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完璧な王太子殿下の隣で、私は彼に恋を囁く

作者: 日室千種

本文

「どうしよう」

自室の窓辺で、栗色の髪がもつれるもの構わずカーテンにぐるぐると 包(くる) まれて、フルーシュテは途方に暮れていた。

「私が、王太子殿下と、婚約?」

そっと低く囁くと、困惑の事態が現実味を帯びた。

幼い頃からどんなに困っている時でも慰めてくれたカーテンが、今は無力だ。

王家からの正式な申し出を、中堅どころのメジク伯爵家が理由なく断れるはずがない。

エアヴァナハト王太子殿下は、フルーシュテと同じ十七歳。先の王によく似た豪奢な金の髪と瞳、女王譲りの繊細な容貌を持ち、立ち居振る舞いはそこらの淑女より優美でありながら、武芸にも秀で、頭脳明晰な上に決断力も胆力も備えていると評判で、次代の王として今から心酔する家臣も多く、とにかく国民に熱狂的に慕われる素晴らしい王太子である。

フルーシュテの生まれたメジク伯爵家も、建国以来続く所領持ちの家で、社交界でも堅実な地位を守っている。フルーシュテも令嬢として、王太子殿下に直接挨拶をしたことも、光栄にもデビュタントのファーストダンスを踊っていただいたこともある。

間近で見た王太子殿下は、噂に劣らず輝かしい方だった。デビュタントでお相手いただく時にあまりの興奮に倒れてしまう令嬢もいるというのも、頷ける。

さらに王太子は、自身の影響力を十分に知りながら、立場や人望を鼻にかけたところなど微塵もなく。老若男女、誰に対しても穏やかに誠実に向き合う人柄だということは、夜会で見ていればよくわかった。

物語の中でもそうはいない、完全無欠の王太子。

それが、エアヴァナハト王太子殿下だ。

その王太子殿下との縁談が王宮からもたらされたので、フルーシュテは混乱している。

フルーシュテは、国の将来を明るくする王太子殿下をすごい方だと心から尊敬し、敬愛していた。その人生の幸いなることを、国民の一人として祈っていた。

カーテンに包まれている今ならわかる。祈りの気持ちに嘘偽りはないが、あれは、個人的には関わりはないからこその、純粋な祈りだった。

素晴らしい王太子殿下には、一人の男性としても、幸せな結婚をぜひしてほしい。どなたか、殿下と同じほどに素晴らしい完璧な女性と。

間違ってもその相手は、フルーシュテではないはずだ。

フルーシュテは決して不美人ではない。透明度の高い緑の目が美しいと言われることもある。高位貴族の令嬢としての教養も修めており、社交も勉学も淑女の嗜みも満遍なくそこそこにこなす。だが、抜きん出たものはない。声を褒められることが多いが、歌が得意なわけではない。

貴族令嬢としてはごく平凡。どこにでもいる程度の令嬢なのだ。

決して、殿下が恋に落ちたり、運命を感じたりする相手には、なり得ないはずだ。

なにより、フルーシュテは恐ろしい。

王太子殿下は、ただ完璧なのではない。常に、完璧な方なのだ。

王宮からの使者は、何を思ったか、エアヴァナハト王太子殿下の一日、と題した冊子を持参した。——王太子の近侍が、王太子のとある一日を詳細に記録した内容だ。

予想はしていたが、早朝から深夜まで、分刻みで動き回るエアヴァナハト殿下は、どの時間の記録においても完璧だった。

朝、あくびを噛み殺すことも、昼、苦手な食材を避けることも、夜、面倒な調停の苦労をぼやくこともない。自分の手に余る問題に動揺して、カーテンに包まることだって、絶対にないだろう。

冊子の本来の意図は知らず、フルーシュテはその完璧な一日を読んで、なんて素敵な方でしょう、とは思えなかった。

己を厳しく律する男性、気の緩んだところなどひとつも想像できない相手に嫁いで、その隣に立つ自分を想像した。

当然、フルーシュテには王太子のような完璧な存在になることなどできない。きっと、あくびをしたり、青臭い葉物を皿の奥に除けたり、話題の合わない淑女の茶会の愚痴をこぼしてしまう。

完璧な王太子は、それをどう受け止めるのだろう。

不安を打ち明けてみたものの、父は「王太子殿下は完璧でいらっしゃるが、まだお若く芸術に興味が薄いようだから、お前が楽しさを教えて差し上げろ」などと言っていたが、そんなはずはない。芸術に傾倒した父は、どことなく上からの物言いをする癖がある。

母は小首を傾げて「そうねえ、あなたは十分に淑女だけれど、あの王太子殿下がお相手では、気が引けるのもわかるわ」と共感だけは示してくれたが、状況は変わらない。

どうしようもなくて、フルーシュテはカーテンに包まっていたのだった。

カーテンに永遠に包まっているわけにもいかない。

顔合わせの日はすぐにやってきた。

顔合わせの日、王太子殿下は完璧だった。

まず、あくまで婚約を申し出る男性として、王宮にフルーシュテを呼び出すのではなく、伯爵家の屋敷まで足を運んでくれた。

玄関先に、圧倒的存在感を放つ王太子が立つと、見慣れた景色が見知らぬ場所に見えた。

曇りのない金の髪と金の目に、眩しくて何度も瞬きをしそうになるのを堪え、緊張に固い挨拶をする。見上げた王太子殿下は、思ったより背が高かった。ダンスの時ほど踵の高い靴を履いていないせいだろうか。

「これは、王太子殿下。まだ背が伸びておられるようですな。先の陛下に似て、大きくなられることでしょう」

「そうなのだが、父に似ていると言われると面映いものだな」

父伯爵の気安い言葉に王太子殿下も朗らかに頷いていたので、靴のせいではなかったらしい。フルーシュテのデビュタントは一年前。一年の間に身長差は開いていたようだ。

未だ成長期にある年齢にも関わらず、父伯爵の不躾な発言にもやわらかく対応できるとは、やはり素晴らしい社交性だ。

応接間でも、殿下は礼儀正しく父伯爵と対話をして、母にも話を上手く振った。そうして場を温めて、いよいよフルーシュテと向き合った時にも、見定めるような気配も、落胆する様子も、微塵も見せなかった。

