軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第11話 日誌の、その先に

ルートヴィヒは旅装のまま宿に飛び込んできた。

「母上」

息が上がっている。早馬を乗り継いで来たのだろう。ヴァイスフェルトから王都まで通常五日。それを三日で走った顔をしている。頬がこけて、目の下に隈がある。でも目は光っていた。

「間に合いましたか」

「間に合いました。よく来てくれましたね」

十八歳の青年は、去年よりも背が伸びていた。肩幅が広がり、顎の線が鋭くなっている。旅装は泥だらけで、靴の底がすり減っている。

そして、背中に大きな革袋を背負っていた。

「母上。持ってきました。ヴァイスフェルトの復元データです。それと……」

革袋を下ろす。中から布に包まれた何かを取り出す。

「深根樹の主根のサンプルです。トビアスが切り出してくれました」

布を開くと、腕ほどの太さの根が横たわっていた。断面は白い。水分を含んでいる。生きている。

手を伸ばした。根に触れた瞬間、指先に微かな脈動が伝わってきた。水脈との接続は切れている。でも根そのものは生命を保っている。この根を足場にすれば、新しい深根樹を育てられる。

「ありがとう」

それしか言えなかった。もっと言いたいことがあった。よく見つけてくれた。よく育てた。よく来てくれた。でも言葉が喉で詰まって、一つしか出てこなかった。

ルートヴィヒは私の顔を見て、少し笑った。「母上らしいです」と言った。何がらしいのかわからないが、たぶん言葉が足りないところが、らしいのだろう。

◇◇◇

ルートヴィヒの後ろに、もう一人いた。

五十代の痩せた男。背が高く、姿勢が良い。旅装ではあるが、着こなしに几帳面さが見える。ボタンが全て留まっている。襟元が正されている。

ハンス。

ヴァイスフェルト公爵家の元家令。十三年間、私の横を通り過ぎ続けた人。日誌の存在を知っていて、庭の重要性を理解していて、それでも。

「奥様」

ハンスが膝をついた。宿の板の間に。五十二歳の元家令が、片膝ではなく両膝をついた。

「申し訳ございませんでした」

「……ハンス」

「日誌を読みました。全巻。奥様が去られた後に」

知っていた。日誌を読んだことは、以前のルートヴィヒの手紙で知っていた。でも、ハンス自身の口から聞くのは初めてだ。

「読んで、重要性を理解いたしました。旦那様に報告しようとしました」

「ヴィクトルに」

「はい。しかし旦那様は『今更何を言う』と仰いました。ベアトリーチェ様が『あの女の残したものなど処分して』と進言され、旦那様もそれに従おうとされました」

ハンスの声が震えている。

「私は……日誌を処分できませんでした。奥様の十三年分を、焼くことができませんでした。密かに書斎の裏に隠しました。若様がお探しになったとき、場所をお教えしたのは私です」

そうだったのか。

ルートヴィヒが日誌を「見つけた」のではなく、ハンスが導いたのだ。

複雑だった。許すとは言えない。恨んでいないとも言えない。この人は庭の重要性を理解していた。理解していて、声を上げなかった。上げられなかった。上げたが、聞いてもらえなかった。

あの家で声を上げても聞いてもらえないのは、私だけではなかったのだ。

「ハンス。立ってください」

「奥様」

「立って。膝が痛むでしょう、この板の間は」

ハンスが立ち上がった。目が赤い。

「あなたが日誌を守ってくれたおかげで、ルートヴィヒが技術を学べました。それは、事実です」

許すとは言わなかった。許さないとも言わなかった。事実だけを述べた。

あの状況で、この人に何ができただろう。家令は当主に仕える。当主が「処分しろ」と命じれば、従うのが家令の仕事だ。それに逆らって日誌を隠したことは、小さな反逆だった。小さくて、でも決定的な。

「ハンス。学術委員会で、証言をお願いできますか。ヴァイスフェルト領の内部事情について」

「……なんなりと。それが奥様のお力になるのであれば」

◇◇◇

論文の最終稿を仕上げた。

ルートヴィヒの復元データを第七章として追加。エーリヒが整理したグリューネヴァルトのデータと並べた。二つの土地の、二つの実績。一つは十三年の維持と崩壊の記録。もう一つは一年二ヶ月の再生の記録。

附録に、ルートヴィヒの一文を引用した。

「母上の技術は、血筋に依存するものではありません。学べば、できるのです」

署名。フローラ・ブルーメンタール。

いや。

ペンを置き、考えた。ブルーメンタール。祖母の姓。母の姓。私の旧姓。でもこの論文は、ブルーメンタール家の秘密を公開するものだ。秘密を手放す論文に、秘密を守ってきた家の名前を載せるのは、矛盾しているだろうか。

いいえ。矛盾してはいない。名前は変わっても、技術の系譜は消えない。

ペンを取り直した。

論文の冒頭に、一行を加えた。

「趣味と呼ばれ、呪いと呼ばれた。正しい名前は、まだ誰もつけていない。この論文が、名前をつける第一歩となることを願う」

◇◇◇

翌朝、論文を学術委員会に提出した。

マティアスが受け取った。眼鏡の奥の目が、分厚い論文の表紙を見ている。

「独立植物魔法師制度の提案も、含まれていますね」

「ええ。技術公開と教育体制の構築案も」

「……予想以上に踏み込んできましたね」

マティアスの口元が、僅かに動いた。苦笑に近い。

「エーリヒ・フォン・グリューネヴァルト伯爵との婚約も、聞いています」

「ええ」

「伯爵夫人となれば、徴用命令は法的に無効になります。そう計算した上での婚約ですか」

「計算ではありません。いえ、計算でもあります。でもそれだけではありません」

マティアスが眼鏡を直した。

「正直ですね」

「嘘が下手なんです」

「そうでしょうね。この論文を読めばわかります。嘘をつける人には、こういう文章は書けない」

褒めているのか、からかっているのか。たぶん、両方だ。

「実技試験は明日です。準備はよろしいですか」

「はい」

ポケットの中の土に触れた。荒野の土。王都に来て十日。この土は乾き始めている。でもまだ、粒の間に水分が残っている。

明日、この土で証明する。