軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

153 ハリスの決意

重厚で威厳に満ちた学院の門をくぐり、義父を振り返った。

走り慣れていないせいか、そう大した距離でもないのに義父の息は切れていた。

「代表挨拶の練習場所は、講堂だったよな?時間は間に合ったかな?」

「ああ、大丈夫だと思うよ」

「え?」

「僕、時間を間違えちゃったみたい」

「・・・・・・ああ、そうなのか」

「うん。だから、ブレイクのいる教室に行ってくるよ」

義父の返事も聞かずに、背中を向けて走り出す。

眉を顰めた父の、その先に続く言葉を、今は聞きたくなかった。

お人好しで、どこか浮世離れした義父は、僕が父に会えば喜ぶだろうと、心の奥で信じていたのかもしれない。

義父の顔を立てて会いはしたが、本心では会いたくなかった。

けれど、嫌がって泣き喚くほど子どもではないし、意図を汲んで再会を喜ぶ真似ができるほど大人でもなかった。

(だって、僕が義父さんとたちと暮らすようになった原因は、「父」じゃないか)

忘れようにも忘れられない、あの日のことを思い出す。

子どもだから、大人の事情なんてわからないと思ったのだろうか。

説明もなく、突然無理やり起こされて連れて行かれた先は、いつも遊んでくれるシャーロットさんの家だった。

真剣に話す大人たちの様子に眠れるわけもなく、不安な一夜を過ごした。

数日後、僕の思いなどお構いなしに、義父の家に預けられた。

誰も、僕の気持ちを知ろうとさえしなかった。

母は別れるときに「絶対に迎えに来るから」とだけ言い残し、僕を置いて行った。

サイレニアで生活基盤を整えたあと、母は僕を迎えに来て、親子二人で暮らすつもりだったらしい。

父と完全に縁を切るためには、そうするしかなかったのだと、後になって聞かされた。

そんな母を責めなかったのは、誰もが悪いのは「父」だと、心の中でわかっていたからだろう。

(でも、義父さんにとっては「弟」だしね)

牢に入れられるようなことをした父が悪いと、頭ではわかっていても、心のどこかで父の味方をしたい自分がいたのだろう。

僕のいないところで、何度か義父たち夫婦の話し合いが行われていたことを知っている。

多分、義母は父の態度に腹を据えかねていたのだろう。

僕に手紙ひとつ寄越さない父を義母が責めても、義父は『養育費を送ってきているから』と、すべてが免罪されるかのように言っていた。

(だけどそれは、当たり前じゃないの?)

まだ一人で生きていけない子どもの僕は、大人の世話を受けざるを得ない。

子どもを産んだ以上、責任を持って育てるのは当然だと思ってしまう。

そう考えるのは、僕がまだ子どもで、世の中の複雑さを分かっていないからなのだろうか。

(・・・・・・僕たちの教室は、ここだな)

扉の脇に掛けられた札で教室を確認し、扉を思い切り開けた。

入学式にはまだ早いからか、案の定そこいたのはブレイク一人だけだった。

「ハリス!?ずいぶんと早かったな」

「まあね」

ブレイクは眉を少し上げ、首を傾げて尋ねてきた。

全く似ていない僕たちだけど、この眉の形だけは似ているとよく言われる。

「で、どうだった?」

「え、何が?」

「ヘンリーおじさんだよ」

「ああ。特に感想はないかな。なんか『血の繋がった他人』って、感じだった」

本当は、嫌悪感の方が強かった。

でも、ブレイクの前では、表情も言葉も穏やかに抑えた。

(他人だったら、ここまで嫌悪感を抱くこともなかったのかな)

