作品タイトル不明
嫁の怒り
「私にも一杯いただけますか?」
苦い酒を飲み干した僕のグラスを手にすると、ベアトリーチェはクラウスさんにお酒を要求しました。
ぐいっとグラスを突き出され、クラウスさんはちょっと眉を顰めた後で酒を注ぎました。
「おいおい、リーチェ……」
ベアトリーチェは戸惑うクラウスさんを尻目に、一息に酒を飲み干すと、ドンっと音を立ててグラスをテーブルに置きました。
「納得がいきません!」
「な、何がだ……」
「何でケント様が責められなきゃいけないんですか! そもそも魔の森の野営地は、ケント様が善意で築いたものじゃないですか! 何で、それを買い叩かれなきゃいけないんです!」
ベアトリーチェは眉を吊り上げて、完全臨戦態勢です。
「お金が無いから正当な値段では買えない? その値段では安く提供できない? そんなはずはありませんよね!」
「馬鹿言うな、領地の収入を全部見せてやっても構わねぇぞ。そんな金はヴォルザードには無いからな」
「それは、今のヴォルザードには……ですよね?」
「そうだが……将来、それだけの金が入ってくる保証なんかねぇからな」
「だとしても、ケント様から買い叩く理由にはならないじゃないですか!」
「お、おい……リーチェ!」
ベアトリーチェはクラウスさんから酒瓶をひったくると、ドボドボと乱暴にグラスに注ぐと、またしても一気に飲み干しました。
「ぷはぁー……これまでも! これまでもケント様はヴォルザードに多大な貢献をしてきました。オークやロックオーガの大量発生を退け、ゴブリンの極大発生を退け、四頭のサラマンダーを討伐し、ダンジョンの大蟻を退治し、リーゼンブルグとの和平を実現し……どれだけの利益をもたらしたと思っているんですか! その功績に、ちゃんと報いたと、ヴォルザードの領主として胸を張って言えますか!」
ベアトリーチェは臨戦態勢どころか、今まで見たことも無いぐらいブチ切れちゃってます。
「そ、それは……ヴォルザードに暮らす者として……」
「当然の義務だと言うのなら、お父様は何をされていたのですか! 他の人達は、何をしていたのですか!」
さっきまで、僕を見下ろして嫌味な口調で喋っていたクラウスさんが、急に借りてきた猫みたいになっちゃってます。
「ケント様もケント様です!」
「は、はいぃ、僕ですか?」
「何でそんなに簡単に言いくるめられているんですか!」
「ご、ごめんなさい!」
「ケント様がいなかったら、今頃ヴォルザードはロックオーガに蹂躙されていたかもしれないし、ダンジョンから溢れた大蟻の巣にされていたかもしれないんですよ!」
「そ、そうですね……」
「そうですねじゃありません! もっと英雄として、堂々としてください!」
うわぁ……もしかして、日頃から色々とベアトリーチェに丸投げしちゃってるストレスが溜まってたりするんですかね。
僕に矛先が向けられた途端に、クラウスさんがニヤニヤしてるのがムカつきますね。
「でもさ、ふんぞり返って偉そうにしている僕なんて、僕らしくないよね?」
「それは、そうかもしれませんが……」
「偉そうにしている僕と、いつもの僕と、リーチェはどっちが良い?」
「それは……今のケント様の方が良いですけど……ズルいです」
「あ痛たたた……」
膨れっ面したベアトリーチェに脇腹を抓られてしまいましたが、ホントはそんなに痛くないです。
脇腹を抓った後、ベアトリーチェは僕の左腕を抱え込んで、肩にしな垂れかかってきました。
一気に酔いが回ってきたのか顔が真っ赤で、二の腕に感じる柔らかさは、いつもよりも温かい気がします。
「クラウスさん、安く売るのは、やっぱり無しでお願いします」
「おまっ……」
「だって、頑張った人が正当に評価されない世の中は良くないですよね」
