軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

129 ホランド伯爵

会場の中にいたのはホランド伯爵夫妻だけだった。

白いクロスがかけられた丸テーブルのそばの椅子に腰をかけ、まだ披露宴が始まる前だというのに、すでにお酒を手にしていた。

夫人は、そんな夫を止めることもせず、ただ黙って座っていた。

私たちが部屋の中に入ってきても、ホランド伯爵夫妻は、こちらに目を遣ろうともしなかった。

まだ披露宴が始まるには早いから、準備のために入ってきた使用人だと思ったのかもしれない。

アルバート様は一瞬眉を顰めたが、立場のある人間とは、結局こういうものなのだ。

下々の者など、目を遣る価値すらないのだろう。

「失礼します。ホランド伯爵、お久しぶりです」

私の声に胡乱げに振り返ったホランド伯爵は、アルバート様の姿に気づくや否や、慌てて立ち上がった。

隣にいた夫人も、慌てて立ち上がり、すぐさま夫に寄り添う。

二人の目は、声をかけた私ではなく、アルバート様に釘付けになっている。

「あ、アルバート殿下!どうして我が家に!?」

「ああ、友人が、どうしても披露宴に顔を出さねばならないと言うから、寄らせてもらった」

「ゆ、友人・・・?」

ホランド伯爵夫妻は事態がわからないのか、私の顔を見極めようと必死に目を細めている。

化粧の技術によるものなのか、それとも私に関心がなく、顔すら曖昧だったのだろうか。

二人とも、どうやら私が誰だかわかっていないらしい。

仕方がないので、前に進み出て挨拶をする。

「ホランド伯爵、奥様、お久しぶりです。サウスビー家のアンナです。このたびは、おめでとうございます」

「あ、アンナか?本当に、アンナなのか?」

「はい」

「サウスビー家の、アンナか?」

「ええ、そうです」

何度も名前を問いただされるたび、胸の奥がざらつき、不快感がじわりと積もっていくのを感じた。

つい先月まで、私は息子のヘンリー様の婚約者だったのだ。

いくら化粧しているとはいえ、顔くらいはわかりそうなものだ。

「はい。披露宴にご招待いただいておりましたが、本日はやむを得ない所用がございまして、取り急ぎご挨拶のみ申し上げに伺いました」

「いや、ちょっと、待ってくれ。どうしてアンナが、アルバート殿下と一緒に来るんだ!?」

「え・・・・・・」

「まさか、アルバート殿下と知り合いだったのか!?」

「あの、知り合いというか・・・」

「知り合いじゃないのか?じゃあ、なんなんだ!?」

「えっと・・・」

「儂にわかるように、きちんと説明しろ!」

会ってすぐに責められるような言葉をかけられるとは思わなかった。

ヘンリー様が婚約を破棄したことへの謝罪を期待していたわけではない。

ただ、礼を尽くした私に対して、この反応はどういうことなのだろうか。

困惑して眉を顰めていると、ホランド伯爵は眉間に皺を寄せ、詰問するようにじりじりと近づいてきた。

思わず身を後ろに引く私の視界に、その険しい顔が大きく迫る。

その瞬間、アルバート様が私の肩をそっと引き寄せ、抱き留めた。

予期せぬアルバート様の行動に、ホランド伯爵はハッとし、足を止めた。

「聞いていなかったのか?アンナ嬢は、私の友人だと言っただろう?」

「友人・・・?」

「ああ。私の『大切な友人』だ」

その言葉に、ホランド伯爵が恐る恐る私の左手に目を遣った途端、背筋をピンと伸ばした。

どうやら私の指に燦然と輝く婚約指輪に気付いたらしい。

夫人も口に手を当て、驚いた表情を浮かべている。

急にホランド伯爵の目が怪しく光り、見たこともない笑みを向けてきた。

「アンナ様、この度はお越し下さり、誠にありがとうございます」

「え?え、ええ。あの・・・」

「どうぞ、殿下とアンナ様には、一番いいお席をご用意いたします。ご案内しましょう」

(えっ、敬語?)

