軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

ヴァンデール伯爵家(1)

泣いてしまった後、目を覚ますとすぐに公爵とユリウスが来た。

呆れられたか、失望されたか、それとも嫌われただろうかと不安になるわたしを他所に、二人は第一声に「体調は悪くないか?」「大丈夫?」と訊いてきて、どこか心配そうな顔をしていた。

わたしが「だいじょうぶ」と言うと、ホッとした様子だった。

ベッドの縁に公爵が座る。

「どうして泣いたのか、訊いてもいいか?」

それに言葉が詰まった。今のわたしは記憶のないシアという子供である。

「……わかんない」

「フルーツタルトが嫌だった、というわけではないんだろう?」

「ふるーつたると、うれしかった!」

慌てて顔を上げれば、公爵の手に頭を撫でられる。

「それでは、あの時どんな気持ちだったのか教えてくれないか?」

「……うれしいけど、かなしくて……わたしだけ、ふるーつたるとたべて、ゆりうすと、こーしゃくさまに、わけなかったから……おこられるって、おもって……」

「誰に怒られると思ったんだ?」

「わかんない……」

ふむ、と公爵が考えるように顎に手を添えた。

「もしかしたら記憶が少し戻ったのかもしれないな。記憶喪失になった者がふとしたきっかけで記憶を取り戻すこともあるという。黒魔術で記憶が曖昧になっているとはいえ、全く消えてしまったわけではないだろう」

「きおく……」

……そっか、そういう見方もある。

公爵が微笑み、もう一度わたしの頭を撫でた。

「無理に思い出す必要はない。……あの様子を見る限り、シアにとって以前の記憶はあまり良いものではなかったのかもしれない」

確かに、エリシア・ヴァンデールの記憶には良い思い出というものがほとんどない。

今の『シア』のほうが毎日幸せで、楽しくて、良い記憶ばかりだ。

公爵の手を取り、握る。

……エリシア・ヴァンデールだったなら、きっと振り払われていただろう。

「シア、こんな時に話すことではないのだろうが、ヴァンデール伯爵から手紙が届いた。ヴァンデール伯爵家は君の生まれた家だが、私と結婚して、君は今この公爵家にいる」

「ゔぁんでーるはくしゃくけ……」

「君を心配して、直接会いたいそうだ。……どうする?」

……会いたくない。

でも、わたしへの面会を伯爵家が申し出ているのに、公爵家がそれを拒絶するのはまずい。

現在わたしが黒魔術により幼くなってしまっているからこそ、ここでわたしとの面会を公爵家が断れば、公爵家まで良からぬ噂が立つだろう。

ヴァンデール伯爵家が諦めるはずがない。

特に妹・ナタリアは知り合い全員に泣いて回ってみせて、世論を味方につけようとするはずだ。

「……あう」

「いいのか?」

「しらないひとだけど、あってみる」

前妻との間の娘を稼ぎ道具としか思っていない父。

前妻の子が気に入らなくて、暴力を振るう継母。

義理の姉を悪役に仕立てて自らの評判を上げる妹。

……あの家に戻りたくないし、会いたくもないけど。

でも、エリシア・ヴァンデールの記憶が『もしかしたら、本当に心配してくれたのかもしれない』と微かな希望を抱いている。会ってみたいと、それが事実か確かめたいと思っている。