「そんじゃあ、金の無い連中はいつまでも貧乏でいろって言うのか?」
「そうは言いませんよ。だって、安い金額で土地を売るにしても、金のある人間が買い占めないとは限りませんよね?」
「それは、購入できる人間に制限を設けてだな……」
「買った人が金持ちに売り飛ばさないという保証は無いですよね?」
「それこそ、転売に制限を付ければ防げるだろう」
「購入させるよりも、貸し出す方が初期費用は安く済むんじゃないですか?」
「それは……」
ベアトリーチェに活を入れてもらったおかげか、硬直していた頭が回り始めました。
別に僕が安く売却しなくても、元手の少ない人達が野営地を活用できる方法は有るような気がします。
日本でのベンチャー企業への事務所の貸し出しとか、助成金の交付みたいに、これから事業を起こそうとする人を補助する方法はあるはずです。
「まぁ、僕の場合は眷属のみんなが優秀だから、魔の森の中であろうとも普通の土地と同じ感じで建設を進められたのは確かです」
「そうだろう、だったら……」
「それでも、それを安売りしてしまうのは、僕が僕の眷属の評価を叩き売りにすることです。それは、家族に対する裏切りだと思うんですよ」
たぶん、ベアトリーチェがここまで怒ってくれたのは、家族である僕や眷属のみんなが正当に評価されないことに対する怒りであり、それを受け入れようとした僕への憤りなのでしょう。
だから、ここで僕がクラウスさんに対して妥協するのは、ベアトリーチェに対する裏切りになってしまいます。
僕が前言を撤回したのを聞いて安心したのか、ベアトリーチェは僕に頭を預けて寝息を立て始めています。
「まぁ、しゃーねぇな。嫁にそんだけ尻を叩かれたら引き下がれねぇわな」
「良いんですか? 屋敷に戻ってマリアンヌさんに尻を叩かれませんか?」
「馬鹿野郎……そんなもんは慣れっこだよ」
「いやいや、そこは叩かれたりするもんか……とか言って格好付けてくださいよ」
「言ってみたところで、現実が伴わなければ格好付かねぇだろうが」
「まぁ、そうですよね」
「それにな、嫁の尻に敷かれているぐらいの方が、家の中は平和なんだよ。お前も、もう分かってんじゃねぇのか?」
「そうですね……」
実際、普段の僕は、唯香にお説教を食らってばっかりです。
今夜は、普段は甘々なベアトリーチェにまで怒られてしまいました。
マノンやセラフィマ、カミラからは殆ど怒られないけれど、だからといって不満が無いとは限りません。
偉そうな英雄にはなれないでしょうが、お嫁さんたちから格好良いと思われるようにしないといけませんよね。
テーブルに置きっぱなしになっている酒瓶を手にして、クラウスさんのグラスに注ぎ、自分のグラスも満たした。
「クラウスさん、野営地の件は、もう少しゆっくり考えてみませんか?」
「そうだな、ちょっと性急すぎたな」
「本気で街として整備していくのなら、今の規模では小さいと思いますし、大きく作っても交通の要衝ですから、すぐに手狭になりそうな気がします」
「まぁな、それにリーゼンブルグとの兼ね合いもあるからな」
魔の森中央の野営地は、ランズヘルト共和国とリーゼンブルグ王国の国境でもあります。
現在は、片側の野営地をヴォルザードで、もう片方をリーゼンブルグが管理する形になっています。
これがそのまま大きくなっていくとすると、国境線の扱いとかも決めておかないと、後々揉め事の原因となりかねません。
「よし、野営地の件は一旦保留だ。ディートヘルムかグライスナーを交えて、じっくり進めることにする」
「僕に手伝えることがあれば声を掛けて下さい」
「そいつは、どうすっかなぁ……ふんだくられそうだからな」
「いやいや、適正価格でお受けしますよ、適正価格で……」
さっきは、めちゃくちゃ苦く感じたお酒も、今度は美味しく味わえました。