたら孫堅めにすべてを奪われるわ!」

数か月前に行われた荊州に於ける戦闘の詳細は袁術にも届いている。

実戦を知らない長安の文官と違い、実戦経験豊富な袁術の配下たち――袁術ではない――は、孫堅の狙いが劉琦ではなく荊州に散った旧劉表の配下たちを討伐することだったことを掴んでいた。

このままでは孫堅の影響力が盤石なものとなってしまう。

そう考えた袁術は、配下の者に孫堅を貶める噂を流すよう命じたのだ。

最良は、下賤の血が流れているにも拘わらず皇帝を名乗る愚帝がその噂を信じて孫堅を罷免すること。

次善は荊州に派遣されるという軍監にあることないこと報告させて孫堅を罷免させる、もしくはその動きを封じて内部に隙をつくること。

最悪でも孫堅が討伐した旧劉表の配下たちに代わる人員を、袁家に所縁のある者たちから選出させることができれば、政治的に孫堅を縛ることができる。

このように、今回袁術が仕掛けた策はどう転んでも袁家が得をする良策だったのだ。

「それを、それを! ……太傅が軍監だと? どうかしている! それを命じる方も、それを受ける方も正気ではないわ!」

それが覆されてしまった。それも子供の思い付きのような一手で。

これでは袁術でなくとも怒りを覚えるというものだろう。

袁術は李儒と面識がない。

そのため李儒については、弘農に根を張るそこそこの名家の生まれであること以外、噂でしか知らなかった。

曰く、何進の腰巾着。

曰く、董卓の腰巾着。

曰く、皇帝の腰巾着。

総じて、立場を弁えず強者に擦り寄ることで栄達を果たした小僧ということしか知らなかった。

袁術の耳に入る情報が偏っていることに関しては、亡き袁隗らが”同世代――李儒の方が一〇歳若い――である李儒と比べられて劣等感を抱かないように”と配慮をした結果なのだが、その指示を出した本人たちが亡き今となっては袁術がそのことを知ることはない。

真実を伝えた方がよかったのか、それとも伝えなかった方がよかったのかはさておいて。

噂を信じるのであれば、李儒は汝南袁家の当主である袁術からすれば取るに足らない小物だ。

しかしながら、強者を見分ける嗅覚と強者に擦り寄る早さには目を見張るものがあるし、なにより彼は袁隗らでさえ死を回避できなかった動乱の洛陽を泳ぎ切った人間である。

そのことを重く見た袁術の配下は、李儒の情報を集めることにした。

情報の取扱いに厳しいのか簡単にはいかなかったが、そこは世に名を馳せる汝南袁家。

様々な伝手を利用して李儒の為人を探ることに成功していた。

その成果は以下の通りである。

曰く、性格が悪い。

曰く、儒の教えを守ろうとしない異端者である。

曰く、年長者や上位者に対して礼を尽くすことがない無礼の輩である。

曰く、漢の権威を貶める悪逆の徒である。

曰く、おおよそ人とは思えないほどの外道である。

曰く、選び抜かれた文官が恐れるほどの外道である。

曰く、生粋の武官も恐れる程の外道である。

曰く、あの董卓ですら恐れる外道である。

……おおよそ太傅として位人臣を極めた人物を評したとは思えないほど悪評だらけであった。

若輩者に対する嫉妬の気持ちがあるとはいえ、世評が全てと言っても過言ではないこの時代に於いて、ここまで悪評を垂れ流されるのは尋常なことではない。

そして尋常ではないことがもう一つある。

それは、 こ(・) こ(・) ま(・) で(・) 悪(・) 評(・) が(・) 垂(・) れ(・) 流(・) さ(・) れ(・) て(・) い(・) る(・) に(・) も(・) 拘(・) わ(・) ら(・) ず(・) 李(・) 儒(・) が(・) 失(・) 脚(・) し(・) て(・) い(・) な(・) い(・) こ(・) と(・) だ。