優しく微笑んで、慎み深くフルーシュテの指先に唇を寄せ、誠実に婚約を申し入れてくれた。

どこか、出来すぎた夢のような、台本通りの舞台を見ているような。

ぼんやりとするフルーシュテを置いて、何の滞りもなく、話は決まってゆく。

二人の婚約は契約を交わして正しく整い、エアヴァナハト殿下の母である、現女王の強い希望で、婚約中は決して度を超えた接触はさせないという約束のもと、フルーシュテは王宮に住むことになった。

フルーシュテはその日も、カーテンに包まった。

フルーシュテが王宮に入る日も、王太子殿下は完璧だった。

伯爵家までわざわざ迎えに来て、王宮に着けば、自ら部屋まで案内してくれた。

目が合うと、いつも鋭い金の目を僅かに緩めて優しく微笑み、頻繁にフルーシュテと名を呼んで、何くれとなく話しかけてくれた。

そして王太子殿下が完璧なのは、初日だけではなかった。

毎朝届く一輪の花。

時には一日に二度三度、ふとした時に贈られるメッセージカード。

時間が空けば短時間ながら会う時間を作ってくれる。

晩餐では予定の許す限り女王と三人で顔を合わせ、その後は部屋の前までエスコート。

王太子殿下は、婚約者としても完璧だった。常に。いつだって。

「どうしよう」

フルーシュテは、王宮で与えられた部屋のカーテンに包まった。

伯爵家のカーテンとは違う香りがする。

「王太子殿下が、完璧すぎる」

もとより、憧れに近い敬愛の念を抱いていた相手だ。これほど近くで、大切にされれば。

「好きに、なってしまいそう」

正式に、婚約もしている。だから、好きになっても、いいだろうか。

フルーシュテが完璧ではなくても、もしかして受け入れてもらえるのではないだろうか。

早々に、フルーシュテはぐらぐらと揺れた。

けれど、現実を知るのもまた、早かった。

王宮に滞在六日目から、フルーシュテもいずれ王太子妃として必要な指示ができるよう、少しずつ慣らしていくことになった。

執務に触れるのだから、王太子殿下と同じ執務等の同じ階で過ごす時間が増えた。

お互いに忙しいので、会話を交わす時間はほとんどない。

かわりに、廊下の曲がり角の先の側近たちの雑談、少し休んだ外廊の下で交わされる使用人たちの情報交換、ふたりに共通して付く近侍の善意の噂話、そんなところから漏れ聞こえてくる情報が入ってくる。

「殿下は贈るお花を庭へ出てご自身で選ばれるんだそうですよ」

「殿下の執務室の専属近侍をもう一人増やしたい。業務時間が長く、集中力がもたないなら、入れ替えるしかない」

「執務室の灯りの補充の頻度を上げるよう、奥向きの侍従に周知してくれ。この頃消費が激しい」

王太子殿下の完璧な一日を冊子で一度把握していたフルーシュテが、初日から怪しく思っていたことが、実感を伴ってくる。

もしかしてと周囲にそれとなく確認すれば、懸念の通り。

フルーシュテのために捻出してくれていた時間は、執務の量を調整して作ったのではない。やるべきことは減らさずにそのまま、王太子殿下の休息の時間を持ち出していたのだ。

その日の花を選ぶために、フルーシュテの様子を少し尋ねて気持ちをほぐすために、毎日の晩餐に出るために、王太子殿下は時間を使うことを惜しまないようだ。

かといって、他の予定を省いたり、切り上げたり、先延ばしにしたりもしない。全ての予定は変わらぬまま、朝起きる時間を早め、夜寝台に入る時間を遅らせている。

もとより連日密なスケジュールが組まれているのに、そんな無理が続くはずがない。けれど、フルーシュテが慣れてきたからと、おざなりにされる様子もない。

それまでも完璧だった王太子殿下は、婚約者としても完璧であり続ける。

足りない睡眠も、積もりゆく疲れも見せず、常に行動をともにする側近たちにすら何も気づかせることなく、涼しい顔を保っている。

それどころか、

「先日方針が定まった北方の橋の建築だが、懸念の残っていた石の加工について殿下が再検討を提案してくださった。さすが殿下だ」

自ら仕事を増やしてやるべきことを増やすことに、躊躇わないようだ。

これが、エアヴァナハト王太子殿下。

もとより完璧な彼は、あらゆることに手を抜かず、日々、より完璧であり続けることに苦しみも恐れも、迷いもないように見えた。

尊敬していた相手の、さらに凄まじい超人ぶりを目の当たりにして、フルーシュテの胸はときめくよりも、ピリリと痛みを感じるほど冷たくなった。

なるほど、王太子殿下の婚約者への思いやりは、すべて心から真っ直ぐに差し出されているのだろう。

もし、フルーシュテが図太く愛されるのが上手な令嬢であったなら、笑ってその配慮を受け取り、何食わぬ顔で妃として居座り、それで案外と、うまくいくのかもしれない。

けれど、フルーシュテは、図太くはない。

無条件で愛されて、当然だとは思えない。

どうしたって、その配慮を受けるだけの価値が自分にあるのかと、考えてしまう。

そして、客観的に見て、そこまで自分に価値があるとは、思えないのだ。

完璧ではないフルーシュテを見て、王太子殿下はどう思うのだろう、と悩んでいたことを思い出す。その答えは、分かった気がした。

きっと王太子殿下は、気にしない。

完璧ではないフルーシュテがいても、王太子殿下の完璧さを翳らせることはないからだ。

そしてそのまま、王太子殿下は婚約者を、そしていずれは妻を、完璧に尊重するだろう。

フルーシュテに価値があろうがなかろうが、王太子殿下には関わりがないのだ。

気がついてしまって、フルーシュテはその場に座り込んだ。

「フルーシュテ、最近、様子がおかしいようだが」

「殿下、いえ、そんなことは」

口では否定しながら、フルーシュテは、つい体を固くした。

あの日、疲れが出たのだろうと侍女たちが心配するので早々に自室に下がったが。それから数日経っても、まだ体の中に固いしこりがあるようだ。

「何か、困ったことでもあったのか?」

「いえ、そんなことは」

実際、困っているわけではない。

なにしろ王宮の誰もが、まだまだ至らぬフルーシュテに優しい。

普通の貴族令嬢としての教育が王太子妃に求められる基準に達しないのは当然と受け止められているのだ。その差を埋めるために、三年は猶予期間と考えていいと女王からも言われている。さらには、妃となってからも終わりなく学ぶ日々が続くのだから、急がずこつこつと進めましょうと、日々講義をしてくれる教師たちもどっしりと構えているので、圧力を感じずに済んでいる。