「分かった。予定が決まったら、君にも伝えよう」

公爵の言葉にわたしは黙って頷いた。

ただ、胸に感じる息苦しさは消えず、不安が残った。

* * * * *

数日後、ヴァンデール伯爵──……つまり父が公爵家を訪れる日。

応接室でユリウスと一緒に待つ。

……父が来る。

そう思うと体が緊張して、微かに震える。

「シア、具合が悪いなら今日はやめる?」

ユリウスの問いにわたしは首を横に振った。

「ううん……だいじょうぶ」

この体は現代人だったわたしの記憶よりも、エリシアの記憶と強く結びついているようだ。

エリシア・ヴァンデールにとって、父親というのは絶対的な存在であった。

決して逆らってはいけない神のような存在で、継母と異母妹はそんな父親が愛している特別なので、伯爵家では最底辺の自分が逆らうことは許されない。

逆らえば言葉の暴力だけではなく、文字通り殴る蹴るの折檻を受ける。

時期的にもう寒くないはずなのに、寒くて、腕をさすっていると部屋の扉が叩かれた。

ユリウスが「どうぞ」と声をかければ扉が開かれる。

「待たせたな」

立ち上がろうとしたユリウスを公爵が手で制し、応接室に入る。

その後ろから入室した二つの人影に驚いた。

父はともかく、何故妹がいるのだろうか。

こういう時は伯爵夫妻で来るものなのではないだろうか。

公爵が一人掛けのソファーに座り、父と妹がわたし達の向かいにあるソファーに腰掛けた。

ジッと観察する不躾な視線に身が縮こまった。

「シア、こちらがヴァンデール伯爵と伯爵令嬢……君の父親と妹だ」

顔を上げれば、記憶の中と変わらぬ存在がそこにいた。

父はエリシアと同じく燃えるような赤髪だが、瞳は金色だった。

妹は継母と同じ金髪に、父と同じ金の瞳をしており、可愛らしい。

……怖い。目を合わせていられない。

体が震え、腹の底から冷えていくような感覚がする。

横にいるユリウスがわたしの手を握ってくれたが、震えが止まらない。

「本当にこれがエリシアなのですか……?」

父が疑うように言う。

「お姉様、なんてお労しい……!」

と、妹が悲しそうな顔をする。

父も妹も昔から演技が上手く、内心を見せない。

だから誰もが伯爵家の内情に気付かないし、使用人達も見て見ぬふりをする。

「手紙で事情は説明したが、結婚祝いの中に黒魔術を仕込んだ贈り物があり、このような姿になってしまった。どうやら記憶も失っていて……贈り物の確認をしなかった公爵家に責任がある。……すまなかった」

公爵が父に頭を下げると、父が困ったように眉尻を下げた。

「お、おやめください、公爵様! それについては、きっと娘がわがままを言って勝手に開けてしまったのでしょう。昔からそういうところのある子でしたから……」

「お父様、それは……」

父と妹が言葉を濁す。

それに公爵が興味を示した。

「と、言うと?」

「その、妹宛ての贈り物などを本人より先に開けてしまったり、勝手に自分のものにしてしまったりすることがあり……何度も注意をしていたのですが、直らなかったのです」

はあ……と、父が疲れたように溜め息を吐き、妹が目を伏せる。

その様子は毒婦エリシアに振り回されていた哀れな家族そのものに見えるだろう。

……嘘ばっかりね。

そういう行動をしろと命じたのは妹だし、父もそれを止めず、わたしに毒婦の振る舞いを強要した。

外だけでなく、伯爵家の中でも演じさせられ、入ったばかりの使用人はわたしが毒婦だと信じて疑わない者もいた。長年仕えている使用人達は、主人の言葉こそが正しいと目を逸らした。

……ああ、やっぱり会うんじゃなかった……。

胸の中で、エリシア・ヴァンデールの記憶が泣き叫んでいる。

微かな希望と期待と、家族の愛を求めたエリシア・ヴァンデールの思いは打ち砕かれた。

「こちらこそ、娘がご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません」

頭を下げる父は、この人は一体誰なのだろうか。

エリシア・ヴァンデールの知る『父親』とは到底思えない謙虚な振る舞いに背筋がぞっとする。

「公爵様、どうか、少しの間娘と……エリシアと家族だけで話をさせていただけませんか?」

「お願いします、公爵様……」

公爵は僅かに考える仕草をしたものの、頷いた。

「分かった」

立ち上がった公爵に促されて、ユリウスも席を立つ。

手が離れ、二人が離れていく。

……待って、行かないで!