今まで、ホランド伯爵から敬語を使われたことなんてなかったから、態度の変わりようにびっくりする。

普段の偉そうな態度は影を潜め、今目の前にいる伯爵は、まるで別人のようだった。

必要以上に深く頭を下げ、口元をこれでもかと引き上げている。

「いや、結構だ。用事があると言ったはずだ」

「そうおっしゃらずに。ヘンリーも、英知あふれるアルバート殿下から祝福していただければ、さぞかし喜ぶことでしょう」

「喜びはしないだろう。私とヘンリーには、何の接点もないのだからな。見ず知らずの他人に祝われて、何が嬉しいのだ?」

「あ、いや、でも、ヘンリーは騎士ですので、殿下とご一緒してるかと・・・」

「ヘンリーと顔を合わせたことは、一度もない」

へつらう伯爵を前に、アルバート様は軽蔑の色を隠すこともせず、冷ややかな視線を向けた。

伯爵はぎこちなく笑みを浮かべるしかなく、必死に場を取り繕おうとするが、その表情はどこか硬く、見るからに居心地が悪そうだった。

「ところで聞きたいのだが、どうしてアンナ嬢をこの披露宴に呼んだのだ?」

「え、え、え、いや、あの」

「お前が話があると言って呼んだのだろう?」

「は、は、い、いえ・・・」

「話はないのか?」

アルバート様が片眉を上げ、鋭い視線でホランドを貫いた。

その瞬間、ホランド伯爵は背筋を一段と伸ばし、直立不動の態勢を取った。

驚いたのか、夫人までもが慌てて背筋を正し、伯爵に倣う。

その場に一瞬、恐ろしいほどの緊張が走った。

「は、は、は、話!え、ええ、ヘンリーが渡した慰謝料についてお聞きたいことがあったので、お呼びしたんですよ」

「ほう。何か問題があったのか?」

「あ、は、はい。実は、お渡しした慰謝料の金額が、あまりにも高額だったものですから・・・」

震えながらホランド伯爵は、ちらちらと私に助けを求めるように見てきた。

私が歴史ある伯爵家で力があると思っていたホランド伯爵は、どうやら偉ぶっただけの小心者だったらしい。

私はこんな人を恐れていたのかと思うと、肩の力が抜けると同時に、あんなにも怖がっていた自分が恥ずかしくなった。

「ホランド伯爵。その件についてですが、あの慰謝料はヘンリー様から私に自主的にお渡しいただいたものです。契約書も交わしていますし、法律上は問題ないはずです」

「あ、ああ、そ、そうだな。いや、ちょっと聞いてみたかっただけだ」

「では、お話はこれで終わり、ということでよろしいでしょうか?」

「あ、ああ」

まさかこのような展開になるとは思っていなかったのだろう。

ホランド伯爵は、私を射殺すような目で睨んできた。

でも、アルバート様が隣にいるおかげで、ホランド伯爵はこれ以上何も言いだせない。

私への苛立ちを隠しきれず、わずかに肩を震わせる伯爵を前に、アルバート様は無言で見下ろしている。

(・・・・・・これで、一安心ね)

ホランド伯爵から、今後私に慰謝料について言ってくることはないだろう。

アルバート様の威を借りたことは申し訳なかったが、これでサウスビー家に嫌がらせをすることもないはずだ。

結局、あれほど威張っていたホランド伯爵も、アルバート様の前では何もできないのだ。

廊下からは、靴音と共に、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

披露宴の始まる時間になったのだろうか。

招待客に会わないよう早く出てきたはずだが、思った以上に時間が経ってしまったようだ。

(・・・噂話の的になるのは避けたいわね)