まして、フルーシュテを王太子殿下と比べるようなことを、だれも、一度もしなかった。むしろ、ささやかな美点を見つけては、褒めてくれる。

けれど、誰が言わずとも、フルーシュテこそが、勝手に王太子殿下の背中を見てしまうようになった。

比べられないのは、差がありすぎるから。褒めるのは、なんとか伸ばそうと目的があってのこと。世の中では中の上程度でも、褒めなければならないから、褒めているだけ。そう考えてしまうようになった。

だって、まるで、及ばない。

張り合おうなどと思っていないけれど、それでも、まるで大人と子供、いや生まれながらに異なる人間であるかのように、王太子殿下は完璧で、ずっとずっと、遠く、先を行っている。

「フルーシュテ、君は十分頑張ってくれている。何の不足もないよ」

まるでフルーシュテの心を読み取ったように、王太子殿下がそう言った。

誠実な言葉だけではない。少し翳った金の眼差しからも労わりが伝わってくる。

けれど、今は、どう慰められても、救われない。

フルーシュテは返事をせずに、俯いた。

「こう言ってはなんだが、王太子である私と比べるのが間違っているよ。君は君であればいい。そうだ、今度気晴らしに、王宮内の池に舟でも浮かべてみるのはどうかな?」

優しい声で、王太子殿下が提案をする。

フルーシュテは、伯爵家の領地にある湖に舟を出すのを、毎夏の楽しみにしていた、それをきちんと把握しているのだろう。さすがだ、と思う。

そして同時に、フルーシュテは、王太子殿下の趣味など一つも思い当たらないことが、胸を刺した。

それに、フルーシュテの気晴らしのために舟で遊んだとしたら。きっとその夜、王太子殿下は眠らずに、本来その時間にこなせたはずの仕事をするのだろう。価値もないフルーシュテの気晴らしのために。

そう思うと、舟遊びの提案が脅迫に聞こえた。

「あの…嬉しいですけれど、お気遣いには及びませんわ」

フルーシュテは、何とか丁重に断ることにした。

王太子殿下は、ほんの少し困った顔をして「君がそう言うなら」と頷いた。

「この頃、気鬱の様子と聞くが」

フルーシュテは、女王陛下の前で背筋を伸ばしていた。

舟遊びに誘われ、断ってから、四日目の早朝。いつも朝食は自室で取るのだが、この日は朝食を共にするようにと、女王の私室に呼び出されたのだ。

「食事はそれだけ?」

このところずっと、あまり食欲がない。厨房に希望を出してもらって、具を煮溶かしたようなスープを作ってもらっていたのだが。今朝、女王陛下と同席する朝食の席でも、フルーシュテの前には、律儀にそのスープだけ置かれていた。

配慮はありがたいが、おかげで、隠すことができなかった。

「不甲斐なくて申し訳ありませんが、食欲がありません。少し、滅入ることがございまして」

「それは、エアヴァナハトのこと?」

「いえ、私の心の持ち方が原因です」

まだ慣れないのだからと慰められるか、しっかりしなさいと叱責されるか。

けれど女王陛下は、ただ黙って食事を再開させた。陛下の皿には、果物と、肉と卵が目立つ。小さな口で、それなりの量の朝食を、あっという間に食べてしまうまで、ぼんやりと見つめてしまった。

食器を置く微かな音でフルーシュテも慌ててスープを飲み始めたが、どうしても喉で止まってしまう。

「無理をして食べなくてよい。食べられそうな時に食べなさい。こちらも」

女王陛下が手を振ると、まるであらかじめ用意されていたかのように、小さな陶器の器に、黄色い干し葡萄のような粒がいくつも入ったものが、フルーシュテの前に置かれた。

「蜜を練り固めたものだ。栄養価が高い」

「ありがとう、ございます」

女王陛下から、母のような慈しみを受けて、フルーシュテは項垂れた。

王太子殿下だけが超越しているのではない。その母である女王陛下もまた、並外れて優れた人であることを思い知った。

陛下の補佐をしている王太子殿下は、完璧とはいえ、まだ成人前。ゆえに、ただ一人の現役の王族として、女王陛下は王太子殿下に輪をかけて多忙なはずだ。その中で、息子の婚約者の憔悴ぶりを気にかけ、時間をとって労り、必要な助けを差し出してくれる。

そんな完璧な母と息子との間に、フルーシュテが入れると、誰が思うのだろう?

無理だ。人間が、違いすぎるのだ。

フルーシュテが必死になっても、きっとその差は永遠に縮まない。

この数日で一番強烈な絶望が襲ってきて、目眩がした。

「フルーシュテ、すまないわね」

ふいに、女王陛下が頭を下げた。

義娘になる予定のフルーシュテを招いた朝食では、気軽な装いだ。サラサラと流れ落ちる金の髪に、冠はない。

だが冠などなくても、女王陛下だ。

「陛下、なぜ。どうぞ頭をお上げください」

フルーシュテは、意識して小さな声を出した。騒ぎにして、この様子を多く人間に見られるのは良くないだろうと判断したのだ。

女王陛下はゆっくりと顔をあげて、静かに微笑んだ。

「気遣いをありがとう、フルーシュテ。良い判断よ。あなたは本当に、素晴らしい」

女王陛下から、直接はっきりと褒められる。ふわりと、一瞬気持ちが浮上したのに。

「あの、いえ……特別なことでは」

否定するのと同時に、陛下は塞ぎ込むフルーシュテに気を遣ってくれたのだろうと察してしまった。

確かめてもいない、女王陛下の心を勝手に決める不敬な行いだ。そう自分で戒めても、すでに底辺にまで落ち込んでいたフルーシュテは、逃れられない。自分でもおかしいと思うのに、どうしても冷たい沼の中から抜け出せない感覚があった。

