軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十話:日常のバグ

世界へ向けたシグナルを送信した翌日。

四月の爽やかな朝の光が差し込む一年二組の教室は、昨日までと何も変わらない空間のはずだった。

しかし、俺が教室のドアを開けた瞬間、張り詰めたような奇妙な静寂が空間を支配した。

「あ、佐藤くんだ……」

「昨日、高橋にめちゃくちゃキツいこと言ってたよな……」

周囲の生徒たちが、ヒソヒソと視線を交わしながら俺を避けるように道を開ける。十二歳のスクールカーストなど、俺にとっては取るに足らないものだが教室の中央には、明らかにいつもと違う様子の人物が鎮座していた。

高橋美咲だ。

彼女は自分の机の前に取り巻きを呼び集め、これ見よがしに大声で話し始めた。

「ねえみんな、聞いた? うちのパパの会社、今度アメリカのすっごい大企業と新しいお仕事(契約)をするんだって! だからさ、近いうちにうちの家族、お祝いにハワイ旅行に行くことになっちゃった!」

「えーっ! ハワイ!? 美咲ちゃん、すごすぎる!」

「やっぱり社長令嬢は格が違うね! どこかの貧乏人とは大違い!」

取り巻きの女子たちが、チラチラと俺の方を睨みつけながら、わざとらしい賛辞を上げる。

美咲はフンと鼻を鳴らし、勝ち誇ったような顔で俺の席へと歩み寄ってきた。

「ちょっと、佐藤くん。昨日いろいろ言ってたけどさ、結局そういうのって、うちのパパの会社みたいに『本物の大企業』には関係ないのよね。だって、パパの会社はお金もいっぱいあるし、何たって海外の会社からも頼られてるんだから!」

美咲は腰に手を当て、上から目線で俺を見下ろした。

どうやら、昨日俺にたしなめられたのが相当悔しかったらしく、父親の会社の社会的ステータスを持ち出すことで、崩れかけた自分の学園カースト(プライド)を再構築しようと必死なのだろう。

「へえ、それはおめでとう」

俺はカバンから教科書を取り出しながら、感情の起伏を一切交えずに淡々と返した。

「な、何よその態度! 悔しいんでしょ? 佐藤くんの家なんて貧乏だから、ハワイなんて一生行けないもんね! 謝るなら、今のうちだけど?」

「謝る? 何をだ?」

「昨日、私に恥かかせたことよ! 白雪さんみたいな根暗の味方して、私に逆らうからバカを見るのよ!」

美咲のトーンが一段と高くなる。クラス中の視線が、俺と美咲の間に集中していた。

その時、俺の斜め後ろの席に座っていた華が、小さな手をぎゅっと握りしめ、怯えたように肩を震わせているのが見えた。まだ、美咲の放つ攻撃的な毒気に恐怖を感じているのだ。

俺は、美咲のヒステリックな声を完全に無視し、華の方を向いて穏やかに声をかけた。

「おはよう、白雪さん。体調は大丈夫か?」

「あ……さ、佐藤くん……っ。お、おはよう……ございます……。わたしは、大丈夫、だけど……その……っ」

おどおどと前髪の隙間から俺を見上げる華。美咲は、自分が完全に無視されたことに激昂し、俺の机をバンと両手で叩いた。

「ちょっと! 無視しないでよ佐藤くん! 白雪さん、あんたも調子に乗らないでよね! あんたが描いてる変な絵なんて、うちのパパの会社なら、ゴミ箱にポイって捨てるレベルなんだから!」

「……っ……!」

華が傷ついたように顔を伏せようとした、その瞬間。

俺の脳内で冷徹なスイッチが、カチリと切り替わった。

俺はゆっくりと立ち上がり、美咲の目を真っ直ぐに見据えた。

笑顔は一切ない。修羅場のデスマーチを幾度も潜り抜けてきた大人の威圧感が、十二歳の身体から静かに、しかし圧倒的な密度で溢れ出す。

「高橋さん。君のお父さんの会社が、アメリカのどの企業と、どんな『お仕事』をする予定なのか、正確に言ってみてよ」

「え……? そ、それは……パパが、アメリカの、すごい通信の会社だって……」

「具体的な企業名も、契約の内容も言えないのに、それは本当に大企業なのかな? 一九九五年現在、日本の弱小受託会社がアメリカのテック企業と対等に組むなんて、技術的リソースの観点から見てもほぼ不可能なんだよ」

「な、何よそれ……わけわかんない専門用語で誤魔化さないでよ!」

「誤魔化していない。ただの現実だよ。君が誇っているその砂の 城(ステータス) は、君自身の価値ではない。他人の褌でしか相撲を取れない人間が、自身の品性を削ってまでクラスメイトの才能を貶める。……それこそ、笑いものだ」

俺が一歩踏み出すと、美咲は蛇に睨まれた蛙のように、ひっと小さく息を呑んで後ずさりした。

「これ以上、白雪さんの絵を侮辱するな。君の父親の会社が一生かかっても生み出せない本物の価値が、あのスケッチブックにはある。君の薄っぺらいプライドを満足させるために、彼女をこれ以上巻き込むのはやめてもらおうか」

「……っ、な、何よ、何よそれ……っ! パパに言って、あんたの家なんて、めちゃくちゃにしてやるんだから……っ!」

美咲は顔を真っ赤にし、涙目で捨て台詞を吐いた。しかし、周囲の取り巻きの女子たちは、俺のただならぬ迫力に完全に怯え、美咲を助けようともせず、すっと目を逸らして距離を置いている。

「ハワイ旅行、楽しんでくるといい。……ただし、その旅費を払うお金が、いつまで君の家に残っているかは保証できないけどね」

俺が冷淡に言い放つと、美咲は悔しさと恐怖で身体を震わせながら、逃げるように自分の席へと走り去っていった。

取り巻きたちも蜘蛛の子を散らすように散り、美咲の周囲には、誰も近づこうとしなかった。

チャイムが鳴り、教室に朝の平穏が戻る。

俺が席に座ると、後ろからツンツンと制服の袖を引く感触があった。

「あの……さ、佐藤くん……っ」

華が、まだ少し震える声で、だけど今度はしっかりと俺の目を見て、一生懸命に言葉を紡いだ。

「また、たすけて、もらっちゃった……。高橋さん、すごく怒ってた、けれど……佐藤くん、わたしのせいで、意地悪、されちゃわない……?」

自分よりも、俺の心配をしている。その不器用な優しさが、俺の胸を温かくした。

「気にするな、白雪さん。あんなのはただのノイズだ。君の絵を守るためなら、何度でも戦うよ」

「……そんなことして大丈夫なのかな? でも、佐藤くんがそう言ってくれると……なんだか、すごく、安心、するな……っ」

華は前髪の隙間から、ほんの少しだけ、穏やかな灯火のような笑みを浮かべた。その頬が、ほんのりとピンク色に染まっていた。