作品タイトル不明
治癒院の手伝い(中編)
「ランズヘルト共和国の未来を左右する話だ、心して検討しろ、肝心な内容はケントから聞け……何を考えてるんだ、クラウスは」
執務室へお邪魔すると、コボルト便で送られて来たらしいクラウスさんの走り書きを前にして、バッケンハイムの領主アンデルさんはご機嫌斜めのようです。
まぁ、万事適当なクラウスさんと、キッチリしていないと気が済まないアンデルさんは、そもそも相性悪いんですよねぇ。
「うちの義父が、言葉足らずで申し訳ございません」
姿勢を改めて、キッチリ頭を下げて謝罪すると、アンデルさんの眉間の皺が和らぎましたねぇ。
こういう時は、ザ日本人的謝罪ですよね。
「いや、クラウスが言葉足らずなのは毎度の事だし、ケント君に謝罪してもらおうと思って言ったわけではない。それで、用件というのは何なのだね?」
「はい、感染症に対する、新しい治療の研究をお願いできないかと思ってお邪魔しました」
「感染症の新しい治療?」
アンデルさんは興味を引かれたようで、ほんの少しですが身を乗り出して聞く態勢を取りました。
クラウスさんから詳しい話が伝わっていなかったせいで、かえって興味を引くことになったようです。
「はい、僕の生まれ故郷である異世界では、既に実用化されているワクチンという治療法……というか予防を兼ねた対処方法です」
「予防? 感染症を防げるというのか?」
「うーん……完全に感染は防げませんが、感染しにくくなり、感染しても重症化するのを防ぐ効果があります」
ワクチンは、こちらの世界では未知の治療法なので、どう説明すれば良いのか迷ってしまいます。
それに加えて、僕の知識もあやふやな所があるので余計に分かりにくくなってしまっている気がします。
「済まないが、もう少し具体的に説明してくれないか。そうだな、例のリーベンシュタインの流行り病で例えてくれないか?」
「分かりました。まず、その新しい治療方法は、僕らの世界ではワクチンと呼ばれています」
「そのワクチンというのは、飲むのか? それとも塗るのか?」
「一般的なのは注射ですね」
「ちゅうしゃ……とは?」
「あぁ、そこからか……」
バルシャニアの魔落ち騒動では原始的な注射が使われていましたが、まだこちらの世界では注射そのものが普及していません。
注射を言葉で説明すると、またややこしくなりそうなので、もうタブレットを使ってサクサク説明を進めることにしました。
「なるほど、薬剤を直接体内に注入することで、効果が出るまでの時間も短縮できるのだな?」
「はい、それと飲み込むタイプですと、胃酸などの影響を受けてしまいますからね」
ワクチンについての説明も、ネットで適当な画像を拾ってきて、免疫作用などの説明も併せて進めました。
「こうして見ると、そちらの世界とこちらの世界では、怖ろしいほどの文明の格差を感じてしまうな」
「そうですね。こればかりはタイミングと言いますか……」
「まぁ、我々の文明が遅れているのは事実だし、考えようによっては、答えが出ている物を研究するのだから、遠回りをせずに済むメリットは大きいだろう」
タブレットを使い、図や写真などを活用して説明すると、元々頭の回転の速い人だけに、アンデルさんはワクチンのメリットを理解してくれました。
「つまり、リーベンシュタインを襲った流行り病もワクチンが完成していて、多くの者が接種を受けられる体制を整っていれば、あれほど大量の死者を出さずに済んだ訳だな?」
「おっしゃる通りですが、流行り病も常に変化していますので、必ずしも流行を防げるという訳でもありません」
「ワクチンが作れない病もあるし、ワクチンによって根絶できる病もある……そうだな?」
「その通りです。ワクチンには大きなメリットがありますが、実用化するには幾つもの壁を乗り越えなければなりません」
「まぁ、そうであろうな。注射器一つを取ってみても、衛生的な物を用意するだけでも大変だ」
今の日本では、注射器も針も使い捨てですが、こちらの世界で同じ物を用意するのは無理でしょう。
昔使われていたガラスのシリンジや、注射針も消毒して再使用という形でスタートするしかありません。
「バッケンハイムでワクチンが使われるようになるのは、果たして何年先になるのだろうな」
「基礎的な技術も違いますし、結構大変ですよね」