下を向いたフルーシュテに、女王陛下が一つ息をついた。

「フルーシュテ、私が頭を下げたのは、そなたには何も明かさずここに連れてきたから。今のそなたの状況は、実は少し、予想できていたの」

「予想、ですか」

「不快にさせるかもしれないけれど、エアヴァナハトの……かつての婚約者候補たちの話を、聞いてほしい」

返事ができなかったフルーシュテを待つことなく、女王陛下は淡々と語った。

「エアヴァナハトには、かつて婚約者候補が二人いた。どちらも非の打ちどころのない令嬢だったのだが、どちらも、殿下は完璧すぎて気が引けると言って、婚約を辞退した」

まるでフルーシュテの心を代弁したような言葉に、思わず顔を上げる。気が引ける。それだけで辞退できたのか、と。

陛下は王太子殿下とは違う色の目を瞬いて、わずかに頷いた。

「少しずつ顔合わせをして、相性を探っていた時期だったゆえ、受け入れた。見定めに半年ほど交流をしたのだったか。エアヴァナハトがあまりに女性たちに対して関心が薄かったので、確実に決定となるまでは秘していたのだけれど。結局、社交界には出ないまま終わった話だ」

そうして、そっと扇の陰で耳打ちされたのは、社交界でも指折りの淑女たちの名だった。どちらも、すでに結婚している。

「彼女たちは、自分が大事だった。一人は、仕事より愛されたかった。もう一人は、夫と対等でいたかった。悪いことじゃない。人だものね。私は、どちらも否定はしない。二人とも、今は夢を叶えたようだしね」

王太子殿下を思い浮かべて、フルーシュテは確かにと頷いた。どちらの要望も、叶わなかっただろう。王太子殿下は完璧な婚約者にはなれても、婚約者を仕事より優先はしないだろうし、婚約者のために自分の才能を低く抑えたりもしないだろうから。

それは「完璧」の範疇には入らない気がした。

「けれど、私たちは三人目まで逃すわけにはいかなかった。フルーシュテ、貴方は、その肝要な三人目に選ばれた。聡明で、健康。才能があるのに、それをひけらかすことなく、表立った場所を人に譲る。そういうところに、期待をした。そなたなら、夫と張り合ったり、夫の関心を独占したりしないのではないか、とね。私たちは、夫とは独立に、自分だけの心の軸を持つ令嬢を求めていた。それで、——逃すわけにはいかなかったから、先に婚約を発表した」

フルーシュテは、どう反応するのが正解かわからなかった。母のような慈愛を感じた女王陛下が、一方でフルーシュテの逃げ場を絶っていた。それは恐ろしいようでいて、為政者としては、完璧だ。そう冷静に分析できてしまうほどには、フルーシュテも貴族令嬢であったし、陛下を責めることはできなかった。

かといって、今のフルーシュテの苦しみを予見しながら、囲い込んだというなら、少し恨みに思う気持ちもある。

だが、確かにこれは契約に基づく関係だ。フルーシュテの気持ちだけでは、反故にする理由にはならない。

喉の奥が詰まるような不快感を、フルーシュテはごくりと飲み込んでやり過ごした。

女王陛下は、冷たくも見える微笑みで、フルーシュテを囲う。

「けれど、そなたを見込んだとはいえ、人は揺れる弱き草のようなもの。すぐ隣で超越した存在が強烈に輝いていれば、実際はその輝きに毒性などなくとも、凡人は徐々に萎れておかしくはない。もしそなたも、耐え難いものを感じているというのなら、その一生を捧げてほしいとは言うまい。そう、せめて二年。二年の間だけ、仲睦まじい間柄だと見せてくれないか。そのあとでなら、契約を反故にしてもよい。エアヴァナハトに妃の成り手がいないなどという一部の見方を打ち消してくれれば、報賞は望みのまま取らせよう」

それは、二年後には、フルーシュテは用済みということだ。

残酷な提案。

けれどその時のフルーシュテには、それが良いように思えた。もとより尊敬していた王太子殿下だ。その幸せを、心から願っていた人。

フルーシュテ自身は、女王陛下の言う通り、凡人だ。数日で、すでに圧迫され、食事もままならないとなれば、王太子殿下の輝かしさに耐えて一生涯その妃を務めるのは難しそうだ。

けれど、いつかその役目を他の人が立派に果たしてくれるなら。

それまでの間を繋ぐことくらいは、できるのではないだろうか。

「承知いたしました。王太子殿下のためなら、喜んで」

気を取り直し、姿勢を正したフルーシュテは、精一杯良い声で答えた。

「ありがとう、フルーシュテ。——こんなに想ってくれてるのに何が足りないのか。難しいな」

早口だった後半は、扇の奥に隠れて、フルーシュテの耳には届かなかった。

さっきから、気に掛かっていることがあったせいでもある。

表立った場所を人に譲る、と女王が口にした。それはもしかして、淑女の嗜みとしての歌唱の会に、どうしてもと強く強く推薦されてしまった時のことだろうか。あの時は、どうにか母や祖母とその繋がりの理解を得て回って、もっと若い令嬢に機会を譲る形で、角を立てずに辞退したのだ。

それはもう、大変だった。

けれどそれは、美しい話ではなくて。

ただ、フルーシュテが歌が得意ではない、いや率直に言えば、苦手だっただけだ。著しく。

とすれば、決して女王陛下の判断を否定するわけにはいかないけれど、フルーシュテを選んだ理由となる美徳も、紛い物だったということになる。

フルーシュテは、気もそぞろに退出の挨拶をした。

「どうしよう」

あてがわれている部屋に戻って、カーテンに包まった。だいぶ、布の感触にも馴染んできたが、鈍く重たい胸のつかえを軽くはしてくれない。

胸の重たい空気が、低い声となって足元に溜まっていく。

客観的に自分の状況を見れば、悩むことはないのかもしれない。

王太子殿下は誠実で、女王陛下は寛容で、王宮の誰もが丁寧だ。このまま、王太子殿下の眩い輝きをただ隣で見守るだけで、フルーシュテは安泰を手に入れられるはずだ。

けれど。

カーテンの重たい生地が、かつて母が寝込んでいた寝台の掛布の感触にすり替わった。泣いてしわがれた声でずっと呼んでいるのに目を開けない母に、幼いフルーシュテが恐怖を感じていた、あの時間がよみがえる。