洛陽や長安といった伏魔殿に於いて、悪評とはすなわち付け入られる隙である。

通常、これだけ大きな隙を晒した者が辿る道は一つしかない。

しかしながら、李儒は一度たりとて失脚やそれに準ずる処分を受けたことがない。

それどころか順調に出世している。

これが異常でなくてなんだというのか。

そしてもう一点、担当者と袁術を驚かせた報告がある。

それは、長安に於いて袁術に代わって袁家の利益代表者を代行している楊彪から送られてきた書簡の中にあった。

それにはこう記されていた。

『自分如きで推し量れる人物ではない。軽々に触れるな関わるな』と。

四世太尉の家、弘農楊家が現当主楊彪が推し量れないとはどれほどの人物なのか。

衝撃を受けた担当者がもう一度報告を読み返してみると、一つのことに思い当たった。

あれだけ悪評がありながら、どの報告書にも、一言も”無能”のような能力を否定する言葉が書かれていない。

そのことを念頭に置いて李儒が関係したと思われる事柄について調べてみれば、数日調べただけで大量の書簡が積み重なることとなった。

それは李儒のことを擁護するつもりがない担当者をして「どうしてこれだけの仕事をしている人間が悪評塗れなのか」と嘆くほどの量だった。

反董卓連合との戦の最中に行われた遷都を主導したことはもとより、遷都後の統治に関するあれこれや、洛陽の復興作業の手順を整えたり、涼州に於ける農地改革にすら関わっていることが判明したのである。

それらの情報を得た担当者は袁術に対してこう報告している。

「李儒はただの腰巾着ではない。少なくとも極めて優秀な官吏である」と。

李儒のことを快く思っていなかった袁術とて、信頼を置いている部下から証拠付きで報告をされては納得するしかなかった。

そう。袁術は李儒を極めて優秀な官吏であると認めていた。

だからこそ、その李儒が荊州へ下向することに怒りを覚えたのである。

「あやつが荊州に居座れば、荊州の混乱など瞬く間に鎮めてしまうだろう。そうなれば孫堅の隙がなくなってしまう。いや、それどころか今以上に強化されてしまうではないか!」

(このままでは、孫堅の足を掬うために用意したはずの策が、かえって足場を固めることになってしまう。単純に面白くないし、なにより、ただでさえ周囲から比較されるような目を向けられている中でこのような失策はまずい!)

太傅の下向という皇帝劉弁が司馬懿の助言を受けて軽い気持ちで打ったこの一手は、袁術らが行っていた長安での工作を無駄にしただけでなく、荊州での工作もまた無意味なものにしてしまったのである。

これを巻き返す良策は、今のところ存在しない。

「おのれ愚帝! 下賤の輩め! 由緒正しき名家である汝南袁家が貴様の思い通りになると思うなよ!」

この日、袁術はこれ以上ない程に激昂した。怒りすぎて倒れるのではないかと心配されるほどであった。

しかし、そうは問屋が卸さない。

自他ともに”これ以上怒ることはないだろう”と思うほどにキれた翌日のこと。

「りょ、呂布が一緒にいるだとぉ!?」

反董卓連合に参加した自分たちを散々追いかけ回した男が李儒と共にいると聞いた袁術は、文武で付け入る隙がなくなったことを突きつけられたような気がして再度キれた。

それから数日後。

「もう大丈夫だ。ここまで怒ったらもう何があっても怒らん」

そう嘯いた袁術だったが、その半月後、長安から齎された報せを受けて彼は再度激昂することになる。

「荀ッ!!!! がぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

家臣としても「これ以上はいけない」と思いながらも報告をしないわけにもいかないわけで。

暫くのあいだ汝南では、立て続けに凶報に襲われてキれる袁術とそれに当たり散らされる配下たちの姿が散見されたそうな。

彼らは間違いなく不幸だろう。

しかしながら、彼らを、汝南袁家を襲う不幸の連鎖はこの程度では終わらない。終わるはずがない。

なぜなら、絶対権力者である皇帝劉弁とその腹心である腹黒外道が彼らを【完膚なきまで滅ぼす】と決めているのだから。

彼らの受難はまだ始まったばかりである。