不健康な生活を送っているのか、だぶついた身体に、くすんだ肌。

どろんと濁った瞳は、再会の喜びなど映しておらず、ただ僕の価値を見定めているようだった。

「へぇ、そんなもんか」

「そうだよ。だって、ずっと会っていないからね」

「まあ、そうだよな。この前、ヒューゴおじさんに初めて会ったけど、そんな感じしたよ」

「ヒューゴおじさん?」

「ああ、ほら、詐欺で捕まっていたおじさん。ずいぶん前に出所してたみたい」

「そういえば、そんな人もいたね」

詐欺を働いて罪に問われた伯父がいることは知っていたが、関心もなく、特に記憶には残っていなかった。

だが、見も知らぬ大人たちの口から漏れる話を、何度か耳にした。

『人の噂も七十五日』と言うが、そんなことはない。

善行はあっという間に忘れ去られるのに、悪業だけは、なぜか永遠に語り継がれる。

誰もが忘れたと思った頃に、不意に、親切を装った悪意として持ち出される。

母も義父たちも「父」のことは口に出さなかったが、それでも僕はよく知っていた。

「でも、どこで会ったの?」

「ああ、じいさんの入院先に見舞いに行ったら、たまたま顔を合わせたんだよね」

「へぇ」

「顔は、じいさんそっくりだったよ」

「ふぅ~ん」

祖父と僕は、まったく関わりがない。

父と縁を切った祖父は、その子どもである僕にすら顔を見せたくないらしい。

そんなことは僕にとってどうでもいいのだが、心優しい義父は何度も抗議を繰り返していた。

「じいさん、ハリスが新入生代表に選ばれたって聞いたらさ。『ホランド家の孫として認める』って言ってた」

「今さら、ごめんだよ」

「そうだよな。俺もそう思う。どうして自分に決定権があるなんて、思えるんだろうな」

「こっちにも断る権利があるって、わからないんだよ」

「大人って、なんでそんなに自分に都合よく考えるんだろうな」

「子どもを馬鹿にしているからだよ」

大人同士では気を遣えるくせに、相手が子どもになると、途端に雑になる。

自分の所有物とでも思っているのだろうか。

祖父は、ホランド家を引き継ぐ者として、ブレイクを大切に思っているらしい。

だが、ブレイク自身は、孫差別をする祖父を嫌っている。

義父たちの顔を立て、あくまで儀礼的に付き合っているに過ぎない。

血の繋がりさえあれば無条件に愛してもらえると、どうして信じてしまうのだろう。

子どもにだって、感情はある。

「ああ、そういえば、時間は大丈夫か?」

「うん、あと5分したら行こうかな」

母が、入学祝いに贈ってくれた腕時計で時間を確認する。

頻繁に顔を合わせることはなくても、母はいつも節目ごとに必ず思いを贈ってくれるのだ。

(・・・あの時、一緒にサイレニアに行っていたらどうだったかな?)

五年前、二人で暮らせる目途が立ったからと、母は僕を迎えに来てくれた。

でも、その頃は義父たちとの暮らしにすっかり慣れていた。

枕を濡らすほど恋しかった母は、いつしか遠い存在になっていた。

生活が変わるのは嫌だったし、何よりブレイクと離れたくなかった。

この国に残りたいと告げると、母の顔は悲しみに歪んだ。

母の涙を堪える様子に心は痛んだが、それ以上に僕は自分の心を守りたかった。

母を信用していなかったわけではない。

ただ、もう二度と捨てられる思いはしたくなかった。

僕の気持ちを拒否すると思った母は、意外にも僕の思いをじっと聞き、やがて静かに頷いた。

義父たちと相談した上で、僕はブレイクたちとの生活を続けることになったのだ。

母との暮らしは断ったが、それでも手紙を頻繁に送ってくれ、年に一度は必ず会いに来てくれる。

「俺にも腕時計をくれるなんて、ルナおばさんって、いい人だよな~」

「でも、義母さんだって、僕にも入学祝いをくれたじゃないか」

「ああ、それもそうか」

義母はいつも、ブレイクと僕を公平に扱おうとしてくれた。

だから、母からの贈り物が僕だけだったときは、少し申し訳ない気持ちになった。

それが今回は、ブレイクにも同じものを贈ってくれたのだ。

贈ってくれた腕時計はそれほど高価ではなかったが、ブレイクとお揃いだったことが嬉しくてたまらなかった。

二本の腕時計を前に、義母が「ルナ様も大人になったのね・・・」と呟いたのが、印象的だった。

僕から見れば、母は紛れもなく「大人」だったが、義母の目には、母はまた違って映っていたのかもしれない。

「そろそろ、講堂に行くよ」

「ああ、頑張ってな。応援してるぜ」

「うん。ありがとう」

廊下に出ても、まだ人影はまばらだった。

用もないのに僕と一緒に早く家を出たブレイクは、きっと僕の気持ちの揺れを感じていたに違いない。

何気ない風を装って、ブレイクはいつも僕のそばにいてくれる。

粗野だとよく言われるブレイクだが、その心の奥底はどこまでも繊細で優しい。

僕がこの名前を嫌がっているのを察して、最初に「ハリス」と呼び始めたのも、ブレイクだった。

赤毛を揶揄う奴らに立ち向かってくれたのも、ブレイクだ。

本人にとっては些細なことだったかもしれないが、僕はずっとそのことを覚えている。

ブレイクが僕の味方でいてくれたように、僕も永遠にブレイクの味方だ。

「カッコー、カッコー」

(・・・さっき鳴いていたカッコウかな?)