まだ、言葉すらままならない頃の記憶だ。

一度、幼い兄がかあさまと叫んだ、その時だけぴくりと反応した母に、フルーシュテは敏感に何かを悟った。そして、生まれてからずっと幼子らしからぬ低い声しか出さなかったフルーシュテが、「かあしゃ!」とつんざくような高い声で叫んだのに、母は驚いて、目を開けた。

今思えば、たまたまだったのかもしれない。

けれどその時、母は兄とフルーシュテを一緒に抱きしめて、呼び戻してくれてありがとう、と言ったのだ。

フルーシュテはその時以来、声を高めに出しているし、家族にありがとうと言ってもらいたいと、ずっと思っている。

だが、完璧な王太子殿下の隣に、完璧ではないフルーシュテがいても、心からのありがとうは、きっともらえないだろう。

「それなら、女王陛下のおっしゃった二年を、精一杯努めましょう」

女王陛下の要望に応えるため、と思えば、少し前向きになれた。

せめて二年の間は、できるだけのことをしよう。完璧にはなれなくても、一日一つは、自分で自分を褒められるくらいの、ささやかな成長を。

ずるりと、フルーシュテは、カーテンから力なく抜け出した。

様子のおかしかったフルーシュテが、また微笑むようになった。

そのことに思いがけず大きな安堵を感じたので、自分はあの子を気に入っているのだな、とエアヴァナハトは冷静に分析した。

微笑みは、最初に会った時の表情よりも固いので、作った笑顔なのだろう。それでも、作る気力があるのは、良いことだ。

良いことの、はずだ。

母が女王となったのは、エアヴァナハトの成婚まで王位を守るためだ。

父には持病があって、エアヴァナハト以外に子ができなかった。母は王家の血も流れる公爵家の出身で、側室を迎えることを渋る父を擁護した。子作りを無理強いすることこそ、王の命を縮めるという主張は受け入れられたが、その影には王位を狙う各家や派閥の薄暗い狙いもあっただろう。

齢七つの頃、父を亡くした時の母の憔悴ぶりをよく覚えている。父が、枕元で疲れ果てて寝入った母の背を撫でながら、自分と目を合わせて、頼むと託したことも。

託されたのに、エアヴァナハトは何もできなかったことも。

母は女王となることを選び、それまでの母子の関係からは大きく変わってしまったが、常にエアヴァナハトを守ってくれた。必死にそれを追いかけ、学べば学ぶほど、母の選んだ道が茨の道だとわかって、悔しい涙を何度流したことか。

政務の上では取るに足らない未熟な子供でも、せめて後継としての優秀さを見せつけ、将来は安泰なのだと示して、母を守りたいと。そう願い、王太子として完璧であろうとしてきた。

力が足りない時は、苦しんだ。思うように伸びない自分に、自分で絶望もした。

だが、王太子の仮面は常に被り続けた。

一度外せばどうなるか、自分でもわからなかったからでもあり、意地でもあった。

やがて実力がついてくると、今度は楽しくなった。学びも、仕事も、議論も、己の無知や無謀に気がつくことさえ、成長の糧としてむしろ貪欲に追い求め、設定した目標に届くと快感を得るようになった。

夢中だったから、婚約者候補などと言われても興味は持てず、最低限の対応をしているうちに、話は立ち消えになった。

さすがに、少し反省をして、フルーシュテには婚約者としてできるだけのことをすると、決めている。

エアヴァナハト自身で振り返れば、完璧などと称される王太子ぶりにも、波はある。それを押し並べて素晴らしい評価に書き換えているのは、常に被り続けた仮面のおかげだとも思っている。

いつも余裕の微笑みを浮かべていれば、内実がどれほどギリギリでも、結果よければ全てが順風満帆だったと言われることを、エアヴァナハトはよく知っていた。

だから、フルーシュテの笑顔が今は多少ぎこちなくても、いずれそれが本物の笑顔になればよい。

心から、そう思うのに。

舟遊びを断るフルーシュテの、強張った顔を、何度も思い出す。

初めて顔を合わせた時、緊張気味ながら初々しく笑った笑顔を上書きしてしまいそうだ。あの時、一目見て、このかわいい人が婚約者か、と素直に思ったはずなのに。

違和感を持て余すも、すぐに答えは出なかった。人というのは、難しい。

王太子として、人の心理も学んでいる。だが、不況の時の平民の苦しみや、貴族として矜持と実利との板挟みになる愚かさを、いかに解像度高く推測ができても、フルーシュテという一人の女性の心は、 紗(うすぎぬ) の向こうだ。

仕事中は忘れていても、晩餐となれば、つい、フルーシュテに視線を向けてしまう。

少し、痩せた気がする。微笑むようにはなったが、食は細い。そう言えば、少し前に晩餐を数日欠席していた時があった。あれから、回復していないのだろうか。

ここで、エアヴァナハトはあらぬミスをした。

フルーシュテを見ながらフォークを肉に刺したら、肉ではなくころりとした野菜だったために、すべったフォークは皿にぶつかって高い音をたて、野菜は、皿から飛び出て晩餐のために飾られた中央の花瓶を超えて、フルーシュテの目の前にまで転がっていった。

しまった。

エアヴァナハトは一瞬動きを止めた。

給仕も、とっさに動けない。母は少し驚いたようだったが無言。

エアヴァナハトは、誰よりフルーシュテの反応が気になった。

「まあ」

フルーシュテは、思わずというように笑った。

「殿下、お疲れなのですね。剣術の鍛錬の後ですもの。わたしはダンスのレッスンのあとに疲れてしまって。それも、足ではなく腕なのです。まさか自分でも予想できず、書類にインク染みを作ってしまいました」

