作品タイトル不明
(48)秘密
今更なことを考えていたら、フィルさんがくるりと振り返り、まだ座っている私に手を差し出しました。
「追手が到着するまでの間に、君と一緒にお茶を飲みたいな」
「……今朝、お菓子を焼いたところなの。早めの準備と思っていたけれど、ちょうどよかったわ」
「それはよかった。僕は運がいい」
フィルさんはとても嬉しそうに笑いました。
その顔は本当に子供のように純粋で、私もつい笑い返しながら手を重ねました。
アルベス兄様は、ため息をつきながら馬に水を飲ませていました。
羊飼いたちからの連絡を受けて、視察は途中で切り上げて領地の端から駆けてきたのでしょう。
でも、まだ昼前です。
少ししたら、フィルさんの追手の方々が到着するようです。それからまた出向いても、視察だけならできる、かな?
「ルシアちゃん」
立ち上がって太陽の位置と視察予定地までの距離を計算していると、騎士の制服を着直したフィルさんが馬を引いてきました。
「僕の馬にどうぞ。押し上げるから、手に足を乗せていいよ」
……えっと、手を踏めってこと?
私はためらいましたが、満面の笑顔に負けて、馬の鞍に手をかけながらフィルさんの手に足を乗せました。
ゆっくりと体重をかけると、ぐいと上へと押し上げられます。
その勢いで、私は簡単に馬の背に乗っていました。
……いいのかなぁ。
フィルさんは王弟殿下です。その手を踏み台にしてしまったなんて。
思わず苦笑していると、馬に乗ったアルベス兄様がやってきました。
私をちらりと見て、アルベス兄様は渋い顔をしました。
「フィル。俺は先に行く。……お前を信用しているからな」
アルベス兄様はそう言って、馬を先に歩かせて行ってしまいました。
小さくなる姿を見送っていると、フィルさんが身軽に私の後ろに跨りました。
何気なく振り返ろうとして……背後から緩やかに抱き寄せられました。
「フィ、フィルさん?」
「……アルベスから一応のお許しが出たから、少しだけ……こうしていい?」
耳元で少しかすれた声でささやかれ、私は答えられずに身を縮めてしまいます。
でも……。
「嫌だったら突き放してほしい。我慢するから」
フィルさんの腕は私の体を囲っていますが、逃げようと思えば逃げられるほどの力しかこもっていません。
「僕は君をただの愛人にしたいわけではないんだ。だから、君が嫌なら我慢するし、世間体が悪いのなら極力触らない」
そう言い切って、でも少しだけ腕に力がこもりました。
「……でもやっぱり、もう少し恋人っぽいことがしたいなぁ……アルベスをしばらく地下牢に閉じ込めるか? いやそれより……現役に復帰させればいいのか?」
殊勝だなと思っていたのに、なんだか物騒なことを言い始めましたね。
私はフィルさんの腕を軽く押しのけてみました。私の体を囲っていた腕は、本当にするりと外れてしまいました。
振り返ると、フィルさんのきれいな顔は少し悲しげにも見えましたが、諦め切ったように微笑んでいました。
「ごめんね。少し触りすぎた?」
「それは別に……いや、そうじゃなくて。お兄様は一般人だから、ほどほどにしてね」
「……うん、それはそうなんだけど」
フィルさんは低くつぶやき、軽く足を動かして馬を歩かせ始めました。
「実を言うと、アルベスは本当に現役復帰できるんだよ。……まだ王国軍に籍があるから」
「…………は?」
馬の揺れに合わせて前を向いたばかりの私は、慌てて振り返りました。
フィルさんはゆったりと手綱を持ちながら、ちらりと私を見ました。
「アルベスは、書類上では僕の休暇中の副官になっている。王国軍の義務を負わない代わりに報酬も特権もないと言う特殊な地位だ。……要するに、僕の監視役かな」
監視役……。
一瞬、納得しそうになりましたが、すぐに我に返りました。
馬を歩かせているフィルさんは、私の視線を受けて苦笑を浮かべていました。
「僕も初めて知ったのは一ヶ月前だよ。たぶん、兄上と前の軍団長が手を回していたんだろう。僕が昔からここに入り浸っていたから、どう転んでもいいように準備していたようだ」
「……そういうこと、よくあるの?」
「普通は聞かないね。他の連中も知らないだろうし、もちろんアルベスは全く知らないままだ。でも一応、手に負えない王族対応として前例はあるようだし、王国軍の当時のトップと国王陛下の署名があるからには、まあ、どんなものでもありなんだよ。もっと早く知っていれば、アルベスを少し楽にしてやれたかもしれないけど……それはそれとして」
フィルさんは真面目な顔を崩して、人の悪そうな笑顔を浮かべました。
「重要なのは現役復帰の可能性だ。これは切り札になりそうだから、しばらくアルベスには秘密だよ?」
「え、でも……」
……こんな秘密、私に黙っていろと?
でも、フィルさんは口に指を当てて、楽しそうに笑っています。
困ったな。
私、努力はしますが……アルベス兄様に秘密を持ち続けることなんてできないと思います。
というか、これは黙っていていいことなのでしょうか。
お兄様にも、それとなく話しておく方がいいのでは……。
そんなことを思い悩んでいると、丘の上の羊飼いが手を振りながら走ってきました。何かを伝えようとしているようです。
もしかして、噂の追手が見えたのでしょうか。
私はそちらに体を向けようとしました。
フィルさんもちらりと目を向けて、小さく舌打ちをしたようです。
でも馬を止めることはなく、逆に無言のまま馬の腹を少し強めに蹴りました。
たくましい軍馬は、主人の望むままに駆け始めました。大きく体が揺れましたが、フィルさんがしっかりと抱きとめてくれました。