アルバート様も同じことを考えたのか、素早く扉に目を遣り、話を切り上げてくれた。

「話が終わったようなら、これで失礼する。では、行こうか」

「はい」

「あ、あの、お待ちください。よかったら、アンナ様だけでも、どうか披露宴にご出席ください」

ホランド伯爵の申し出に、アルバート様は心が凍り付くような瞳で、じっと見下ろした。

背も高く、無表情で、何より同じ人とは思えないアルバート様の冷たい美貌は、こうして客観的に見ると圧倒的な威圧感を放っていて怖い。

「どうしてアンナ嬢が、ヘンリーの披露宴に出席せねばならないのだ?」

「あ、いや、その、ヘンリーとアンナ様は、その、親しくしていたので、ヘンリーの門出を祝いたいだろうと思いまして」

「浮気された挙句に婚約を破棄された相手の披露宴など、誰が行きたがるのだ。自分が何を言っているのか、わかっているのか?」

「い、いや、でも、アンナ様はお優しい方ですし。あ、アンナ様は、ヘンリーを祝いたいですよね?」

「・・・申し訳ありませんが、もう私とヘンリー様は関係ありません。それに元婚約の私がいることで、ルナ様も心から披露宴を楽しめないはずです。だから、私は披露宴には出席しないほうがいいと思います」

「いや、でも!」

「申し訳ありませんが、今日はこのまま失礼させてください」

「ま、ま、お待ちください。そんなことはおっしゃらずに、是非!!!」

(・・・どうしてそんなにまでして、私を披露宴に出席させたいの?)

今までだったら、力関係の都合上、ホランド伯爵の言うこと全てに頷いていた。

私が一人になれば、慰謝料について、どうとでも言い含めることができると思っているのだろうか。

それともホランド伯爵は、アルバート様の妃となる私を味方に引き込み、利用しようと思っているのかもしれない。

「悪いが、私たちは兄上から呼ばれている。アンナ嬢がお前に呼び出されたと言うから、一緒に来たまでだ。遅くなると兄上にも迷惑がかかる。今日はこれで失礼したいのだが、いいか?」

ホランド伯爵の顔がさっと青ざめた。

陛下の名を持ち出されて、異を唱える者はいないだろう。

案の定ホランド伯爵は、慌てたように小さく頷いた。

「え、ええ、勿論でございます」

「では、失礼する」

扉を開けると、招待客たちが怪訝な顔でこちらを覗っていた。

内輪だけの披露宴だと思っていたが、想像以上に人が集まっていた。

それでも誰一人として扉を開けなかったということは、中の不穏な空気を察していたのかもしれない。

ホランド伯爵は、周囲に招待客の姿を認めると、まるで何事もなかったかのように悠然とした態度を見せた。

必死に縋りついてきた先ほどの様子は微塵もなく、落ち着き払った表情で胸を張る。

そのあまりの変化に、一瞬戸惑ってしまう。

恐らくホランド伯爵は、アルバート様の前で見せた醜態を誰にも知られないよう、体裁を取り繕ったのだろう。

だが、その目の奥には、アルバート様の視線を意識したわずかな緊張が見え隠れしていた。

額からは、汗がじっとり滲み出ている。

「お待ちください、アルバート殿下。殿下とアンナ様は、婚約なさるのですよね?」

「・・・正式な発表があるまでは、何も言えないのだが」

「失礼いたしました。ただ、このようなことを申しては何ですが、子爵家のアンナ様は、宮廷には不慣れでございましょう。宮廷には、独自のルールもありますしね。経験のないアンナ様は、ご不安なことも多いと思います」

「大丈夫だ。心配ない」

「いいえ、そんなことはないでしょう。アンナ様の性格を、私はよく存じております。もし良かったら、私がアンナ様の後見人にとなってお支えしましょう」

「後見人は、もう決まっている」

「そんなことはおっしゃらずに。実はアンナ様は、うちの家内と親しくしていましてね。アンナ様も、気を許せる家内と一緒だったら、宮廷でも安心だと思います」

ホランド伯爵は笑顔を浮かべているが、夫人はホランド伯爵の突然の発言に青ざめている。

それはそうだろう。

私と夫人は仲が良いどころか、手紙のやり取りさえほとんどしたことがない。

そんなことはホランド伯爵も百も承知だろうに、あろうことか、ホランド伯爵は私に目配せを送ってきた。

(呆れた。この期に及んで、私がホランド伯爵の言うことを聞くとでも思っているのかしら?)