「わかる。女性側も腕を高く上げておくから、案外と辛い」

母と一緒に、屈託なく笑って。それで空気が解け出した。あたたかく。

野菜を拾った給仕にすまない、と声をかければ、いつもより良い笑顔が返るほどで。

完璧を目指しているつもりで、いつの間にか、完璧に固執していたのだろうか。ささやかな失敗など、今のように誰も気にしないのに。自分だけが。

エアヴァナハトは自問しつつ、視線は再び自然とフルーシュテを追う。

何事もなかったかのように静かな顔で、小鳥の一口ほどの量を口に入れるのを。

さきほどの、少しまろい声を出して笑うフルーシュテは、新鮮だった。ぎこちなさはなく、柔らかくて、自然で。

でも、あれは、エアヴァナハトを気遣ったからだろう。失敗したエアヴァナハトに、それ以上気にしないで良いと、全身で伝えてくれたのだ。

対して私は、とエアヴァナハトは突きつけられた。

妻となる人がぎこちない笑顔しか浮かべられず、今まさに苦しんでいるのに、いずれ本人が乗り越えるだろうと、我がことではないような対応をしていた。

それで完璧でいたつもりだった。

王太子としては、評価は分かれるだろう。だが、夫としては。

「最低だな」

父を失った時以来のやるせなさを、食事と一緒に飲み込んだ。

初めて入る王太子殿下の私室で、フルーシュテは緊張したまま、目の前の茶器を眺めていた。

フルーシュテを呼んだ当の本人は、向かい側の椅子に座って優雅に足を組んだと思えば、じっとこちらを見つめたまま動かない。

このところ、こういう時間が増えた。

執務棟で外廊を歩いている時、短い休憩時間にお茶を共にするとき、晩餐の時。果ては、毎朝の一輪の花を、なぜか王太子殿下本人が届けてくれるようになり、その時にも。

なぜか、王太子殿下に見つめられる。

特に声をかけられるわけでもなく、フルーシュテがそちらを見返しても、目が合う感覚はない。観察、というのだろうか。フルーシュテではなく、フルーシュテの奥底を覗いているような。

それが、数日前の晩餐から少し変わった。

珍しく、王太子殿下が野菜を転がした。

フルーシュテだって、実家で気を抜いていると時々粗相をする。けれど王宮で過ごして一月ほど、そんな罪のない失敗は見たことがなかった。

だからこそ、まっすぐにフルーシュテに向かって転がってきた野菜が、なんだか無性に愛しくて、フルーシュテはつい笑ってしまい。

王太子殿下の粗相を嗤ったように見えたかと、慌ててそれとなく自分の話に差し替えた。それ自体は、ごく普通の話の運びだったはずだ。女王陛下も笑ってくれた。

けれど王太子殿下は、少し驚いた顔でその後もずっとフルーシュテを見ていて。

その時から、きちんと目が合うようになった気がする。

とはいえ、その後も特に変わりのない、ずっと視線のみを感じる日々だったのだが。

今朝、花にはメッセージカードが添えられていた。

『今日の午後にいつもより特別なお茶会に招待したい』

その字が、王太子殿下の直筆だと、もうフルーシュテは知っている。

転がり出た野菜より真意が読めないお誘いだが、断る選択肢はなかった。

フルーシュテが予定の調整を侍女や近侍に頼めば、お誘いですのね、お着替えとお化粧直しのために少し早めに切り上げましょう、と周囲の方が沸き立った。この王宮の人々は、意外と、突発的な予定も楽しんでしまうらしい。

飾り立てられたフルーシュテを、王太子殿下は自ら迎えに来て、そのまま、殿下の私室で向かい合ってから、しばらく経つ。

「……あの、殿下」

このまま時間が過ぎると、その後の執務が大変になるのではないだろうか。

さすがにそう思って顔を上げると、パチリと目が合った。

……王太子殿下の頬が、赤いような。

「ああ、呼んでおいてすまない。大事な話をしたいと思っているので、今日の仕事は気にしないでくれていい」

「そう、ですか」

「うん、そうなんだ」

それでもなお言葉に迷う王太子殿下など、初めて見た。

フルーシュテは、あの晩餐の時のような、いつもとは少し違う雰囲気に目を瞬いた。

「そう、フルーシュテ、君に話しておきたいことがあって」

「はい」

「実は。実は私は、芸術的な感覚があまりない」

「……そう、なのですか」

一瞬、父伯爵の殿下評を思い出したが、あまりピンとこないまま、フルーシュテは首を傾げた。

「ですが、隣国の絵画好きの大使とはいつもお話が盛り上がると伺っております」

「あれは、話題を暗記しているだけだよ。あちらもそれは察して、いろいろと教えてくれるんだ。絵画史を学んで、作者や制作年は知っていても、絵の良し悪しはもちろん、好き嫌いすらわからない。どの絵を見ても、絵だな、としか思わない。歌曲についても同様だ」

そんな嘘をつく必要は、王太子殿下にはないはずだ。では、これは本当の話なのだとしたら。

どうしてそんなことを突然明かされるのかわからず、フルーシュテは呆然とした。

「驚かせたか。そうだな。突然こんな、おかしな話をして。なぜか急に、話しておきたいと思ったんだ」

王太子殿下も、なぜか呆然と、口元を押さえた。

何を、期待されているのだろう。とフルーシュテは考える。いや、もしかすると、またフルーシュテを気遣ってくれているのかもしれない。完璧なようでいて、私にもささやかな欠点があるよと。だからフルーシュテも、足りないことを気にしなくてもいいのだよ、と。

もしかしたら、先日転がってきたあの野菜も。

だとしたら。

フルーシュテが王太子殿下の苦手を明かされてできることは。

「殿下、実は私も苦手なことがありまして。歌が苦手、いえ、正直なお話、とても、とても下手なのです」

「聞いてみたい」

「えっ!」

思いがけない方向の即答に、フルーシュテは混乱した。

そうじゃない。お互いに苦手なものを打ち明け合ったら、お互い苦手なことがあっても頑張っていこう、となるのではないのか。

あえてその苦手を詳らかにしようなどと。

「ひどいです」

「何故?」

「苦手を打ち明けたところで、追い打ちをかけられるとは思いませんでした」

訴えたが、王太子殿下はなぜか嬉しそうにして、引く様子がない。

「マナーとしては踏み込まない方が良いのはわかるのだが。聞いてみたい。苦手ということは、君の歌を聞いたことのある者は限られているのだろう?」

「それは何の関係が? それに殿下は、歌曲にもご関心はないとおっしゃったではないですか」

「それはそうだが、フルーシュテの歌を聞いてみたい気持ちは別だ。そうだな、理由なら、今まで最上の演奏ばかり聴いてきたはずなので、その、下手な歌とはどのようなものか、気になって」