カッコウは春を告げる鳥でもあり、そのわかりやすい鳴き声から、様々な音楽に取り入れられている。

誰もが知っている身近な鳥である。

ほんの少し話をしただけで、教養も何もない、「父」だと、すぐにわかった。

あの男は、僕の嫌味に気づくことすらなかったのだろう。

わざわざカッコウについて説明したのは「父」への当て擦りだった。

『ずる賢い鳥だな』だなんて、どの口が言うのだろう。

自分こそ、僕を育てもせず、よその家に押しつけて育ててもらったくせに。

子育ての負担が重いからこそ、カッコウは托卵する。

その労力を他人に押し付け、自分の子孫を繁栄させようとする姿は、まさしくあの男そのものだ。

(まるで、僕が慕うのが当たり前みたいな態度だったな)

カッコウのヒナが親鳥を恋しがることなど、あるはずがない。

ヒナが『親』と思うのは、世話をしてくれる「宿主」に決まっている。

血の繋がりなんてものは、関係ないのだ。

僕の賢さを、あたかも自分の手柄であるかのように言ったことが、どうしても許せなかった。

ようやく手に入れた僕の賢さは、あの男の「血」のおかげではない。

これは、僕の努力と義父の惜しみない献身があったからこそだ。

何も知らず、いや、知ろうともしない男に、胸の奥で苛立ちがぐつぐつと煮えたぎる。

(血の繋がりだけで、親子になるわけないだろ!)

どうしてこんな簡単なことがわからないのだろう。

一緒に過ごした時間と記憶がなければ、そこにあるのは他人の顔だけだ。

もう「父」と会うことはない。

義父も、僕の今日の態度でわかったはずだ。

カッコウの話に慌てて割り込んだのは、僕の意図に気づいたからだろう。

もし義父が止めなければ、あの場で「カッコウこそお前の姿だ」と言っていた。

その言葉を飲み込んだのは、義父の「弟」を思う気持ちまで否定したくはなかったからだ。

(・・・でも、義父さんには、僕の気持ちは伝わったはずだしね)

あの男が僕に会おうとしても、断ってくれるに違いない。

優しい義父は「弟」を大事にしているが、僕のことをそれ以上に大切にしてくれている。

(・・・・・・・・・ああ、ここか)

長い廊下の果てに、講堂はあった。

講堂の扉は漆黒に磨き上げられ、長い年月を見守って来た歴史の息遣いさえ感じられるようなものだった。

この先へ進む覚悟を試されているかのようで、ほんの少し躊躇ってしまう。

(・・・・・・・・・・・・僕は、間違っているのかな?)

ずっと受け継がれ、繋いできた「血」は、本当にそれほど大事なものなのだろうか。

博識で尊敬している義父でさえ、どこか血の繋がりを重んじているように思えた。

親との繋がりを断ち切ることは、僕に許されないのだろうか。

その疑問が頭をよぎった瞬間、腕時計の秒針の音が胸に響くように聞こえた。

「違う。僕は、僕だ」

心の奥底から沸き上がった声が、思わず外へ漏れた。

僕を形作ってくれたのは、支えてくれた義両親と、いつも寄り添ってくれたブレイクだ。

そして、僕の気持ちを尊重してくれた母や、今でも僕を気にかけてくれるシャーロットさんがいたからこそだ。

僕は、僕を気にかけて関わってきてくれた人たちがいたからこそ、今の僕があるのだ。

法律も、世間の常識も、事情を知らない他人の親切めかした意見も、もう関係ない。

――自分の家族は、自分で選ぶ。

重厚な扉を手でしっかり押すと、かすかに軋む音を立てながら開いた。

講堂の窓から差し込む光が、僕の決意を祝福するかのように美しく輝いていた。