「大変なのは間違いないが、研究者という生き物は、自分達よりも遥かに進んだ技術や知識が存在するのであれば、探求せずにはいられない生き物なのだよ」
アンデルさんは、ワクチンの価値を鑑み、なるべく早く基礎的な研究から始めさせるそうです。
「研究は始めさせるが、一つ条件がある」
「何でしょうか」
「可能な限りの資料を提供してくれ。私は君から説明を受けて、ワクチンという物をある程度理解できたが、それを他人に説明しろと言われると心もとない」
「確かに、僕自身もまだあいまいな部分はありますからね」
「なので、基礎的な資料から専門的な資料まで、可能な限り用意してくれないか」
「分かりました。研究をお願いするのですから、資料は用意させていただきます」
「では、ケント君からの資料が届き次第、研究に着手できるように、人選は進めておこう」
「ありがとうございます。可能な限り早く、資料を用意いたします」
アンデルさんと握手を交わした後、そのまま執務室から影の空間に潜ってヴォルザードへと戻りました。
影の空間に潜ったところで、ラインハルトが話し掛けてきました。
『ケント様、早速資料を集めるのですかな?』
「うん、そのつもりなんだけど……一人でやってたら時間が掛かりそうだよね」
『基礎的な物から、専門的な物までとなると、相当な範囲になりますし、こちらの世界の常識を分かっている者がいないと難しいのではありませぬか?』
「そっか、僕らだと知っていて当たり前の事も、こっちでは当たり前じゃない場合があるもんね」
先程話していた注射器もそうですし、細菌とかウイルスとかも、理解していない人の方が多いはずです。
「うーん……そうだ! 暇人がいるじゃん!」
適当な人材を思い出したので、シェアハウスへと向かいました。
そして、目的の人物は、真昼間から共用のリビングで、ぐて~っとダラけていました。
「八木、暇だよね」
「お前、いきなり現れて、随分なご挨拶じゃねぇかよ」
「でも、暇でしょ?」
「残念だったな、俺様は次のリポートのプロットを練るのに大忙しなんだよ」
「レンタサイクル事業を売り飛ばして、懐が温かくなったからダラけてるだけだろう」
「お前は本当に失礼な奴だな。俺様が、あの程度のはした金で慢心するとでも思ってるのかよ」
「えっ、実際ダラけてたじゃん」
「だから……あぁ、もういい、国分に説明したところで理解出来んだろう。という事で、俺様は忙しいから帰りやがれ!」
八木はレンタサイクル事業をクラウスさんに譲渡して、まとまった金が手に入ったので絶賛ダラけ中だという情報は掴んでいました。
お金の無いときは、土下座する勢いで泣きついてくる男ですが、今の八木をお金で動かすのはちょっと面倒です。
「そっか、ランズヘルト共和国の歴史に、間違いなく名を残す事業なんだけどなぁ……まぁ、僕がやるかなぁ」
「ちょっと待て、俺様は寛大な男だからな、話だけなら聞いてやらん事もないぞ」
「えっ、でも八木、忙しいんだよね?」
「バーカ、お前は本当に馬鹿だな、折角俺様が時間を割いて話を聞いてやると言ってるんだから、さっさと話せばいいだろう。ほれ、ほれ……」
まぁ、八木の場合は、お金で釣れないならば、虚栄心をくすぐってやれば良いだけなんですよね。
そして、歴史に残る一大プロジェクトだが、成果が出るまでは資金は潤沢とは言えない……なんて話をすれば、なまじ懐が温かいだけに格安の報酬でも引き受けちゃうんですよ。
「じゃあ、忙しいところ悪いけど、資料集めよろしくね。そうそう、マリーデでも理解できるレベルから始めて」
「まぁ、俺様に掛かれば資料集めなど朝飯前だ。大船に乗ったつもりでいたまえ」
実際、脚色しないという条件ならば、八木は文章をまとめる能力だけは優秀です。
こうした資料集めには、もってこいの人物かもしれませんね。
資料集めの人選も済んだので、一旦クラウスさんの所へ報告にいきましょう。
「じゃあ、最初の締め切りは二日後ね。それまでに、ワクチンの基礎知識……みたいなのを作っておいてよ」
「ふぁっ? 二日後?」
「わふぅ、遅れたら、うちらが思いっきり遊んであげる」
「はっ? はぁぁぁぁぁ……?」
僕が言いたかった事は、ミルトが楽しそうに伝えてくれたので、影の空間に潜ってギルドへむかいましょう。