言い募る王太子殿下は、真面目な表情をしているのに頬どころか耳まで赤くしている。自分でも突拍子もないことを言っているとわかっている様子だ。

「……だめだろうか」

ついに眉を下げ、首を少し傾けてこちらを伺ってきた。

完璧な王太子の完璧な日々には、決して見られなかった表情。急にどうしてこうなったのかわからないけれど、きっと、今はフルーシュテという婚約者以外、誰にも見せない顔なのだろう。

そんなものを見せられたら、断われない。

フルーシュテは、覚悟を決めた。

ぎゅっと姿勢良く座り直し、肩を寄せて力を溜めて、大地の春を寿ぐ、著名な歌を歌った。

久しぶりに歌声を出す。

そもそも、最初の音が合わない。

焦って歌うと、声がひっくり返る。

「……うん、私の知らない曲のようだ」

散々な歌を聞いたあと、王太子殿下は綺麗な拍手をしながら、不思議そうに言った。

「ご存知の曲だと思います」

「そうか。でも、なんと言えばいいんだろう。全く不快ではないよ」

「それは……ありがとうございます。ちょっと私は、自分で打ちのめされておりますので、今日はこれで失礼します」

「待って、待って待って、本当だから」

初めて、手を取られた。王太子殿下が慌てて対面の椅子から飛び出して、フルーシュテの手を掴んだのだ。

驚いて手を見て、それから王太子を見た。

王太子も、その手を見ていた。自分の行動に、驚いたように。

「ああ、なんだか、君相手には完璧に拘らなくていいと思うと、手が伸びてしまった。公の場でのエスコートでもないのに、申し訳ない。……決して淑女として軽く扱うわけではないんだ。だが、その、この距離を許してもらっていいだろうか?」

「……はい」

婚約者としては、十分に許されるはずの距離だ。

フルーシュテが頷くと、王太子殿下は爽やかに笑ってフルーシュテの隣に腰を下ろした。

急に予想より近い距離に入られて、フルーシュテはまごついてしまう。

「もうひとつ」

「な、なんでしょう。もう歌は」

「歌を歌う時、というより、いつも話す時も、少し高い声を出していない?」

「……」

なぜ、知られたのだろう。

「いや、朝の挨拶の時は声を出しにくそうにしていたり。驚いた時には低い声で悲鳴をあげていた気がして」

「どうして、そんなところにまでお気づきなんです」

「意外と、 僕(・) は君をよく見てるんだよ」

自然な声での歌を聞くまで、断固として引かないという王太子に、フルーシュテは渋々、もう一度歌った。

自分本来の低い声は、出し慣れない。どうしても恥ずかしくて、隣から耳を傾ける王子にだけ届くような囁き声だ。

すると不思議と、あれほど合わせられなかった音が、吸い付くようにぴたりと合う。

唇を震わせるだけ。

息を溢すように。

時間の止まった空間に、音だけを置くように。

「……殿下?」

ふと隣からの反応がないことを訝しんで名を呼んでも、返答がない。

温もりが近すぎて視線を向けないようにしていた隣を見ると、なんと王太子殿下は目を閉じて、寝息を立てていた。

ぐらりと前方へ倒れそうになる体を引き止めると、今度はフルーシュテの方に傾いてくる。

つい支えようとしたが、鍛えた体は重かった。たまらず、ずるずると後ずさって長椅子の端に座ったフルーシュテの膝の上に、殿下の頭がぴたりと収まった。

温かくて、重い。そして、とても気持ちよさげな深い呼吸。

「で、殿下?」

フルーシュテが肩を揺らしても、何の効果もなく。

結局王太子殿下は、そのまま夕方まで眠り続けた。

「フルーシュテ……?」

ふと下から声をかけられて、フルーシュテは詩集を閉じた。

王太子殿下は、まだぼんやりと、金の目を閉じて開いてと繰り返している。

やがてその目がしっかりとしてきて、自身がフルーシュテの膝にもたれるようにして寝ていたことに気がつくのを、フルーシュテはじっと待った。

「ああ、そうか。歌を聞いて、寝てしまった……?」

完璧な王太子殿下の行動とはかけ離れた事態に気づいて、どう受け止めるのか。フルーシュテはどう応じたらいいのか。殿下の目覚めを待つ間ずっと考えていたことを、全部拭い去るように。

殿下はふわりと緩く、嬉しそうに笑った。

「ああ、気持ちよく寝た」

この人は、誰だろう。

何の飾り気もない、柔らかな表情で笑うこの人は、本当にあの王太子殿下なのだろうか。

「フルーシュテは温かいな。心地よい」

「殿下、それは、私の膝ではなく、側近の方が気を利かせて挟んだクッションです」

冷静に訂正するも、少し声が上擦った。

「ふ、違う、フルーシュテの隣にいるのが心地よいのだ。これが、好ましいという感覚なのだな。一旦気づいたら、よくわかる。だが、君とでなければ、絶対に気づくことはできなかっただろう」

この時ばかりは、フルーシュテの中で否定する声は上がらなかった。

目の前で熟睡され、ドレスの裾を人質に取られたために、三時間ほど殿下の眠りを見守った今、殿下の言葉は、本心に近いのだろうと思える。

目の前の人はもう、完璧な王太子殿下には見えない。

フルーシュテが何をしても揺らがない人でも、なくなってしまった。

今度は見ていたいから、もう一度だけ歌って、とねだられて、フルーシュテは肩が触れるほど近くで歌を囁いた。王太子殿下はもう眠りはしなかったけれど、ずっとフルーシュテを見つめていたように思う。フルーシュテは、目を伏せてしまっていたけれど。

