軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

15 常識と私

市井さんが平木家まで迎えに来てくれたのが午前中で、今はもう太陽が半分沈んだ夕暮れだ。それでも彼らがここにたどり着いたのは予想よりうんと早かった。というか来ると思っていなかった。

元許嫁の勝さんはお気に入りらしい中折れ帽子を少しずり上げて、私を頭から足元までまじまじと見つめてから咳ばらいをした。

「その、家を出たって聞いて……急だったから」

勝さんがご機嫌伺いに家へ来るのはいつも午後三時すぎだった。今思えば妹が女学校から帰る時間だ。大体にして私はその時間、掃除や自分の洗濯など細々した仕事に追われていたからあいさつ程度のことしかできていない。誰のご機嫌伺いだったのかなんて、ちゃんと考えればわかることなのに。

それに今日は二人の婚約が決まった次の日なわけだし、そうすると家で顔を合わせたときに私のことを聞いたのだろう。そのままこちらに向かったのだと思えば、なるほど納得のいく時間だ。時間だけは。

美代子はしとやかに、どこか健気な感じで一歩前に出てきて微笑む。その背中にはワニモドキが乗っていて、彼女の頬をべろりと舐めた。

「姉さま……驚いたのはわかるけど、自棄になっちゃいけないわ。姉さまには家を出て働くなんて無理よ。私、心配で」

「そ、そうだよ。縁談はなくなったけれど、僕だってさつきさんの今後には責任を感じてたんだ。美代子さんもね、僕の家で働いたらいいんじゃないかって」

「え。勝さんのおうちで、ですか」

何の話だ。え? 元許嫁の家に? 妹と結婚する元許嫁の家に? 何の仕事で?

毛むくじゃらは足元でウニもどきを地面に並べだしている。え、それさっき巻き込んでたやつ? どこにしまってたんだ。

「ほら、姉さまは何もできないじゃない? でも勝さんのおうちならそんな事情もわかってくださってるし。私も姉さまと一緒なら心強いし」

私は前世でも今でも世間知らずの自覚はあるし、ましてやここは前とは違う世界だ。以前の常識と思えるものはこちらに当てはめて考えないようにしていた。当てはめたところで何か変わるわけでも変えられるわけでもないから。

でもこれは、この人たち頭おかしいの? と言っていいところな気がする。

言ってもいいのかないいよね、でももうちょっとオブラートに包んだほうがと逡巡してたら、何をどう思ったのか二人は満足そうに「じゃあ帰ろうか」なんて言うから。

「少し頭おかしくなりましたか」

少ししか包めなかった。

背後の高いところから息を止める音がした気がする。

普段あまり口をきかない私が吐いた言葉を飲み込めなかったらしい二人は、目を丸くして一瞬動かなくなったけれど、先に口を開いたのは妹のほうだった。ひくつく頬には小さなにきびがひとつある。さっきまでは多分なかった。

「も、もう。姉さまったら。いつものことだけど、勝さん、ほんと、姉さまはいつもこんなひねくれたことばかり言う人なんだけど許してあげて」

「あっ、ああ、わかってる。さつきさん、ちゃんとまだ僕ら話してなかったよね。元々親に決められただけの話とはいえ、先に話しておくべきだったかもしれない。だけど」

「婚約のことは父に聞かされてましたし、お話もいりません」

ワニモドキの口はどこまでも裂けていく。端が切れ上がっているから多分笑っているのだろう。

その口の大きさの割に細くて長い舌が、美代子の耳の中にゆっくりと滑り込んでいく。こっちの顔まで歪みそうになるのを堪えたつもりだけど、堪えきれてはいなかったかもしれない。

ほんの二日前まで元許嫁が優しいなどと思っていたわけだけど、今となってはどうしてそう思っていたのかわからない。

仕立ての良い二重回しのコートも、アイロンのきいたスーツも暖かそうだ。妹だって華やかな牡丹文様の袷羽織に毛皮のえりまきを合わせている。だけど、私が羽織ひとつ持っていないと気にかけてもらえたことなんてない。裏庭で水仕事をする私に、挨拶してから屋内にすぐ戻っていくのが常だった。

優しいの要素、ほんとどこにもない。

ここには美味しいごはんにあったかい部屋と布団がある。昼に案内してもらえた浴場だって、小さいけれど女性用の立派なのがちゃんとあった。

風呂敷包みをきゅっと握って、背すじを伸ばして、今の私はとっても無敵。

「軍にお勤めするのは、誰からも羨まれる立派なことです。邪魔しないでください」

ゆっくりと噛まないように言い切ったら、背中にとんと触れた大きな手。

「よく言った」

私にだけ聞こえるような小声でそう言って、私の横に並ぶ市井さん。

「はじめまして。さつきさんの直属上司の市井です。階級は大佐をいただいております。さつきさんのご親族とお見受けしますが……分家の木下さんでしょうか」

きれいな市井さんが出た! 分家の、と一息ためてからの笑顔がことさらに嘘くさい!

名を当てられたからなのか、雰囲気に気圧されたからか、勝さんは一歩後ずさった。美代子は瞬時に目を輝かせて一歩前に出た。

「え、あ、そうですが……どうして、あ、市井って」

「国の仕事ですからね。当然身辺調査をしたうえで是非とお願いしました。さつきさんは成人していますし、平木本家のご当主である御父上にも承諾を得ております。何か問題でも?」

「いや、僕は許嫁で」

「元、ですよね。しかも分家の」

「それは、そうなんですが」

分家って二回言った!

名家であればあるほど、分家に対しての本家の力は強いと聞いたことがある。本家当主が決定したことに異議を唱えられる立場か? おおん? と市井さんは言ってる、はず。多分そう。……だからといって他家の人間がそこをどうこうと言えるものでもないと思うんだけど。

「市井って、あの市井家の! まあ! 私、平木家次女の」

「ええ、お嬢さん。その市井であってますが、今、自分は帝国軍大佐として話しております。平木家の聡明なお嬢様ならお控えいただけますよね」

……察するに市井家は平木より格上のおうちなんじゃないだろうか。

え、あ、と戸惑ってから真っ赤になって美代子は口を閉じた。ワニモドキの舌は耳に入ったままだ。

毛むくじゃらは並べたウニを玉突きみたいにして転がしている。結局ウニは五個出してきてた。ほんとどこから。