そう思うのに、目の前の父と妹を見ていると言葉が出ない。

扉が閉められると先ほどよりも体が震える。

室内にはメイドとわたし付きの侍女がいるからか、父と妹が心配そうな顔でこちらを見た。

「エリシア、分かるかい? 私はグレゴリー・ヴァンデール。君の父親だ」

「私は妹のナタリアです、お姉様。……ああ、なんということになってしまったのでしょう!」

妹が席を立ち、わたしの横に腰掛けた。

「黒魔術なんて……恐ろしい目に遭ってさぞや怖かっただろう?」

「でも、大丈夫ですわ。ねえ、お姉様……いいえ、今はエリシアと呼んだほうがいいかしら? エリシア、お家に帰ってこない? あなたがとっても心配なの……」

優しく、まるで理想の家族のような姿に冷や汗が止まらない。

……気持ち悪い……怖い……苦しい……っ。

はっ、はっ、と呼吸が速くなり、心臓が痛いくらいに脈打つ。

わたしが記憶を失っているから、甘やかせば言うことを聞くと思っているのだろう。

そうして、伯爵家に戻ったらどうなるか。

想像するだけで苦しさが増す。

「ああ、たとえ幼くなってしまっても、エリシアが帰ってきてくれると嬉しいよ」

「エリシア、またみんなで仲良く暮らしましょう? 一緒に遊んで、お茶をして、買い物に行って、あなたが嫁いでしまってから寂しくて仕方なかったわ」

頭痛がして、キーンという耳鳴りが聞こえる。

「エリシア、どうしたんだい?」

もう、限界だった。

* * * * *

「旦那様」

応接室を出て、息子と共に待っていると侍従が声をかけてきた。

その手には書類の束があった。

「全てではございませんが、調査の内容を急ぎお伝えしたく、まいりました」

差し出された書類の束を受け取る。

そこには『エリシア・ヴァンデール』に関する情報が記載されていた。

二十二年前にヴァンデール伯爵家に生まれたこと。彼女は伯爵と前妻の間の子だった。

しかし、前妻は子を産んで数年すると病によりこの世を去った。

そうしてすぐに伯爵は後妻──……前妻との結婚当時から付き合っていた愛人の男爵令嬢と結婚する。二人の間には娘が一人おり、エリシアと娘は異母姉妹であった。

「これは……」

伯爵家でのエリシアの立場はないと言っても過言ではなかったようだ。

華やかな見た目に反し、エリシア・ヴァンデールは物静かであまり気の強いほうではなかった。

だから幼い頃から妹や継母に虐げられ、伯爵からは見向きもされず、息を潜めるように過ごしていた。

使用人達はエリシアの境遇も、苦しみも、見て見ぬふりをした。

けれども、エリシアは美しく、令嬢としての教育は申し分なく受けていたこともあり、社交界に出るとその華やかな容姿もあって一気に人気が出た。

そこに目をつけたのが父親の伯爵だった。

男達を誑し、金を貢がせるようにエリシアに命じた。

妹と継母は、妹の評判を良くするためにエリシアに悪女でいることを強要した。

エリシア・ヴァンデールが常に男を侍らせているのも、男に多額の金を貢がせて気紛れに捨てるのも、妹を虐げたり他の令嬢にきつく当たったりするのも、全ては伯爵家の命令であったのだ。

レオンハルトは思わず、己の口元を押さえた。

人の良さそうに見えた伯爵家は、実はレオンハルトが最も嫌っていた人間達だった。

……父と同じ、人を人とも思わない……。

「父上?」

と、息子に名前を呼ばれ、我に返る。

瞬間、応接室の中から尋常ではない悲鳴が響き渡った。

書類を侍従に押しつけ、扉を壊す勢いで開けた。

「シア!」

ソファーの上にはヴァンデール伯爵がおり、向かいのシアの横には妹の伯爵令嬢がいる。

その令嬢がシアを抱き締めようとしたのか、しかし、小さくて短い手が自身を守るように頭を覆っていた。

「やぁあああっ!! たすけて、たすけて……!!」

高く幼い声が目一杯、叫ぶ。

あの小さな体のどこから出るのかと思うほど大きな声に、伯爵と伯爵令嬢が驚いているのが分かった。

レオンハルトは駆け寄るようにソファーに近づき、伯爵令嬢の手からシアを引き離した。

思わずと言った様子で伯爵令嬢がシアの腕を掴んだ。

すると、まるで火がついたかのようにシアが泣き叫び、手足をばたつかせた。

「きゃっ!?」

伯爵令嬢がシアから手を離したので、レオンハルトはしっかりと小さな体を抱え直す。

いつもは体温が高いはずなのに、震えるシアの体が冷え切っていた。

……くそっ、提案を聞き入れるんじゃなかった……!

どこか緊張した様子のシアだったが、レオンハルト達に怯えないので問題はないと思ってしまった。

エリシア・ヴァンデールの記憶が微かでも戻りつつあるのなら、ヴァンデール伯爵家の者達はシアにとって最も恐ろしく、 悍(おぞ) ましい存在だろう。

何も言わなかったのではなく、言えなかったのかもしれない。

小さな背中を撫で、伯爵と伯爵令嬢を見る。

「すまないが、お引き取り願おう」

「なっ、何故ですか……!? エリシアは……娘は私達の家族ですっ。公爵様、どうかエリシアを一度、我が家にお返しください……! このような状態のまま、公爵家にいさせるなど……!」

こうして懇願する姿は『毒婦と呼ばれた娘でも愛する良き父親』そのものだった。

だが調査書を読んだ後では、薄気味悪ささえ感じた。

腕の中のシアが泣いている。

その泣き声は命を削っているのではと思うほど、痛々しい。

「エリシア・ヴァンデールはわたしの妻であり、公爵夫人である。たとえ生家であったとしても、この状態のこの子を返すわけにはいかない」

何より、レオンハルトはこれまでの己の言動を恥じた。

本人に接しもしないで、噂話と表面的な調査だけを信じて勝手に切り捨てた。

エリシア・ヴァンデールにとって、結婚は逃げ道だったはずだ。

伯爵家から抜け出し、離れ、生きていける唯一の道。

それなのに、結婚相手のレオンハルトはエリシアに何と言った?

……愛することも、親しくすることもない。だが、他の男と子を作るな。

結婚式の日の夜、レオンハルトは夫婦の初夜を放棄し、翌朝にそう告げた。

あの時、エリシアがどんな表情をしていたのか、思い出せない。

……いや、思い出せるはずがない。

レオンハルトは一度もエリシアに視線を向けなかったのだから。

「客人のお帰りだ」

そういう意味では、レオンハルトも目の前の伯爵達と同じである。

エリシア・ヴァンデールを傷付けた、愚かな人間だ。

* * * * *