どこまでも舐められたものだ。

ここで私が頷けば、招待客たちが証人となる。

ホランド伯爵は私を利用し、宮廷内で自身の地位を高めようとしているのだろう。

アルバート様は一つひとつの目線を確かめるようにゆっくりと視線を巡らせ、低く、しかし響き渡るような声で、私に問いかけた。

その静かな威圧感に、招待客たちは一瞬で息を潜めた。

「・・・・・・アンナ嬢、ホランド伯爵夫人と親しいのか?」

「いいえ、婚約式の時にお会いしただけです」

アルバート様に正直に伝えたところ、居合わせた招待客の中から、わずかな失笑が漏れた。

その笑いが耳に届いたのか、ホランド伯爵の顔は、一瞬のうちにどす黒い赤に変わった。

恐らく、アルバート様がいなければ、この場で思い切り怒鳴りつけられていたに違いない。

怒りの度合いから考えると、最悪、手を出されていたかもしれない。

イザベラ様の言う通り、ホランド伯爵は私を、自分の命令なら何でも従う都合のいい存在だと考えていたらしい。

「アンナ嬢は、こう言っているが」

「いや、でも、やはり宮廷に慣れている者がいないと不安でしょうし、ぜひうちが後見人に・・・」

「その点は大丈夫だ。すでに姉上がアンナ嬢の後見人になっている」

「イザベラ様が・・・!!」

ホランド伯爵が上擦った声が響くや否や、招待客の間から驚きの声が次々と漏れた。

「あのイヤリングは、もしかして・・・」

「ああ、あれは間違いなくイザベラ様のイヤリングだ・・・!」

「じゃあ、あの娘の後見人は、本当にイザベラ様なのか!?」

周囲がざわめき、視線が一斉に私のイヤリングに集中しているのを感じた。

イザベラ様は、口だけでなく、本当に大きな力を持っていたらしい。

まるで恐ろしいものでも見たかのように、皆が私の耳に注目しながら後ずさっている。

ホランド伯爵が視線を落ち着かなく泳がせる中、アルバート様は微動だにせずにじっと伯爵を見据えていた。

その冷たい視線は伯爵の焦りを際立たせるだけでなく、招待客の緊張感まで引き上げていた。

「他に、何か言いたいことはあるか?」

「い、いえ。ございません」

「では、私たちはこれで失礼する」

さすがのホランド伯爵も、ここでこれ以上は何も言えなかったらしい。

アルバート様が廊下に出ると同時に、廊下にいた招待客たちが一斉に臣下の礼を取った。

豪華な衣装に身を包んだ貴族たちが一斉に頭を垂れる光景は、ただ華やかなだけでなく、アルバート様の威厳に押される緊張感に満ちていた。

華やかな装いとは裏腹に、怯えたように隅で頭を下げているあの集団は、ルナ様の友人なのだろうか。

きっと彼女たちは、ルナ様を純粋にお祝いする気持ちで、この場にやってきたのだろう。

胸の奥が、申し訳なさでいっぱいになるのを感じた。

どうしていいかわからず、アルバート様の腕にそっと手を添えた。

視線が自分に注がれているのを感じながらも、ただ急ぎ足で彼女たちの前を通り過ぎるしかなかった。

アルバート様はいつもの無表情を崩さなかったが、視線の鋭さや微かな肩の動きから、内心では苛立っているのが伝わってくるようだった。