翌日。

「王太子殿下は昨日はしっかりおやすみになって、早朝から精力的な執務により、前日の遅れを取り返していらっしゃるそうですよ」

何故かにこにこと微笑む侍女たちからそう聞いた。

王太子殿下から、心配をかけたらいけないからと、わざわざ伝言が届いたらしい。起こす必要はない、起きたらそっと伝えてほしい、と。

というわけで。

朝の支度を終えて、束の間の一人の時間。

フルーシュテは、カーテンに包まった。

「どうしよう。あんなの」

あの完璧で隙のない王太子殿下が、フルーシュテの低い声で他愛なく眠ってしまうなんて。

けれど、勘違いしてはいけない。

あれは、無理を続けていた王太子殿下が、たまたま、少し気を緩めただけ。ほんのいっとき彼の完璧を崩しただけの、幻だ。

「フルーシュテ」

「ひゃあっ」

カーテンごと突然抱きしめられて、フルーシュテは叫び声を上げた。

慌てて隙間から覗けば、王太子殿下が至近距離で見下ろしていた。

近い。けれどこれは果たして、婚約者としての距離に入るだろうか。

そもそも、入室にも気づかなかった。呼びかけも、なかったような。

「取次は断ったが、声はかけた」

「そ、そうなん……」

だとしても返事を待つものでは……フルーシュテの思考は、べり、と剥がされたカーテンと一緒にどこかへ行ってしまった。

「楽しそうだ。でも、カーテンの中で歌うなら私も入れてほしいな」

カーテンを剥いてフルーシュテを取り出した王太子殿下は、カーテンの代わりのようにフルーシュテに巻き付いて、頬に頬を寄せてきた。

「ねえフルーシュテ。私は完璧な王太子の仮面をかぶる特技がある」

「それは、特技なのですか」

「改めて意識すると、その高めの声も愛らしいね。さっきの悲鳴、あれもフルーシュテらしいよい声だった」

「……」

「それで、仮面は息をするように被るんだけど、王太子としての自負も責任感もあるから、内実もそれに見合うようにと、努力はしているんだ」

「存じてます」

固まったようになって低い返答しかできないフルーシュテに、王太子殿下はクスクスと笑って、頬に軽く口付けまでしてきた。

完璧な王太子殿下は崩れたままのようだ。殿下の言葉を借りるなら、仮面を外しているのだろうか。

それとも、これも完璧な婚約者としての一面なのか。

婚約者がどこまで甘くなるものかがわからず、フルーシュテは混乱した。

カーテンに、包まれたい。

王太子殿下に包まっても、それは温かいしいい香りもするし頼もしいけれど、胸がどうにも落ち着かない。

声が、響いてくるし。

混乱して、フルーシュテはもう、難しいことを考えられなくなっていた。

「努力を見てくれて嬉しいよ、フルーシュテ。努力自体はもう習慣みたいなものだったんだけど、そろそろ、未来を向くために、張り合いが欲しいなと思って」

「はあ」

「ご褒美が欲しいな、フルーシュテ。僕を名前で呼んで。長いから、ナハトでいい」

「えっ」

「ナハト」

「な、ナハト」

押し切られて呼んだら、がくりとエアヴァナハトの膝から力が抜けた。

「おっと」

一瞬で立ち直って、よろけたフルーシュテを支えてくれるが、フルーシュテは気が気ではない。

「あの、殿下、私の声はよくないのでは」

「最高だ」

あまりに輝かしい表情と声が、フルーシュテを照らす。けれど、今はどうしてか、その輝きは息苦しくはなかった。

「ねえフルーシュテ。僕は、君を知る前には、もう戻れないよ」

あれ、これは大丈夫かしら、と一転フルーシュテは怯んだ。

国の未来、輝かしい完璧なる王太子殿下を、もしかして、何か違うものに作り変えてしまったのだろうかと。

「何も悩まないで、フルーシュテ。僕は君が隣にいる限り、今まで通り王太子としての努力をするから」

「わ、私は、あの」

「何年経っても、だよ。ね、フルーシュテ。僕に立派な王になってほしいよね」

「殿下は……いえナハト様は、もう十分立派です」

そう? 嬉しいな、とそつのない返答に見せて、耳が赤くなっている。

「——ありがとう、フルーシュテ。一番、効くよ」

その時、フルーシュテはもう、引き退る理由がないことに気がついた。

避けていた自分の声を最高だと言い切られて、隣にいてと抱き締めて求められて、ありがとうと、言ってもらえるなら。

だって、とうにフルーシュテの気持ちは、王太子殿下に向いている。

「でもそれなら、フルーシュテは僕に何を望む?」

「殿下、もう十分です。私は、できれば夫となる人に、私の中に何か価値を見出して、求めてもらいたかったのです」

パッと、殿下の笑顔が輝きを増した。

「それなら、僕は永遠に君を求めるよ。何度でも言う。君を知ってしまったから、もう君を失えない。隣にいて欲しい」

「……はい。喜んで」

それから、王宮では王太子殿下が妃殿下の隣で午睡を取る様子が、時折目撃されるようになった。忙しい二人の予定が合う、十日に一度ほどのこと。

その時間はどんな重要案件でも取り次ぐことは許されていないので、フルーシュテは、完璧な王太子殿下を損なう悪女だ、などと言う者もいたが。

仕事の調整に駆け回ることになる側近たちなどは、あれは玉に瑕というのだ。王太子殿下の魅力は何も損なわれていない。むしろお仕えしがいがあります!とやる気に満ちている。

むしろこのごろは、その光景に巡り合ったら良いことがあるという噂が立っているらしい。

二人を見かけたものは驚き、それから、ほっとしたような顔で微笑んで、のびのびと目的地へ向かう。

王宮内の空気は、穏やかに、変わってきていた。

「よかったわ。あの子があまりに研ぎ澄まされて輝くから、王宮は澄んだ川のようで、悪意を持つものはおろか、善良なものたちも常に弓弦を張ったようだったから」

純度の高いものは、脆くなる。

傷を得たあの子は、これからは皆の助けも得て、より強かになっていくだろう。

長年固く張り詰めたままだった肩の力をわずかに抜いて、女王陛下は絵姿を収めた胸のブローチを撫でた。

「これで安心ね、あなた」